STAND BY ME

生きることにちょっと 不器用な子どもたち、もと子どもたちの 短いお話を 綴っています

茉莉花の家 (さかなの目6)

もう書き切って終わったつもりだった千波とおとーさんの話ですが また出て来てしまいました。と言っても初めて読む方もいらっしゃるだろうと、少し「今までのお話」も書きこんでみました。(全部続けて読むと、若干設定が「?」なこともあるのは秘密です)。
いつから書いてるかって・・・?
確認したいキトクな方はこちらへ。
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引きこまれる。

写真の束は、押し入れの奥の紙箱の中に 無造作に入れられていた。
一枚一枚並べてみると、どれも皆、寂れた場所や建物、その一部分などだ。写真の四角い枠の中、時計の針を止めて息を潜めているみたいだ。それでも目に映る以上の奥行きや広がりを感じるのはきっと、そこがただの「死んだ場所」とはどこか違うからだろう。中に入って目を凝らし耳をすませば、気づかなかった密やかな息遣いが聞こえてくるのかも知れない。
「引き込まれる」。その言葉だけは その写真を目にした瞬間千波の中に生まれて、間違いなくすとんと落ち着いたものだった。

「結局、ちっともお片付けになってないじゃない」
部屋のドアのところに立ったまま 笑いながらお母さんは言う。「お片付け」なんて子供に言うような言い回しは相変わらずだ。お母さんも身に覚えがあるのだろう。大掃除や片付け、なんて言いながら たまたま手にした懐かしいものに見入ってしまう。気づいた時は時間だけが吃驚するほど過ぎていて、結局その日は懐かしいものを見られたことに満足して、散らかしただけでみんな元に戻してしまうのだ。
でも、今回の千波の場合は少し違っていた。

「そんなところに残っていたなんてね」
そう言いながらお母さんも部屋に入って来て千波の横に座り、写真を一枚一枚手に取って見る。
「誰が撮ったの?」
「誰だと思った?」



「ここに行ってみたい。お母さん、どこだか解る?」
一番心惹かれたのは うっそうとした樹々の中の洋館の写真だ、壊れかけた鎧戸、丈高い草に覆われた蔦模様の門扉、それでも屋根の風見鶏はその日の風向きを示し、ステンドグラスの丸窓は木漏れ日を受けて輝いている。繁みをかき分けて進む小道の先は静かに光る海、そんな風景の連作だった。
千波が聞いた時、お母さんは「写真を撮ったお父さん自身」に場所を教えてもらえばいいと、拍子抜けするほど軽い調子で言った。
千波が中学を卒業するのと同時に二人は離婚している。その後のお母さんは随分と生き生きとして、趣味に仕事に忙しく過ごしている。それまでの中途半端な父親不在の日々がお母さんを苦しめていたことを千波はその時改めて気づかされたのだ。自分のために結論を先延ばしにさせたと、その頃は随分申し訳ない気持ちになった。二人が別れてからも、連絡も取れるし会うのを止められているわけではない。けれど、だんだんお父さんと疎遠になってしまっているのは確かだ。
千波にとって「優しいお父さん」は他の女性にも優しかった。会社の部下という女性が家に来て、夕食を共にした日のお母さんの固い表情と凝った手作りのメニュー、幼い千波でも感じた気まずさと緊張感は忘れることができない。結局お父さんはその女性のところに通うようになり、だんだん帰らない日が増えた。
あれから何年経ったんだろう。


一人で行く、と電話で言ったのに お父さんは駅で待っているようにと言って聞かなかった。
「女の子の一人旅なんて心配だし…千波、父さんが案内するよ」
「いいよ、心配ないよ。場所だけ教えてくれたらいい」
そう言ってもお父さんは も三十年近くも前の写真だから住所もはっきりしないし、色々変わっているかもしれないし…と ぐずぐず言い続けた。そして結局この人は自分で勝手に決めるのだ。
「一緒に行こう。うん、それがいい、そうだ、そうしよう」
「じゃ、行かない」
子供時代の拗ねた自分は卒業したつもりだった。けれど、相変わらずお父さんと喋ると 素直な言葉は出てこない。不貞腐れた言い方しかできない。勝手に離れて行って、寂しがらせて、「色々と悪かったな」で済ませてしまえるこの人の神経の太さには何度も呆れさせられている。メールも電話も大歓迎だと言って憚らない。手放した娘と久しぶりに会うのも怯まない、皮肉も拒否の言葉も全然聞こえていない。でも、お父さんにはもう、新しい「家族」がいる。

時計を見ると、約束した時間の少し前だ。お母さんだったら絶対に来ている時間だな、と思う。お父さんはきっと遅い。強引に待ち合わせを決めたくせに。

「とおるさんを待っているんですよね」
いきなり声を掛けられた。中学生くらいの女の子。あの人を「とおるさん」と呼ぶのを聞いて思い当たる。高校三年の夏、探し当てた先でお父さんが一緒に暮らしていたのは、若い部下でも派手な化粧の女性でもなく、地味な酒屋の女店主だった。まだ幼い姉妹を女手ひとつで育てている人だとお父さんは説明した。偉い女性だ、と。
「電話で話しているの、聞きました。一緒に旅行…ですか」
何かを決意してやって来たという、意気込みが見える。しっかりした子だと思う。いきなり近くまで訪ねて行った時、ちらとすれ違っただけなのに、一瞬こちらを真っすぐ見た、その目を覚えている。お父さんに甘えて、「おとうたん」と呼ぶ幼い妹に「『とおるさん』だよ」と訂正した。あの頃はこの子だってまだ小学生だったはずだ。
何と答えたらいいのか千波が迷っていると、後ろからお父さんの姿が見えた。
「おう、千波 待たせた…かな?」
まだ暑いのにジャケットに黒い細身のジーンズ。サングラスなんか掛けて、お洒落して来たのかと思えば足元は履き古したサンダルだ。千波の横にいるもう一人の姿を認め、笑顔が一瞬固まった。動揺しているのが解る。それでもさすがに気持ちの切り替えは早い。
「あれ、ナツじゃん。今日は部活じゃなかったっけ?」
ナツっていうのか、千波が名前を確認しながら少女を見直す。「ナツ」はお父さんの声を聞いて、いきなり弱気になったみたいに俯いている。お父さんはお父さんで、慌てて話を繋げてこの場の空気を軽くしようとする。この人はいつだってこういう人だ。
「なぁんだ、なんだ?あれれ、二人、仲良しになっちゃってるわけ?父さんの知らないうちに。いやぁ、参った、参った。千波 お姉さんだもんな」
何が 参った 参っただ、馬鹿みたい…千波は横を向き苦笑いする。ナツは生真面目に表情を崩さない。
「ナツも一緒に行くか?大歓迎、『おとうたん』企画のミステリーツアーだぞ」


何だか微妙な空気のまま、電車に乗り込む。最初のうちは車内もそこそこ混んでいたので、なるべく離れて立った。けれど、お父さんが買った切符の行先はずっと先で、駅ごとに乗客は降りていくばかりだ。席が空いたとしても自分だけ離れて座ろうと思っていると、お父さんが大げさに手を上げて呼ぶ。
「こっち、こっち、ほら千波、ナツ」
進行方向に向かって二席ずつ並んだ座席の1組を指して ナツと千波を座らせようとしている。あの子はどうするだろう、千波が振り返ると、勧められた席の窓側に迷う様子も無く座った。その横の千波の席を空けたまま通路を挟んで隣の空いた席にお父さんは腰を下ろす。
「ごめん、窓側、替わってもらっていいかな」
ナツに声を掛け、席を替わってもらった。外が見たいわけじゃない。二人の間に入りたくないだけだ。

よくこれだけ用意したと感心するほど、お父さんの鞄からはお菓子や飲み物が出てくる。何種類目かの飴玉が「千波の分もね」と言いながらナツに差し出された時 千波はとうとう口を挟んだ。
「もういいよ。そんなに次々食べられないし。ナツ…ちゃん、困ってる」
断りの言葉も言えず 次々と千波の分まで受け取るナツを見かねてのことだ。この二人の関係は未だにこんなだったのだろうか。こんなに気を遣い、遠慮しながらナツはこの人の入って来た家庭で暮らしているのだろうか。

「寝ないでよ、行先だって知らないんだから。降りる駅も解らないし」
お菓子を断られてちょっと拗ねた顔して黙り込んだお父さんが 目をつぶるのを気にして千波が声をかけた。
「ばーか。こんな楽しい旅行で寝るわけないじゃん。可愛い娘二人と一緒なんてさ。ああ、リクも来たかっただろうなぁ。誘ってやればよかったな。なぁ、ナツ」
聞こえないふりなのかナツは答えない。大きな声で通路を挟んで喋るのでお父さんの隣に座った若い女性は迷惑そうだ。さっきお父さんは飴を薦めて断られた。当たり前だ、千波は思う。

窓外の景色はだんだん田園風景だけになってくる。いくつかの長いトンネルも抜けた。心地よい揺れに案の定お父さんは小さな鼾をかいて眠り始めた。自分も眠ってしまおうか、このまま皆眠ってしまって終点まで起きないで、目的地にも行けないまま引き返してもいいや、そんな気持ちにもなった。
本当のところ隣のナツの緊張が伝わって眠れやしない。待ち合わせの場所にやって来てどうするつもりだったんだろう。何を考えて付いてきたんだろう。窓の外を見ているふりをして考えていた。

「やっぱり仲がいいんですね。」
ナツがぽそりと言う。
「待ち合わせの約束をしている電話の様子で、きっと相手は千波さんだと思いました」
そんなの解らない。新しい浮気相手かもしれないじゃない、あの人は相変わらずそういう人なんじゃないの?それとも幾分は落ち着いたのかな──少しだけ意地の悪い問いかけをしたくなる。そんな思いを振り切って そうだ、私はこの子より「お姉さん」なのだ、と思い直す。もちろんただの「年長者」という意味で。
「夏休みだし、ちょっと片付けものをしてたらね、押し入れの中からこの写真が出て来たわけ」
鞄からクリアファイルに纏めた写真をナツに見せた。受け取ってナツは一枚一枚黙って見つめている。
「あの人が若い頃写真が趣味だったってこともすっかり忘れてた。どうしてここにあるかとか誰が撮ったものかとか考えるより、いきなり、こう…『引き込まれる』って、そう感じた」
「『引き込まれる』…ですか」
ナツの横顔からは何の感情も読めない。ただ一心に写真を見つめている。
「廃墟とか、さびれた場所とか、そういうの、お好きなんですか?」
長い沈黙の後、ナツの口からやっと出た言葉がそれだ。
考えたこともない、どんな場所が好きだとか、心惹かれるとか。好きで、大好きで、居心地のいい自分の場所が壊れた時なら知っている。お父さんが居てお母さんが居る家族の場所。それはもちろんナツたちの母親とあの人が出会うよりずっと以前の話だ。彼女たちには何の罪もない。千波もちゃんと知っている。
「なんか、この写真見ていると とおるさんってどんな人なのかまた、解らなくなります」
置き去りにされたものや壊れていくものに優しい目を向ける、慈しむように丁寧に心を込めて残す、そんな写真。それを撮ったのがあの人だ。
「私も解らないよ」
「そうですか?凄く解りあっている親子って感じがします。絆ってすごいなぁって。私にはどうしようもないなって」
千波が返事をせず黙っていると また長い間をおいてナツが話し出した。きっとこういう話を自分としたくて来たんだろう。解決できないもやもやした感情を千波自身もずっと持て余してきたのだ。ちょうどこの子くらいの年齢の頃からだ。
「一緒に旅行の計画なんてたてて とおるさんを取り戻すつもりなんですかって。今更リクから、お母さんから、あの人を取り上げないでって…言おうと思っていたんです」
そうか、そうだよな。この子はこの子で自分の家族を守ろうとしているのだ。
「リクちゃんはあの人に懐いてる?『おとうたん』って相変わらず?」
「大好きですよ、妹は。出会ったのがまだ小さかったし」
それは、自分だけがどうしても馴染めない、打ち解けられないっていうことも言っているのだろう、千波は思う。
一体どんな形なら家族全員が幸せになれるのだろう。お父さんはちゃんと考えているのだろうか。せめてこの家族のことだけでも。

「ああ、よく寝た。おお、千波、ここどこだ」
いつの間にか窓側の席の女性はいなくなっている。足を投げ出して寝ているお父さんの前を抜けて、席を立つのは大変だっただろう。気が付かなかったのは千波も少し眠ってしまっていたからだ。浅い眠りの中でお母さんやお父さんやナツやリク、ナツとリクの母親の由美子さん、隣の家の達也まで出て来て 凄く普通に喋ったり笑ったりしている夢を見ていた。そんなことはありえないのに…。まだぼんやりした頭で千波は考える。

うっかり乗り過ごすことも無くちゃんと降り、ローカル線に乗り換えた。お父さんは張り切って停車中に、走って出て駅弁を三個買ってきた。乗客もまばらな電車内でお弁当を広げる。
延々続く田園風景。離れて建った家々。ところどころにこんもりとしたお宮の森が見える。その先の遠く、一列に並んだ樹々の隙間からきらりと光るものが見えてきた。海だ。


「降りるぞ」
お父さんの掛け声にナツは手際良くゴミや荷物を纏めている。千波ものろのろと立ち上がった。
「いいところだろ。なっ」
「うん…まあ、そうだね」
物寂しい田舎の風景を見に来たはずなのに、駅前は小ぢんまりとはしているもののそれなりに観光地の駅らしい雰囲気だ。レンタサイクル屋に小さなコンビニ風の店、ペンキ塗りたてのような白い交番の前、お年寄りがベンチでおしゃべりしている。古民家はハンドメイドの店やカフェになっていて 若いカップルが店内でくつろいでいるのが窺えた。
「何か、変わったなぁ」
お父さんも口をぽかんと開けたまま右左を見回している。
「ここから 遠い?歩くの?」
千波が聞くと、
「いや…うーん…そうだな、そうそう、バスだ、路線バス」
今思い出したように言う。
行ったことがあるとはいえ、随分昔のことだ。駅周辺の変化だって当たり前かもない。地図や経路の再確認とか、せめて今その場所がまだ同じにあるのかとかすら 調べても来なかったようだ。
「だってさ、俺にとってもミステリーツアーにしておきたかったし。却って面白いじゃん、結果がタイムトリップみたいじゃなくたってさ」
ああ言えばこう言う。反省なんてしない。言い訳の達者さは相変わらずだ。

──正確に言えば二十七年前だぞ、二十七年。だって父さんは今の千波と一緒の大学生で、母さん…ああ、千波の母さんな、その、母さんも大学生で。
そこまで言って ナツの表情をちらりと確認する。気にするくらいなら話題にしなきゃいいのに。
お父さんの強引な勧誘でそのサークルに入ったとは以前にお母さんから聞いた。
「誘っておいて、出てくるのはイベントとか旅行の当日だけだし、勝手にカメラ持って別行動するし、ほんと、迷惑な人だと思った」とお母さんは言っていた。
何でそんな人と恋愛して結婚したの?という千波の質問には「なんでだったかなかなぁ」と 笑ってとぼけられたけれども。


だんだんと細くなる田舎道をバスは走り続けている。あれだけ騒がしかったお父さんが無口になっている。お母さんと付き合っていた頃のことを思い出しているのだろうか、それとも期待通りの風景を千波たちに見せられるかどうか 密かに気にしているからだろうか。
確かここだ、降りた場所は目の前にただ田畑が広がっていた。離れて建った家々は、それぞれの庭先に洗濯ものが揺れている。軽トラックの出入りが見えたり、小さい子供用の三輪車が置かれたりしていて穏やかだけれど確かな生活が営まれている、そんな村の風景だった。
「いいところですね」
「だろ?ナツも気に入ると思ったんだ」
景色に見とれているふりをしながらお父さんは考えている。記憶とどこか違うのか、戸惑っているのが解る。
「で?」
「まあ千波 急かすな、そうそう…こっちだ」

海の近くのはずなのに、まだ海は見えない。確か電車の窓から見えた感じでは 降りた駅の方が海に近かった気がする。
「海の近くじゃなかったっけ?」
千波が問うと、
「ああ、そう、そうなんだ。千波はよく知ってるなぁ。うん、でも、まだちょっと遠い…かな」
何とも頼りない。それでも、方向を定めてお父さんは歩き出す。ぽつりぽつりとあった民家も遠くなる。千波とその少し斜め後ろをナツが付いて行く。
「コンパとかテニスとかボーリング大会とか色々、ちゃらちゃら遊ぶ、大学によくあるサークルだったけどな、たまに行く旅行の行先だけは少し変わってたんだ。過疎の村とか田舎によくある「ナントカ銀座」めぐりとか「ナントカ富士」捜しとか。誰の趣味だったのかな」
歩きながらお父さんが思い出話を始める。千波は今までにも聞いたことのある話だ。
「あの頃の母さん、可愛かったぞ」
「そんな話はいいよ」
自分のことを気にしての千波の言葉だと思ってか、
「私、聞きたいです。とおるさんの…若い頃の話」
ナツが珍しく大きな声で口を挟んだ。一瞬の沈黙。二人に振り返られてナツの耳のあたりが赤くなり語尾が少しずつ小さくなった。
サクサクサク。舗装された道が細くなりやがて無くなった。歩くと草を踏む音が聞こえる。世界の中で自分たちだけが動いているような感じだ。沈黙に耐えられないのか、話が途切れるとお父さんは鼻歌を歌う。昭和の歌謡曲とかフォークソングの類だ。ナツは特に質問も挟まず、かと言って先を促すこともせず、お父さんのとりとめのないサークルの思い出話を聞いている。話はオチがないままでなんとなく終わったり、どこが面白いのか解らないのにお父さん一人で笑ったり、途中で続きが本人にも解らなくなって途切れたり、いい加減この上ない。ナツにとって面白い話なのかをお父さんでも少しは気にしているのだろうか。まさかね、そんな気遣いのできる人じゃない。

「あの写真の場所は、たまたまオレが見つけたんだけどさ。一人で勝手に遠くに来すぎて迷子になっちゃったんだな」
「サークルみんなで来たとかじゃないの?」
「さっきの駅から反対側に行った、海の近くの民宿に泊まってたんだ。一人でふらっと出て 海沿いに歩いてさ、ここまで来て、たまたま見つけた」
「迷子なんて…大学生のくせに。じゃあ海沿いに戻れば帰れたんじゃないの」
「それがさ、そうでもなかったんだな。戻ろうとしたのに気づいたら海からも離れてたし。当時ってケータイ無いじゃん?ああ、どうしよう、困ったなと思った時 探しに来てくれた母さんの姿が見えた。」
いやあ、女神様に見えたなぁ…この調子でお父さんの話は続くのだろうか、と思った時
「あっれぇ」
お父さんが素っ頓狂な声を出し立ち止まった。
「ここ、ですか?」
ナツもきょとんとした顔のまま立ち止まる。「少し感じが違いますね」

鬱蒼とした樹々の中の写真以上に朽ちた洋館、それとも、もう跡形もない、そんなことも想像していた。新しい家が建っているとか、周辺一帯がどこにでもあるような住宅地に様変わりしているということだって考えられた。けれど目の前の景色は想像のどれとも違っていた。

「WELCOME ようこそ ふれあいサロン茉莉花へ」
掲げられた手作りの木彫りの看板、門から敷地内はすっきりと整えられ、手作りの花壇、寄せ植え、ガーデニング雑貨で飾られている。よく見ると建物自体の造りは写真と同じだ。明らかに違うのはあの空気感だ。
玄関までのレンガ道に沿って沢山の白い小さな蕾をつけた鉢がいくつも並んでいる。風に乗ってふわりと花の香がした。
「あ、いい香り」
千波が言うとお父さんは嬉しそうに屋敷の方に鼻をひくひくさせる。
「おお、コーヒとクッキーだな」
ナツは花の傍まで寄り、開いた花に顔を寄せた。
「ジャスミンですね。マツリカの花。夜になったらもっと沢山開いて香りも強くなります」

「『WELCOME』ってんだから、歓迎されてんだよ。中入ってみよう。「サロン」って店か何かかな」
さっきまで口をあんぐり開けていたくせに お父さんはもうドアまで進み、ノブに手を掛けて中をのぞいている。
「あら、珍しい。若いお客様」

人影に気が付いたのか中からドアを半分開けて 白髪の女の人が顔を出した。お父さんが招かれるままに中に入る。目の前に左右に分かれた大きな階段、赤い絨毯。白い花をモチーフにした窓のステンドグラスはあの写真と同じだ。通されたリビングでは、黒光りする大きなテーブルを囲んで数人のお年寄りがお茶を飲みながら折り紙や手芸を楽しんでいる。洋館にふさわしい雰囲気の先ほどの老婦人とは違い、ごくごく普通のお年寄りたちだ。所狭しと飾ってある手芸作品もちりめん細工や木彫り人形、着物の生地で作った袋物、焼き物の湯飲み、折り紙やチラシを利用した小物入れなどで 洋館の内装に合っているとは言い難い。老婦人がお茶を運んできて 窓際の小さなテーブルに三人を呼んだ。大きなテーブルから絶え間ないおしゃべりの声とひときわ大きな笑い声が聞こえる。
「賑やかでしょう?皆地域の方たちなの。今日は沢山来てくださって」
地域のお年寄りの集会所、「ふれあいサロン」として 自宅を開放していると老婦人は説明し、柔らかな笑顔で付け足した。
──たまたま通りがかった人にも気軽に休憩所として使って貰っているの。お客様は大歓迎なのよ、今日みたいに、ね。
はあ、はあ、そうなんですか、それは素敵ですね…あいまいな相槌を打ちながらお父さんは片手で鞄の中を探っている。古い写真投稿誌を持って来ているのは知っていた。その投稿誌に月間賞作品としてあの写真が掲載されていることも千波は聞いている。お父さんのことだ、すぐに自慢げに言い出すのかと思ったがそうではなかった。

三人のちぐはぐな服装や荷物をちらりと見て老婦人は穏やかに笑いながら言う。
「遠くから来られたの?旅行、っていう感じでもないわね」
三人の関係を問われたら何て言えばいいのだろう。微かな不安を感じながら千波は壁に飾られた幾つもの写真を見ていた。
「素敵なお住まいですね。」
落ち着いた声で切り出したのは意外なことにナツだ。
「洋館はお好き?中をご案内しましょうか?」
はい、はい、ぜひ…鞄からカメラを出してさっさと立ち上がろうとするお父さんをナツが小声で「とおるさん」とたしなめた。

千波の視線が家族写真らしい一枚に向けられたままなのに気づき、老婦人が写真立てに入ったものをテーブルまで持ってきてくれた。
「この小さな女の子がわたし」
黒髪のおかっぱの小さな女の子が難しい顔をして立っている。そのそばの大きな肘掛け椅子に西洋人の紳士が座り、女の子の傍らにやはり西洋人の女性がこちらを見て微笑んでいた。
「養女だったの。優しいお父様、お母様。でも、ちっとも打ち解けることができなくてね。」
隣に座ったナツの身体がほんの少しだけれど固くなるのが千波に伝わった。
「打ち解けないまま、私は遠方の学校を選んでここを出たの。あなたくらいの歳から。」
老婦人はナツの方を見て言う。
「二人には、亡くなるまで寂しい思いをさせたままになってしまったわ。結局私、甘えていたのね、この人達の優しさに」
また大きなテーブルの方からひときわ大きな笑い声が響いた。中心には人慣れした猫がいる。三人が黙り込んでいるのに気が付いて 老婦人は少し慌てた様子で明るい声を出した。
「ごめんなさいね。歳をとると、つまらない昔話をしたがるもので。」
「いえ…でも、あなたはここに戻ってこられたんですね」
ナツが老婦人に対し「あなた」という言葉が言いにくそうなのを気遣って
「茉莉、皆さんには『マリー』って呼んでもらっています。父と母がそう呼んだから」
漢字ではこう書くの、マリーさんはテーブルに指で『茉莉』と書いて見せた.
「ジャスミン、マツリカの茉莉ですね?」
「よくご存じなのね。庭の鉢植え、お気づきになった?もともとは父と母が私の名前にちなんで庭に植えたの。そしてあれもね」
指さされたのはあのステンドグラスだ。家の中から見ると中心の茉莉花の白い花と周囲の赤や緑の硝子が光を通して一層美しい。

お父さんの手が 話の間ずっと鞄の中の雑誌に触れていて、出そうとしたりひっこめたりを繰り返しているのが千波の席からは見える。
「その写真誌、私も持っていますよ」
マリーさんがお父さんの方に向き直って言った。お父さんの手元に気づいていたのだろう。
「驚いたわ。私の家が写っているんだもの。雑草と蔦、破れかけたガラス窓。打ち捨てられた姿で、それは寂しげで。私、泣けて仕方なかった。」
同じ一枚の写真でも被写体の中に取り返せない思い出と そこにはもう居ない誰かを想う人がいる。白い花に、ステンドグラスに、大切な想いが込められている、千波は自分があんなにも「引き込まれた」理由が解ったような気がした。

「ずっと戻らないうちに荒れ果てていたわ。肝試しに使われたり落書きされたり泥棒にあっていたり…。」
「そっ、それって勝手に撮られた写真が雑誌に載ったから…ですか?」
明らかに焦っている。お父さんの顔が珍しく引きつった。
「その前から荒れて廃屋みたいになっていたのでしょ?その人はたまたま見つけただけで」
お父さんの顔を真っすぐ見るマリーさんはちゃんと解っている。そしてにこやかに付け加えた。
「いい写真ね。写真のお陰で改めて解ったの。この家がどんなに素晴らしいか。どんなに大切か」
叱られた時みたいに縮こまっていたお父さんは、許された子供みたいにほっとした表情を隠さない。解りやすい人だ。
「大事な場所を手放したままにしたことを悔やんだわ。だけどね、よく見ると庭の花が、茉莉花が写っていて、生きているのが解ったの。寒さに弱い花なのに。戻ろう。戻って人の集まる温かい場所にしよう、身寄りのない私を引き取って幸せにしたかった、両親のその気持ちを今度は私が誰かに届けよう…」
だから、と言ってマリーさんは少し間を置き、お父さんにもう一度向き直って、明るい表情を見せた。
「写真を撮ってくれてありがとう。って、ずっとあなたに言いたかったのよ、『とおるさん』」


帰りのバスと電車ではお父さんは疲れたのかずっと眠りこけていた。様変わりはしていたけれどちゃんと屋敷はあったこと、思ってもみなかったけれど自分の写真がきっかけとなり家が活気を取り戻したことに とても満足した様子だ。歩きながらずっと鼻歌まじりで、「良かった、良かった。」を繰り返していた。迷子にもならず、娘たちを無事に連れて行けたことに安心したのもあるだろう。

座席はたくさん空いていたが、ナツが窓際に座り、隣の席を千波に、通路を挟んで隣をお父さんに薦めた。うとうとと船をこぎ始めているお父さんに声を掛け、ナツは鞄を貸してほしいと言った。眠そうな目のお父さんが「何?」と聞きながら千波越しに鞄を渡す。
「雑誌見たいです。今日撮った画像も。あと、お菓子もらいます」
「いいよ、好きにして。ナツになら何だってあげちゃうよぉ」
眠いと更に調子よくいい加減なことを言うのだ。知らない人が見たらほとんど酔っ払いだ。
鞄を受け取るとナツは膝の上に一個ずつ確認しながらお菓子を出して並べた。場所が足りなくて、千波の膝も使う。
「よくこんなにたくさん持ってきましたね」
「まるで遠足のこどもだね…ああ、遠足のおやつならこんなに買えないか」
ナツが頷きながら微笑む。千波も笑う。

別れ際、マリーさんは、「お願いが一つだけあるの」とお父さんに言った。「幸せな家」の写真を撮って欲しいの。
カメラを鞄にしまい込んだまま、お父さんは一枚も写真を撮っていなかったのだ。ステンドグラス、茉莉花の花を入れることはもちろん、ご婦人たちのはじけるような笑顔に向けてお父さんはシャッターを切る。屋敷の前でマリーさんに促されるままセルフタイマーで撮った写真には、お父さんと千波とナツも写っている。

千波が手を延ばし、例の投稿誌を取ってページを探す。確か、賞を取ったあの写真には若い作者の名前と短いコメントが添えられていたはずだ。
「結果オーライってやつかな」
「そうですね」
ナツが声をたてて笑った。

まだまだ夏だと思っていたのに窓外の景色はどこか季節の終わりを感じさせ、太陽の光には僅かに秋の角度がついている。千波たちの住む町に列車が近づくより早く、夕焼け色に染まった空にだんだん藍が広がっている。間もなく優しい夜がやって来る。
ナツが静かな寝息をたてはじめた。傾いたナツの頭が千波の肩にこつんこつんと当たる。顔にかかった黒い艶やかなナツの髪を、千波は指先でそっと直してやる。
ジャスミンの香りがふわりとしたような気がした。
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夏のワルツ~サティさんの話をしよう

「小学生の話はとっ散らかって纏まりがない」と自分で書いてますが、まさに私のこの話こそ とっ散らかってるなーという思いはぬぐえません。出てくる2曲の旋律を右手と左手で被せて弾けるか試してみましたが上手くいきませんでした。またトライしてみよう。

第68回 Mistery Circle お題

●彼は両手の中のものを、そっとわたしの中に移し替える。
●「土になんか埋めてほしくないんだ」

お題出典:「 まぶた 」 新潮文庫 著:小川洋子

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――手を出して。
彼が目でそう示す。そのサインはたぶん私にしか解らない。
彼は両手の中のものを、そっとわたしの中に移し替える。 そのまま彼は静かに目を閉じた。
すっかり安心した寝顔を私はただ見守っていた。その数日後 彼は旅立った。

*
彼、の話をしよう。
初めて出会ったのはもう10年以上前のことになる。そして 会うことがなくなってからの長い時間 彼の消息について私は何も知らなかった。
聞いたことも無い遠い田舎町の病院に入院している、もう長くないのだと彼の親戚という人からメールが入った時の驚きは言い表せない。 どういうご関係の方かも存じませんし こんな連絡もご迷惑かもしれませんが…と、メールの送信者さえも 彼のことをよく知らない様子だった。

「誰?どういう人?」と聞く夫に、説明する言葉が上手く見つからなかった。
今は使うことも無いそのフリーのメールアドレスと名前を書いたメモを彼に渡したのは、彼と私たちが過ごしたあの夏だ。自分の携帯も無く、家のパソコンを家族の目を気にしながら使う中学生の私と、携帯はもちろんパソコンを使うのかどうかも知らない彼との間を繋ぐそのアドレスは 今日のこの日まで何を伝え合うこともなかった。そんな古いメモ書きを大事に彼が持っていてくれたなんて、思いもしなかった。そしてそんな受信トレイを、その日偶然に開いたのも奇蹟のようなことだった。

*
彼の話を、しよう。
それまで彼のことを私は何も知らなかった。
あの時私は中学生で よく学校をさぼってはあてもなくふらふらと歩きまわっていた。放課後の時間も夜遅くまで、なるべく家にいないようにしていた。家にいても学校にいても窒息しそうな自分を持て余していた。
隣町の、初めて歩く細い路地で初めて見た彼は 丈の長い白いシャツとゆったりとしたデニムのパンツにサンダルというラフな姿だった。胸ポケットから片耳に繋がる白いイヤホンからは何が聴こえているのだろうか、時折目をつぶって聴き入っている。時間の流れがそこだけ違っていて、心はもっと別の世界に居る、そんな感じがした。一瞬で「普通の大人」とは全然違っているのが解った。
すぐに近づきになりたいと思うほど興味を持った、ということではない。何故こんなところで立ち止まっているのか、見下ろしている深い溝に何かいるのか、気にはなったがそんな素振りは見せないで通り過ぎるつもりだった。押した覚えはない。掠ったということも無いはずだ。が、驚いたことに次の瞬間 彼は溝に入ったのだ。「落ちた」というには動作が緩慢で 「降りた」というには つんのめった様子で、足元もおぼつかない。ほおっておけ、関係ない、と気づかないふりをして去るはずだったのに、声が先に出てしまったのだ。

気まずいと思う間もなく、相手は少し首を傾げてこちらを振り向き、真っすぐに視線を合わす。慌てて言葉を探した。「な…何かいるの?」
相手は答えないまま すっと屈んで手を水の中に入れ、両手で何かを掬うようにして持ち上げた。溝に立ったままその手を私に差し出す。溝の上から私はそれを見下ろす。
何か大事なものを包み込むように合わせた両手を 高くかかげ、彼がそっと開く。ほんの一瞬、開いた掌からきらきらした透明なものが空に向かって昇っていくのが見えたような気がした。 
*
それから何度か 同じ町の色々なところで彼を見つけた。私は彼に会いたくて、いつもその姿を探していた。あの人の澄んだ目をもう一度見たい、あのきらきらしたものは何だったのか教えてほしい、そう思った。
舗道の脇で、公園の植え込みの前で、スーパーの駐車場で私は彼を見つけた。ひょろりと高い身長と、目を隠すように伸びた柔らかそうな茶色の髪、いつもの白いシャツが目印だった。何よりどんな騒々しい音のする場所でも人混みでも、彼の周囲の空気だけ静かに止まったように見える。何者にも邪魔されない世界で彼は一人佇んでいた。

何をしているのか 彼が何者なのかを知る機会が訪れたのは偶然で、教えてくれることになったのは 小学生の男の子たちだった。
嫌がる素振りも見せないのをいいことに、だんだん遠慮無く傍に寄るようになり、好きなだけ彼について歩くようになった私を 少年たちが遠目に見ていることは気づいていた。
「ゾ・ン・ビー」
ある日 一人の少年がそばを駆け抜けながらそう言った。聞き違いかと思ったが また別の日にも その友達と思しき少年が道路の向こう側から 同じ言葉をこちらに向けて叫んだ。そして ある日、私が一人で歩いている時に「ゾンビのカノジョー」と言いながら 数人の少年が私の傍を駆け抜けた。

彼らを以前見かけた児童公園で待っていると予想通りさっきの少年たちがやってきた。私を見つけた一人が連れの子供に耳打ちして くるりと回れ右して逃げ出そうとした。サボっているとはいえ一応陸上部員だ。足は私の方がはるかに速い。遅れて走っている二人を一度に捕まえることができた。
息切れしながらも笑っているやんちゃそうな茶髪と、小太りで泣きそうなもう一人、二人の頭を抱え込んだまま 後の仲間も戻ってくるように呼んだ。別に怒ったりしないから、ちょっといいかな。
4人の子供を前にして私は 残念ながら私は「カノジョ」ではないどころか あの人のことを何も知らないのだ、と告げ、何か知っているなら教えてくれと 実にフレンドリーに話しかけた。 4人も抵抗を諦め、互いに目で合図しあうと、私に向かって話し出した。気を許しだすと後は早い。
小学生は一斉に喋るし 一人が言えばもう一人が否定するし とっ散らかって纏まりがない。それぞれが「聞いた話」を好き勝手に喋り出す。それでも 彼が「ゾンビ」と呼ばれていることと、その由来はなんなく掴めた。

「あちこちの墓場から出て来るのを見たひとがいるんだ」「頭から血、ダラダラ垂らして 血だらけの服で歩いていたことがあるって」「あいつの母ちゃんの葬式の時、騒いで邪魔して滅茶苦茶にしたんだって」「墓を掘り返してたって。見た人がいるんだ。土ついた手のまま こう・・・」「ぎゃーっ」

きっとそれぞれに想像以上の事情があるはずだ。お母さんを亡くした子供がお別れが辛くて葬儀を邪魔することだってあるだろう。お墓にいたのだって、血を流していたのだって 噂が本当ならば何か理由があるに違いない。そういうのって関係ない人たちが面白おかしく話のネタにするなんて、ひとを傷つけるあだ名でからかうなんて、良くないことだと 年長者として子供たちに言うべきことは後から考えたら沢山あった。けれどその時は、それがどんな情報であれ彼のことを少しでも知ることができたことの方が大きくて、少年たちにアイスなんかおごって またね、と別れてしまった。ただ彼のことを考えたり、直接話しかけたりするとき「ゾンビ」はあんまり宜しくないと思い、次は名前を知りたいと思ったのだった。
*
すっかり蒸し暑くなった。学校は夏休みに入っていた。
「今日は雨降るよ、夕立。」「傘なんか持って歩いてないよね」「私、二つ持って来たんだ、準備いいでしょ」いつものように 公園の植え込みの前に彼を探し当て、私は話を続ける。全く私の声が彼に届いていないとか、鬱陶しく思われているとかではないことを勝手に信じていた。
「何をいつも聴いているの?」ポケットには今時珍しい旧式のカセットテープレコーダーが入っていて、イヤホンはそれに繋がっていた。
「聴きたいな、私も」
そう言うと、彼はゆっくりとした動作でイヤホンを外し、私に差し出した。私への初めてのはっきりした反応に驚きつつ、とても嬉しかったことは忘れない。
イヤホンからは女の人の声と、その後ピアノ曲が流れた。
『お母さんの大好きなサティを弾きます』後ろで子供の楽しそうな笑い声も聞こえる。話し声は優しく、ピアノの曲は聴いていると波に揺蕩っているような、心地よい気持ちになるワルツだった。「お母さん」の声と音楽を共有できたこと、それを彼が私に許してくれたことが嬉しかった。距離がうんと縮まった気がして、それ以降、毎回更にいろいろと話しかけた。やはり彼はほぼずっと無言ではあったけれど、たまに小さな相槌やかすかな表情の変化を見せてくれるようになった。だが そういうのもまだ一瞬のことで、その後は傍にいるのにどこか違う世界に居るような彼に戻る。名前も聞き出せないままだったので 彼を勝手に作曲家の名前を借りて「サティさん」と呼ぶことにした。

サティさんが立ち止まるとき 彼の視線の先を気を付けて見ると そこには見逃しそうな小さなものの「死」があった。まだかろうじて生きているものもあったけれど、お腹を上に向けた小さな魚や 身体から液を垂らして動かなくなったバッタや、何かに轢かれたのか片羽が破れ、アスファルトに張り付いたような蝶もいた。
最初に彼を見た日もきっと 溝の中にそういう生き物がいたのに違いない。彼はそういう生き物を見つけては、立ち止まりじっと見つめていた。彼はしゃがんでその小さなものにそっと触れ、目を閉じて長い間黙っていた。明らかに息絶えたものについて 私が「埋めてあげる?」と聞いた時、彼は私の声ではっと我に返ったようにこちらを振り向き、静かに首を横に振った。アスファルトの上で死んだカマキリは、花の傍にそっと移した。鳥は羽を一枚風の中に飛ばし、飛んでいくのを見送った後、銀杏の木の下に埋めた。
土に、草に、空に、水に。様々な方向に向けて 彼は手に包み込んだ何かを そっと放つ。それはきっと生き物たちの「魂」なのだ、と私は思う。そしてそういうものたちの最後の声を、どこに行きたいのか どうして欲しいのかを 彼は埋葬する前に、聞き取っていたのだ、と そう思う。

ハムスターの死骸をあの小学生たちが公園に埋めに来たところに出合ったことがある。一人の子がかわいがって飼っていたハムスターだったらしく、酷く泣きじゃくっていた。他の子たちも流石に口数少なく、項垂れている。サティさんが近づいて行って、そっと手を出しハムスターを自分の手のひらに載せ、静かにその身体を撫ぜた。厳粛な葬儀をしてでもいるような様子で子供たちは彼を囲み、彼が目をつぶると 同じように黙とうした。すすり泣く子供たちの声以外の音が一切消えたみたいだった。
ハムスターに野の花やヒマワリの種を添えて桜の木の下に埋めながら、少年の一人が古い映画の話をした。身寄りのない小さい女の子と少年が出会って、死んだ動物たちの墓地を作る話だ。「だんだん秘密の墓地作りがエスカレートして霊柩車の綺麗な十字架とか…本当のお墓からも十字架盗んで使っちゃうんだ」「なんとなくわかるかも。独りぼっちのお墓で目印もないのって寂しいもん」「だけど大人には、たちの悪い悪戯だと思われちゃうんだよね」「ねえ、ここにも何か立てておく?やっぱ十字架?」
俯きながらぼそぼそと映画の話を続けていた4人はそこで考え込んでしまい サティさんの方を振り返った。サティさんはゆっくりと立ち上がって両の手で太い幹に触れ、高い枝越しに空を見上げた。
「大丈夫。桜の木があるもの。毎年綺麗な花が咲くんだよね」
サティさんと同じに空を見上げ、拳で涙を拭きながら飼い主の少年が言った。

「で、その話はその後どうなるの?」「女の子は連れて行かれちゃうんだ。一緒にいさせてくれるって約束したのに。大人なんて嘘つきだ」
私でさえ知らないほど古い映画のようだったけれど、少年が口ずさんだ物悲しい綺麗なメロディーには聞き覚えがあった。
埋め終えるとサティさんはかぶせた土の上に長い間手を当てていたが、いつものように両手で何か掬うようにして包み込み、そのまま立ち上がった。みんなが黙ったまま彼の動きに注目する。彼は飼い主の少年の胸のあたりに向けて その手を差し出し、何かを彼に流し込むような角度でそっと開いた。暮れかけた空は夕焼け色に藍色が迫り いくつかの星が瞬いていた。
「あ…」私は思わず声をあげる.
木陰の暗がりの中、飼い主の少年の胸に向かって きらきらしたものが流れ、揺らめいて消えた…ような気がした。

サティさんと二人の時は相変わらず私が勝手に喋っているだけだったけれど、夏休みの間に サティさんを囲んで私たちの関係は緩やかに変化していった。子供たちも、もう彼を「ゾンビ」とは呼ばない。
小学生たちについても茶髪はタクミ、眼鏡はトキマサ、映画の話をしてくれたのはナオヤ、ハムスターの飼い主の小柄な子はトシキ、と名前で呼ぶようになった。「サティさん」は「サトルさん」だということも解ったが 音がどこか似ていることもあって「サティさん」とみんな呼ぶようになった。胸ポケットの中のテープレコーダーは彼らにとってかなり珍しいものだったようで、彼にせがんでは触らせてもらっている。いつもイヤホンを回し、みんなで 彼のお母さんの演奏するサティのピアノ曲を聴いた。

サティさんのお父さんがすぐ殴る人だったという話はトキマサが聞いてきた。「だから、この前言っていた『血がだらだら』?」「お父さん出て行ったままだって。サテイさん、今一人暮らしなんでしょ?」
そんな話をきっかけに、私も寡黙で不思議な大人と子供四人を相手に、自分の家の事情とか悩みとかを話し始めた。うちの父も言葉の暴力で母や私を責め立てる。いっそ殴れば?とか出て行ってくれればいいのにと思うこともある、と話すと、サティさんはとても悲しそうな顔をした。子供たちにも大なり小なりそれぞれに家族との悩みがあった。

「品出しの仕事、うちの母さんパート始めてさ、知ってたよ、サティさんのこと」「仕事、真面目だし丁寧だって。店長もほめてたって」
いつものように公園の桜の木の木陰で集まって喋っていた。サティさんの勤める店の店長の話をまるで自分が褒められたように自慢げに話すトシキの様子がおかしかった。

ナオヤがあの映画のテーマ音楽をハミングする。「途中から明るい感じになるところが好きなんだよね」ナオヤが言う。「転調っていうんだよ。短調から長調」私が言う。トキマサがテープで覚えたサティのワルツをハミングする。「これはずっと明るいからいいね」トシキが言う。タクミがトシキの手を取って適当なワルツを踊り出す。ナオヤが長調のところだけ繰り返して歌い、3人の歌うサティのワルツに被せる。私も照れるトキマサの手を取って立たせ、日が陰るまで大笑いしながら踊った。

みんなといる時のサティさんの表情がとても柔らかくなり、子供たちの一人ひとりをちゃんと「知って」いることが解る。黙っていても答えなくても決して聞こえていないとか無視しているとか そういうのではないことがみんなには判っていた。サティさんと私と少年たちはその夏「親友」だった。


けれど楽しい時間は長く続かない。トキマサが塾の夏期講習に行くことになった。「訳の分からない大人や中学生と一緒にいる」ことを親にとがめられたのだと トキマサが悔しそうに言った。私も私で、公園でサティさんと制服姿の私が一緒のところを見かけたと学校に通報された。真面目に学校に行っていなかったことで父に詰られ、母にはサティさんとのことであらぬ心配をされ、部活に戻るよう教師に説得された。教師に頼まれたのかもしれないが、数人の友人も何かと訪ねて来、対応に忙しく過ごした。何もかも反発してきた今までと、少しだけ自分が変わった気がするのは、小さな命に心を寄せるサティさんと過ごした時間のおかげだと思う。小学生の「仲間」の前で、拗ねてかっこ悪い自分をそのままにしておくのも嫌だった。父も母も、通報した人も教師も知らないことがある、解らない大切なことがある。そんな大人は可哀そうだな、そう思う。
決定的な別れがやって来たのは雨の降る蒸し暑い日だった。部活を終えた私のところにタクミとナオヤが息を切らしてやって来た。

「大変だよ、サティさんの部屋が火事だ」
「火事…って。サティさんはどこ?無事なの?」
みんなで一緒に走り出す。「サティさんは大丈夫。留守だったんだ」「良かった」「でも…違うんだ、良くないんだ」「何、どういうこと?」
ナオヤが息切れしながらなお、必死で話そうとする。
よく聞くと 大きな火事ではなくいわゆるボヤで済んだそうなのだが、大家さんがカンカンで、今すぐにでも追い出されそうだ、ということだった。
「『最初から反対だったんだ。あんな奴を一人暮らしさせるなんて』、って 親戚呼びつけて連れて行けって怒ってる。親父さんが出ていったままって知らなかったんだって。」
「あんな奴…って、」
「アイロン掛けてる途中で置いたまま 公園に行ってたんだって。パニックになって土掘り返してたって」
いつも 白いシャツは綺麗に洗濯してアイロンもしっかり掛けられていた。それはサティさんのこだわりで、「アイロンなんてうちの母ちゃんより上手だ」タクミが悔しそうに言う。何でそんなに急いで公園に行ったんだろう。どうして土を掘り返したんだろう。どうしてパニックになったんだろう。走りながら色々なことが頭の中でぐるぐる回り続けた。

でも、私たちが揃って会うことは結局それからずっと無かったのだ。サティさんは警察や消防に事情を聴かれ、大家さんに責め立てられ、怯えて更にパニックになったという。
私たちは親に頭を下げてもいい、誰か大人に掛け合って、彼が追い出されたりしないように何かして上げたかったが、動くにはすでに遅かった、母方の親戚という人が呼ばれて、ほんの数日のうちににサティさんを連れて行ってしまった。 どこか遠くの「施設」に入れられたと聞いたのは 秋も深まったころ、塾の鞄を下げたトキマサとたまたま電車で出会った時だった。


「生前『土になんか埋めてほしくない』って母親がサトルに言っていたんです」
訪ねて行ったその日、病室で私を待っていた親戚のおばさんは私に言った。 亡くなったお母さんの親戚とうその人の声や喋り方はどことなくカセットテープのお母さんの声を思い出させた。
「心配だったんでしょうね。あの子を父親と二人にして、置いては逝けない、そういう意味だったんだと思います。」

お母さんの亡くなった日はあのボヤのあった日と同じに蒸し暑い日で、雨が降り出していたというのも一緒だったそうだ。お母さんのことを思い出したのかもしれない、とおばさんは言った。そうなのかもしれないし、公園に埋めたハムスターや、小さな生き物たちの呼ぶ声がサティさんには聞こえたのかもしれない、私は黙っておばさんの話を聞きながらずっとそのことを考えていた。
やっぱり一人暮らしなんてさせないで 誰かが世話をすべきだったのだ、とおばさんは悔やんでいる様子だった。言っても仕方ないといいながら 出て行った彼の父親について無責任だと非難するその人に、私は私の知っている彼が、どんなに「ちゃんと」暮らしていたのかを話した。


サティさんが亡くなったことを私は彼ら、タクミ、ナオヤ、トキマサ、トシキに連絡した。
彼らが来たら一緒に、私がサティさんから受け取った「サティさんの大事なもの」を空に向けて放とう。身体がどこにどんな形で埋葬されても心配ない、私は先に受け取ったものを手の中に大切に持っている。それだけじゃない、ここにも、この胸の奥にもサティさんから大事なものをもらって持っている。
4人揃って本当に葬儀にやって来るかどうかは解らない。でもあの夏休み 確かにサティさんと私たちは親友だった。それは変わらない。

みんなで彼の話をしよう。ワルツを聴きながら無口で不思議な、澄んだ目をしたサティさんの話をしよう。

終点の氷細工屋

父の庭にどくだみが咲いています。鉢に移して部屋に飾っています。どくだみの咲いている通学路の小道は本当にあって、ピアニストの人が住んでいるという大きなお屋敷もありました。色々と懐かしいアイテムがちりばめてあります。


第67回 Mistery Circle お題

そのうち、外の闇の中から自分の名前が調べにのって聞こえてきた

氷のリンゴはとてもめずらしいもので、それにくらべればダイヤモンドなど浜の砂粒くらいにありふれたものだった。
お題の出典:「ゴ―スト・ドラム」 サウザンブックス社 著:スーザン・プライス 翻訳:金原瑞人 





誰かの呼ぶ声が聞こえる。寂しげな笛のような音が遠く響く。振り向いてあたりを見回しても誰もいない。細い道。辺りは真っ暗な闇だ。踏み出したらその先、足元に何も無い。不安定な姿勢になって仰向けに倒れそうになり、握りしめた大切なものが、開いてしまった手のひらから離れていく。「大切なもの」はきらりと光って一瞬空中に浮き、繁みの闇に消えた。いつもの夢だ、早く覚めなければ。
*
「遠野さん?遠野さん?大丈夫ですか?」
目を開けると こちらを覗き込む女性の輪郭が見えた。目鼻立ちはぼやけて確認することができない。ここがどこで 今がいつなのかも掴めなかった。視界が少しずつクリアになってきて、背を向けて水差しからコップに水を灌ぐ女性の姿を認める。きっと新しく来た家政婦なのだろうと思う。そうだ、この前の女が、割れると危ないからと言って食器をプラスチックのものに勝手に替えた。大嫌いなのだ、こんな安物をあてがうなんて、とコップを壁に投げつけた。クビだ、出て行けと怒鳴りつけた。それにしてもどんなに深い眠りだったのだろう、現実からずっと遠くにいて 今帰ってきた そんな感じだ。
*
あれこれ話しかけるうるさい女を振り切って散歩に出た。声は聞こえるのに何を言っているのかよく解らない。聞き返すのも面倒だし 理解したいとも特に思わない。どうせ大たいしたことではないのだ。最近身体が思うように動かない気がする。仕事で疲れているのだろうか。今までこんな感じは無かったのに、情けない。角を曲がり間違えたのだろうか、目の前の風景に違和感を覚える。見知らぬバス停が見える。この付近は長く住んでいるのだ、一筋間違えたからとて 見たこともない道なんぞにはめったに出くわすものではない。何かの勘違いだろうと 目を凝らして前を見、振り返って、来た道を確かめる。
バス停は古臭い木造で、ベンチの周囲に囲いと屋根がある。一時間に1本程度の運行を示した錆の浮いた時刻表が掲げてある。近づくと、柱の陰に隠れて見えなかったのか、小さな女の子がひとり座っていた。花の刺繍の入った丸襟の水色のワンピース、白いレースのカーディガン、白いレースのソックス。肩より短くまっすぐに切りそろえた髪は艶やかな光りの輪を描き 夕刻の茜色の空気に包まれて少女全体の輪郭が溶け込むようだ。
「すみません。今何時ですか?」
急にあちらから話しかけられて 少しうろたえる。子供と話をするなんて 何十年ぶりだろう。
腕を見たものの腕時計をしていなかった。その無意味な動作を誤魔化すために 咳払いをひとつ、
する。どこかで会ったことがあるだろうか。誰かに似ているのだろうか。初めて会った気がしないが、何も思い出せない。少女の横顔を窺っているうち ふと知っている香りがしたような気がした。草の葉の香り、花の香り…何だろう 何かひどく胸が痛いような苦しいような気持ちになる。「懐かしい」というのはこういう気持ちを言うのだろうかと柄にもなく思う。

*
──ずっと「氷細工屋さん」だったのよ、わたし。
一番後ろの長い座席に並んで腰かけていると 窓の外を眺めたまま少女は言った。
他に乗客は一人もいない。少女に付き合うつもりなんて特別になかったのだ。ただ、目の前に停まった旧式のバスは前乗りで、保護者だと思われたのか運転手に強く促され、乗る羽目になってしまった。日は暮れかけており、バスの中は薄暗くて いつになく子供を一人で放っておくことができないような気になったこともある。
「氷細工屋」という聞きなれない言葉と「だったのよ」という語尾が奇妙に聞こえたが 反対側の窓の外を眺めたまま少女の言うに任せて、黙って聞いた。
──お店を開くときは 鳥の形をした笛を吹くの。不思議な音色のね、歌のような、そうでないような、もの悲しいような。でも陰気っていうのではないの。他では聞いたことのない、遠い異国の音楽のような。お店っていってもそれは小さいものなの。だけど氷はお客様が欲しがる分だけあって切れることはない。お客様の手に渡した時、溶けているなんてことも絶対ないの。
お客様が差し出すお代金を受けとると、わたしは小さな氷の塊を取って 小刀で細工を始める。お金が多ければ大きいというものではなく、羽ひとつひとつ細かい細工の入った鳥の形だったり 薄い花びらが何枚も重なった、それは繊細な花だったりするの。それぞれのお客様に「合わせて」作るのよ。
いつも小銭を握りしめ順番を待つこどものお客様。自分のために何を作ってくれるのかって ドキドキしていることが 目の輝きから解るのよ。たまにはつんと澄ましたご婦人や難しい顔をした紳士も来るわ。たいていが「何を作ってくれるかなんて気にもしていません」っていう顔で並んでいるの。だけど「どうぞ」、と手渡した氷細工が思ったより単純な形だったり こどものお客様より「つまらない」動物だったりすると ちょっとだけ嫌な顔をして「別に期待なんてしていなかったし」「大人はこんなもの欲しがらないものだ」と、順番待ちのこどもにあげてしまったりするの。せっかく並んでいらしたのにね。お金だって払ったというのに。
*
窓の外の空の茜色が、だんだん紫色に変わってゆき 樹や家々が昔見た影絵そっくりに変わる。道は先に行くに従ってどんどん細くなり 舗装もされていない石ころだらけの田舎道に入っていった。長く走っているように思うのにバス停で停まる様子もなく、何のアナウンスもない。少女の声だけが静かな車内に緩やかに流れる川の水音のように響いていた。
──淡く色のついた氷、きれいなマーブル模様の氷もあったわ。それは美しかったのよ。
「氷細工屋さん」の話はそのまま続いていたが、ままごと以外にこの子が店を「やっていた」なんてことはあり得ないし、そんな店が実際にあるものとも素直に信じられず、とはいえ子供相手に疑問を投げかけたり嘘つき扱いをしたりするのも面倒な気がした。どうせ夢だか空想の類だろうと思いながら、相槌を打つ気にもなれず目をつぶって眠っている風にしているうち いつの間にか本当に眠ってしまったようだ。
*
「お客さん、お客さん、終点ですよ」
聞いたことのある声だ、と思った。暗いせいなのか運転手の顔が見えない。目を凝らしてもその顔だけが薄い霧でもかかったように分からないのだ。誰の声に似ているのだろうと思いながら立ち上がり、隣に座っていたはずの少女を探す。前に進み、とりあえず運賃箱にいくら入れる必要があるのかを確認しようと思うと
「もう頂いておりますよ。それより…」
運転手は先に降りた少女の方を手で示した。慌てて後を追って降りた。
「払わせてしまったのか。いくらだったかな?」とポケットを探るが財布が見当たらない。当惑していると少女はこちらを見上げて微笑み、
「このバスね、お金は要らないのよ」と言った。
こんな子供が気を遣ってくれているとも思えない。からかわれているのだろうか、古臭い物言いや物おじしない態度も子供らしくない。最初からおかしなことばかり言う子だと思っていると 少女は続けて当然のことでもあるように言った。
「懐かしむ気持ちとか 思い出そうとする気持ちでバスが動くのよ」

少女は軽い足取りで道を先に進んでいく。低い空にも星がまばらに輝き始めている。
馬鹿々々しいと少し苛立ちを感じながらも、ふと思い出したのは バスの運転手の声。あれは初めて雇った「運転手」のY、彼の声と似ていた。会社を興し軌道に乗せ落ち着くまでの数年間、毎日のように朝から愚痴を聞いてくれた。穏やかで優しいずっと年上の彼。そうだ些細なことでクビにしてしまったのだ。余計な口を出すな、何様だと思っているのだ、お前の意見なぞ求めてはいないと詰った時、向けられた寂しげな目さえ癇に障った。元には戻せない自分の言葉に、ずっと「正当な」理屈をつけて 幾度も苦い気持ちを押しやった。彼以来 運転手相手に自分の弱みを見せたり、気持ちを打ち明けるなんてことは一切しなくなった。
長く続く煉瓦塀に沿って歩き 少女が立ち止まったのは大きな屋敷の門の前だった。
「ここよ、覚えてる?」
後ろ姿を見せたまま少女は言う。暗闇の中で目を凝らす。古い記憶の中の道と確かに似ている気はするが それはこんな細い田舎道だったろうか。煉瓦の塀はこんなに低かっただろうか。大きな門のある家、道の反対側は暗い繁みになっていてその向こうはきっと…小さな川が流れている。
「貴方はこの繁みが怖かったのよね?だからいつも小走りで通っていたわ」
くすくす笑いながら少女は言う。しかし、あれは私が小学生の頃のことだ。
だんだんと思い出していたのだ。一人きりの通学路。道端のどくだみの香り。擦り切れた靴が水たまりで濡れ、ぬかるみでドロドロになって泣きそうになったこと。おさがりのランドセル。この道は大嫌いだった。何よりも、そうだ何よりもこの屋敷。大きくて威圧的でちっぽけな自分をせせら笑うような大きな門扉。
一体 この子供は私の何を知っているというのだ?誰かから聞いたこと以外考えられないのに、まるで自分自身が知り合いでもあるかのように すらすらと平気な顔をして言う。今日会ったばかりの子供にこんな風に接せられ、気持ちをかき回されて納得がいくわけがない。相手が私の何を知っているにしてもこんな近づき方は失礼ではないか。
「わたし、氷細工屋さんだったのよ」
私の憮然とした表情にも気づかないのか、また 少女は同じ言葉を繰り返す。待っていて、と言って、躊躇することも無く少女は重そうなその門を押し開け、ひとり中に入っていった。この家の子供だったのか、この年頃ならあの頃の家の住人の孫か、いや、ひ孫の代にでもあたるだろうか。
窓に順々に灯りがともる。暗がりでシルエットしかわからず 冷たくて重苦しいだけだった建物が 柔らかな光に包まれた。まるで死んでいた家が息を吹き返したかのようだ。

カタンと音がした方を見ると塀のすぐ近くの硝子窓が開き、少女が少し身を乗り出した格好でこちらを見下ろした。
「ね、ここなの、『お客様』。思い出してくれた?」
まぶしい部屋の灯りに目を細める。窓越しに見える天井のシャンデリア、窓の傍は飾り棚にでもなっているのだろうか、動物や果物を象ったたくさんの小さな硝子の置物が光を放っている。
少女がこちらに乗り出し 白くて細い腕をいっぱいに伸ばして 何かを差し出した。
「危ない」
乗り出す姿が不安定で頼りなくて、こちらに向かって落ちてくるのではないかと思った。咄嗟に手を差し伸べる。同じようなことがかつてあったのだ。あの時もその「少女」は窓を開け 子供の私を「お客様」と呼んだ。記憶がよみがえる。何故忘れたままでいられたのだろう。
差し伸べた手に 透明な丸いものが乗せられた。何だろう、握った手のひらの感覚を知っているように思う。そっと掌を開いて見るとそれは小さな林檎の形をしていた。
「お客様、その氷細工はとても珍しいんですよ。そしてどんな他の氷細工より素晴らしいの」
渡された「氷細工の林檎」を眺める。窓を飾るクリスタルと異なり、それは子供の小物玩具の入れ物のようなプラスチック製の容器だった。そしてその感触と軽さは私に痛い過去を思い出させた。
「嬉しかったの。本当は『氷細工屋さん』のお客様になってくれる人なんかいなくて、ずっと一人で
道を行く人を相手に 勝手に空想していたの」
思い出の中のあの子が言っているのか 今そこにいる少女が言っているのか、もうが区別もつかない。聞きたいことはたくさんあって、言わねばならないこともたくさんあるような気がした。
窓の奥に少女の影を認めたこともあった。話をしたことは無かったはずだ。暗い道は怖かったし 見上げるには眩しすぎるその窓を、なるべく見ないふりをして駆け抜けた。その日立ち止まったのは 先に窓が開き、笛の音とその子の声が聞こえたからだ。自分に向かって「お客様」と呼びかけたように思ったが きっと聞き違いだと思い直した時、窓から彼女が身を乗り出した。か細い手が何かきらきら光るものを自分に向かって差し出した。
お互いがまだ小さくて、手が届きそうで届かなかった上、一瞬のためらいのせいだったろう。少女の手から離れたその繊細な形の光るものは、自分の手をすり抜け、零れ落ちるように煉瓦と壁の隙間に落ちて行った。美しい硝子の白鳥が輝きながら羽を広げて飛んだように思った。

逃げてしまった自分。あれから首の折れた硝子の白鳥ばかりが目に浮かんだ。あの子が勝手に窓から落としたのだ、自分は関係ない、という言い訳を何度も頭の中で繰り返した。けれどずっと気になって街のショーウィンドウで似たものを探したが、持ち合わせの小銭で買えるようなものではなかった。塀のあたりを探してみた。折れた白鳥の首どころか何も見つけられはしなかった。

「どうして これが『珍しい宝物』なんだ」ちっぽけで子供だましのこんなものが。
「探してくれたのでしょう?その間 ずっと『私』のことも考えていてくれた」
プラスチックの林檎の形のカプセルには虹色に光るビーズが入っていた。店で見つけた時はとても美しく見えたのだ。小遣いをはたいて買い、息をはずませて屋敷の前まで行った。
「ちゃんと『私』に届いたのよ。同じくらいの歳の子に贈り物をもらったのなんて初めてだった。『友達』からもらった素晴らしい思い出の品。何よりも貴重な宝物なのよ。ダイヤモンドなんかよりきっと、ずっと」

あの時、門の前まで行ったものの、どうしたらいいのか、大人が出てきたらどこからどういう風に説明したらいいのか解らなかった。立ち尽くしていたら屋敷の大きな玄関扉が開き、黒い服の大人が大勢 俯きがちに出てくるのが見えた。探しても女の子の姿は見つからない。女のひとが声を上げて泣いていた。肩を抱き合う人、ハンカチで顔を覆う人もいた。小さな棺が運び出されるのが見えた。ただならぬ雰囲気に声をかけることもできず迷った末、あの窓の外、塀の一番近いところにそっと置いた、何かメッセージでも入れようかと思ってランドセルを下ろし、ノートのページを破ってみたものの何を書けばいいのか解らず諦めた。また会いに来よう。今度会えたら話しかけてみよう。そう思った。しかし何度傍を通っても窓は開く様子は無く、あの屋敷に灯りが灯るのを見ることはなかった。

*
気づくと天井が目に入る。ゆっくり視線を周囲に動かすと見慣れた自分の部屋だった。重厚さと高級感ばかりを基準にして選んだすべての家具には何の愛着も無い。楽しい思い出もこれといって無い一人暮らしのこの部屋には 少しの親しみも感じなかった。
サイドボードに買った覚えのない小さな一輪挿しが置かれていた。どくだみの花が1本挿してある。
「雑草は残すなっていうのがご主人の言いつけだからって、庭掃除の人が草も花もすっかり抜いてしまって、あんまり可哀そうだったので。よく見れば可愛い花だと思いませんか?匂いが臭いって嫌う人もいるみたいですがね。せんじ薬にもなるんですよ。」
声のする方を見ると、私がプラスチックのコップを投げつけた、あの家政婦だった。
「とっくに辞めたのかと思った。えっと…」
名前を思い出しあぐねていると 気を悪くした様子も無く自分の名前を告げ、楽しいことを話すように目を細め、えくぼを見せて言った。
「あんなぐらいでお暇を頂いていたらヘルパーは務まりません。もちろん交代をご希望で派遣先にお申し出を頂いたら別ですがね」
手伝ってもらって身体を起こし、先ほどまで見ていた「夢」を思い出す。どこからどこまでが夢だったのかもはっきりしない。まだ頭はぼんやりしていた。ベッドサイドのテーブルの上、小さな林檎の形の小物入れが目に入った。「夢」の中で少女が私の手に載せたあの「氷細工」の小さな林檎にとてもよく似ていた。
「これをどこで?」
手に取って 両手で包み込むようにして見る。それは思ったよりずっと確かな重みがあり、指の隙間からきらきらと美しい輝く光が漏れた。
「さっきまで枕元に。眠っていらっしゃる間ずっと、大事そうに触れておられましたよ」
以前から持っていた、ということはないはずだった。いつから枕元に?と聞いても、
解らないと言い、家政婦は付け加えて言った。
「昨日は見かけなかったように思いますが」

ダイヤモンドより貴重…か、少女の大げさな言葉を繰り返し呟いてみる。小学生の自分が、書いて渡せなかったメッセージを考えてみる。
さっき聞いたヘルパーの彼女の名前は、照れくさいので覚えられないふりをした。謝らなければと思ったが 簡単には言葉が出ない。
「この間は…この間は…えっと」

咳払いで先を胡麻化すと、覚えてくれるまで何度でも教えますよ、という風に彼女は悪戯っぽく眉を上げ、笑って名前を告げる。窓を開けましょうね、いい風が入ります、言いかけた言葉の先を促すでもなく、彼女はそう言って 鎧戸を開けて回った。
さわやかな初夏の風がカーテンを揺らし、柔らかな日差しが部屋を満たしていく。





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すずはら なずな

すずはら なずな

どれも短いお話ですが 
一つでも心に残ったら嬉しいな。

過去記事どこにでも、
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舞い上がって
喜びます。

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