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STAND BY ME

生きることにちょっと 不器用な子どもたち、もと子どもたちの 短いお話を 綴っています

《 公園の童話 》より(3話抜粋)


 はじめに

「その公園には年寄りの それは立派な 桜の木があります」という始まりの、桜じいさんが主人公のお話をblogにUPしたのはなんと2006年、物語を書いたのはそれより以前になります。
初めてお話を書いてみようと思い、完成させたのはまた別の、天使が出て来る物語でした。(もともとのHPを消してしまったため、原稿も部分的にしか残っていません)。
子供向けの童話の形、絵本の文体で書きましたが、対象は特に「こども」を考えているわけではありません。(私の書くものは大体そうなのです)。書きたいから書くので、どうぞ響く人がいますように、そんな感じでしょうか。
1作目を飛ばし、黒猫愛のにじみ出る三作を選んで今回投稿させて頂きました。





1 《 ベンチ 》   



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 公園のじいさん桜のそばに 古いベンチがひとつ、あります。そのベンチのところにある日少女がやって来て立ち止まり、話しかけました。
「わたし、あなたを知ってる。小さい頃お母さんとしゃぼん玉を持ってよく来たわ。しゃぼん液の蓋が上手く開けられなくって、ここで全部零しちゃったことがある。ねぇ、ベンチさん、覚えてる?」
「さあてね、大勢の子どもがここでしゃぼん玉をしたがるさ。そして子どもはよく零す。おかげでこっちはベタベタさ。迷惑な話だね」
ベンチが何と返事したか気にする風もなく
「ふふ、なんだか懐かしいね」
少女はベンチをそっと撫でて、スキップしながら行ってしまいました。
 またあるときは青年がやって来て、言いました。
「ああ、このベンチだ。小学校の初めての遠足でお弁当を食べたっけ。一緒に食べようってどうしても声を掛けられなくて一人でここに座ったら、友達がひとりまた ひとり、寄って来た。一緒に食べよう、いいベンチ見つけたね、って」
ベンチはまた 気難しく呟きます。
「小学生は泥んこ靴で足をブラブラさせるから嫌いだね。なのに、沢山の子どもがわたしに座りたがって喧嘩する」
青年も、ベンチとその辺りの景色を懐かしそうに見渡して
「あれから友達が沢山できたんだ。あの日のお弁当は最高に美味しかったよ」
そして何度も振り返り振り返り、行ってしまいました。
 このベンチで、赤ちゃんにミルクを飲ませたのがとても懐かしいというお母さんにも、初めてできた恋人とドキドキしながら座ったわ、というお嬢さんにも、ベンチは同じようにつっけんどんに答えます。そんなベンチの態度を見るにつけ、若いさくらや季節の風たちがはらはらしたりいらいらしたりするのに、じいさん桜は穏やかな顔のままベンチの答えを黙って聞いているのでした。



 お喋りすずめが公園の工事の話を聞いてきたのは、じいさん桜の花の時期が終わって公園に静けさが戻った頃でした。
「古ーいベンチなんてさ、この機会に一掃、なんてことになるんじゃない?」
カラスが勢いづいて言うと、すずめたちも
「そうそう、新しくってお洒落なベンチ、別の公園で見た。あんなベンチなら ここに似合うわよ。ねぇ、桜じいさん」
じいさん桜が返事をするかわりに、根元で昼寝していた黒猫が
「ミャウ」
一声小さく鳴いて、のっそりその場から離れて行きました。

 ベンチの下に黒猫が潜り込んだ時 、お婆さんと若い娘さんがやって来て座りました。
──おばあちゃん、おばあちゃん、思い出す?初めてここが公園になったとき、 家族で競争してこのベンチに座ったんだってね。おばあちゃん、桜の季節は賑やかだけど、おばあちゃんはこのベンチに座って見るどの季節の風景もひとつひとつ、大好きだったんだってね。おばあちゃん、そんな話を私が小さいときからいっぱいいっぱい、してくれてたんだよ。おばあちゃん、おばあちゃん、何か思い出した? 
娘さんが話しかけると、お婆さんは静かに顔を上げ辺りを見回し、小さく微笑んで、ベンチのペンキの剥がれたところをそっと指でなぞりました。ぼんやりとどこかを見ているようなその瞳に、柔らかい光が宿ったように見えました。
じいさん桜は、そんなふたりの座るベンチの上に静かな木陰を作り、さわさわと 優しい葉っぱの音を聞かせてやりました。



 ベンチの上で黒猫が動きませんと報告を受けた公園の管理の人が駆けつけたのは、そのベンチを運び出す予定の日のことでした。
「たかが猫一匹で どういうことだ」
管理の人が見にいくと、どうしたことでしょう。カラスたちとすずめたちが、ずらりと並んで行く手を邪魔します。ベンチの上にはいつもの黒猫がどっかりと座り、近づこうとすると威嚇の声を出しジロリと睨みます。カラスもすずめも、ベンチを少しでも動かそうものならいっせいに飛び掛ってきそうな様子です。

**

 じいさん桜のそばに古いベンチがあります。ペンキを塗り替えられ修理され、古いけれども それは大切にされています
ベンチは このごろこんな風につぶやきます。
──覚えていてくれて有難う。思い出にしてくれて有難う。それは何よりも幸せなことなのだね……なぁ、さくらじいさん。
そう言ってからコホンと咳払いしてはまた、気難しい顔をして黙り込むのでした。





2 《 満月の夜に 》  



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 毎年桜の花が咲きだすと、公園の係の人たちが花見客のために、提灯の準備を始めます。去年じいさん桜の周りには、花を下から照らし出すライトも取り付けられました。ますます見事な夜桜に、大勢の人がやって来て口々にじいさん桜を褒めて行きます。若い桜はそんなじいさん桜をいつも誇らしく思っておりました。
夜の花見の客が増えだすと、若い桜がうきうきするのに対して、じいさん桜がますます無口になっていくことは若い桜も気づいておりました。それでも前は ぼちぼち昔話なんぞを話してくれていたのに、去年からのじいさんときたら提灯の準備の始まる頃から、むっつりと押し黙ったまま何一つ答えてもくれません。 
お喋りすずめが言いました。
「じいさんは五月蠅い歌が嫌いなのよ。花見の客の歌ったら全く酷いものだもの」
知ったかぶりのカラスが言いました。
「じいさんはオイラがゴミの置き土産を喜ぶのが気に食わないのさ」
春風がふわりと口を挟みます。
「違うわ。桜じいさんは威張ってると思われるのが嫌なのよ。一番の人気者は桜 じいさんなのは皆、認めてるのにね」
若い桜は みんなのお喋りを聞きながら、どれもそのようであり、でもやっぱりどこか違うような気がするのでした。
 桜じいさんの足元で昼寝していた黒猫がのっそり起き上がります。黒猫はじいさん桜を首を伸ばして見上げると、慌てて飛び立つすずめをチラと横目でみただけで ツイとどこかへ行ってしまいました。誰もその棲家を知らず、いつからこの公園にいるのかもわからない黒猫、じいさん桜と同じくらい長生きしてるという噂のある黒猫です。



「桜じいさん、今日はいいお花見日和だね」
「今日の夜あたりは随分と人が集まって賑やかだろうね」
「じいさんの足元は一番人気だから、ほら、もうこんなに早くから場所を取ってる人がいるよ」
若い桜は じいさん桜の心の内が解らないまま時々話しかけてみましたが やはり じいさんは黙々と見事な花を咲かせているだけです。



 ある日、久しぶりに黒猫がまた桜じいさんの足元にやってきて、一声「ミャウ」と鳴きました。若い桜はそのとき、じいさん桜が久しぶりに「ほぅ」と 、ため息とも返事ともつかない声を出したのを聞きました。
 その夜のことです。
大勢の花見の客のそれぞれの宴がにぎやかなその時に、どうしたことでしょう、フイっとライトが消えました。続いて連なって揺れている提灯も消え 辺りは漆黒の闇になりました。一瞬のざわめきの後、誰とはなしに空を見上げると、雲の間からそれは美しい満月が現れ、じいさん桜を上から柔らかな光で照らしました。若い桜は、お月様に照らされてため息がでるほど美しいじいさん桜を見て、じいさんが一度だけポツリと言った「お月様に申し訳ない」という言葉を思い出しました。



「何でまた 電気が一斉に消えちまったんだろう」
「まぁいいさ、すぐに復旧したことだし。どこからも苦情が来なかっただけでも 儲けものなのにさ、なんとオレなんか、今日褒められちまったんだよ、素晴らしい夜桜でしたってさ。オイ黒猫、お前昨日の晩、電気に何か悪さ しなかっただろうな?」
じいさん桜の周りを掃除する公園の係の人たちの足元で 黒猫は目をつぶったまま耳だけピクン、と動かしました。





3 《やさしい黒、やわらかな闇 》



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 公園の秋も過ぎてゆき、じいさん桜のきれいに紅葉した葉もすっかり落ちてしまいました。
「なんだか寂しくなっちゃったね、桜じいさん」
立ち止まって眺めていく人もなくなった自分達の裸んぼの姿を少し不満げに見ながら、若い桜は言いました。
「やって来るのは 猫だけだ」
 じいさん桜の幹は立派で太く、冷たい風をしっかり遮ります。葉を落としたこの時期には、そばに気持ちの良い陽だまりもできます。黒猫はいつもどこが公園の中で一等暖かいか知っていて、のそりやって来てはうつらうつら眠っています。黒猫はじいさん桜と昔からの馴染みのようでありましたが、毎日傍にいても特に何か話しをする様子もありません。若い桜はそんな黒猫とじいさん桜を、少し不思議な思いで見ておりました。 

「あ、黒猫。私、猫は大好きなんだけど……黒だけはダメなんだよね」
「うんうん、解る。なんか不気味な感じするもんね」
制服の女の子たちが、お喋りしながら通り過ぎて行きます。
「あーあ、朝から黒猫横切ったぜ、不吉、不吉」
「あっちから回って行こうよ、お兄ちゃん」
公園を抜けて学校へ向かう兄弟が、その日は道を変えて行きます。
「シッ、シッ、あっちへ行け」
石を投げる男もいます。
そういう時若い桜は、黒猫に何も声をかけないでいるのが随分と薄情な気がして じいさん桜を伺い見ます。
「黒猫は不吉なんかじゃないよ。幸運を連れて来るって聞いたもん」
たまにはそんな風にかばってくれる子どももいます。若い桜は嬉しくなって黒猫の様子をチラと見るのですが、そんな時でも当の黒猫は全く気にも留めないという様子で陽だまりで目をつむったまま丸まっております。



「人間に興味なんかないっていう感じだよね、あの黒猫は」
ある日、若い桜はじいさん桜にそんな風に話しかけてみました。
「誰かを好きになった事、ないのかなぁ」
黒猫は今日も、近寄って来る気の良さそうな子どもからツイと離れ、いつもエサをくれるお婆さんが来ても、皿を置いて離れて行くまで知らん振りして待っています。
「あの黒猫が一度だけ ”女の子の猫”になった時のことは、今でもはっきり覚えている」
じいさん桜がぽつり、話し始めました。
「女の子の、猫?」
若い桜が聞きます。
「そう、女の子の飼い猫だ。その子はいつも同じ歌を歌いながらやって来るんだ。 とても優しい綺麗な歌だった。そして日向ぼっこしている黒猫を見つけると、必ず少し間を置いて座り、持ってきた本を広げて柔らかな声で読み始めるんだ。まるで黒猫に読み聞かせるようにね。毎日毎日同じようにやって来て、無理やり抱いたりエサで引き寄せたりもせず、女の子は猫と並んで座ってた。女の子の本を読む声は心地よく響いて、猫はうとうと夢見心地になりながらも続きを楽しみに聞いているようだった。女の子が来るとき歌っている、その歌が聞こえるのをあいつが心待ちにしているのが、周りの誰にでも解かったさ」
「黒猫と女の子は仲良くなったの?ねぇ、桜じいさん?」
「そうさ、いつの間にか二人の間の距離は縮まって、肌寒くなる頃黒猫は女の子の膝の上にいたんだよ」
若い桜は、女の子の膝の上で気持ちよさそうに眠る黒猫を思い浮かべました。
「『寒くなるからずっと一緒にいようね。一緒にいたらこんなに暖かいもの』
女の子は黒猫を家に誘った。野良猫暮らしを結構楽しんでいるように見えた黒猫も
女の子の誘いは心から嬉しかったようだ。──女の子について行くことにした、
ちょっと照れくさそうな顔をして、私に挨拶してきたものだ」
「じゃあ、黒猫はなぜ帰ってきたの?捨てられちゃったの?」
じいさん桜は随分長いこと返事をしませんでした。その間 何か大切なことをゆっくり思い出しているようでもあり、その話の続きをするのを躊躇うかのようでもありました。
「黒猫と一緒にいるとき。女の子が咳き込んだり目を痒そうにしたりしてることに気づいてはいたんだ」
じいさん桜は少し辛そうに言いました。
「数日したら黒猫がふらりと戻ってきた。──どうした?ノラの暮らしが懐かしくなったかい?──ふかふかの布団なんて寝苦しいだけだったんだろ?皆が口々に 言って笑った。ほんとは 『お帰り、戻って来てくれて嬉しいよ』そう言ってやれば良かったんだけれども」
「女の子の身体は猫といると調子が悪くなったの?黒猫は皆に何と答えたの?」
「何にも言わんさ。黒猫はただ前と同じように暮らしているだけだ」
「女の子は捜しに来なかったの?」
「来たとも。何度も、何度も。──心配しないで。大丈夫だから、一緒に暮らしても 絶対大丈夫だから……泣きそうな声で黒猫を呼びながら、それは一生懸命捜していたさ。しかし黒猫は隠れてしまうんだ。そして女の子が諦めるまで出てこなかった」
「ほんとに黒猫はそれで良かったの?」
じいさん桜は枝を静かに揺らします。 
「本当に何が良いかなんて誰にも解からないさ。けれどあいつはいつもいつも、あの子の歌が聞こえる気がして耳を立てる。サワサワと風の音がしているそれだけのときでもね」



 お月様のきれいな夜です。
今日はどこかで野外演奏会でもしているのか、遠くから楽の音が聞こえてきます。じいさん桜の足元に、夜にしては珍しくフイと黒猫が姿を現しました。聞き覚えのある旋律に、黒猫は耳をピンと立て、立ち止まります。

「黒は 好きな色だ」
じいさん桜は音楽の一部のように静かに響く声で呟きました。
「お月様を際立たせる優しい夜空の色。小さな星の光を包み込む柔らかな闇の色」 
じいさん桜は ひとりごとのように続けます。
「とても 美しい色だ」
黒猫は黙ったまま、しっぽをゆるりと揺らしました。





《 公園の童話 了 》



祭壇画のロキュ 〜 刃の上

第74回 Mistery Circle 参加作品

お題 
●今が正にその時だ。あなたは運命の鋭い刃の上を渡っている。 で始まり


●あなたのうちに住むあなた自身は見えぬらしい、そして非は私にあると言う。 で終わる

お題出典:「 オイディプス王 +アンティゴネ 」 著:ソポクレス 





──今が正にその時だ。ディートフリート、お前は運命の鋭い刃の上を渡っている。

 目を凝らしても延々と続く冷たく深い夜の闇だった。さっきまで煌々と辺りを照らしていた月はどこへ隠れたのだろう。王宮の中央のバルコニーに出て 王子エーベルハルトは、やがてその先に現れる弟の姿を待っていた。弟のディートフリートは闇に紛れ括られた惨めな姿で、たった一人の兵に連れられて来るはずだった。命じた兵士には連れてくるべき「罪人」の身分については明かしていない。おそらくディートフリートは、剣を突き付けられ手に縄を掛けられようと無礼を甘んじて受け、行き先が自分のところだと解ると大人しく従うことだろう。剣も縄も必要無いことはエーベルハルトが一番よく知っていた。



 エーベルハルトの命で国境(くにざかい)の教会に向かったのは、褐色の肌を持つトーゴと呼ばれる兵士だった。夜の帳の降りる中、礼拝堂はひっそりと静まりかえっている。集っていた謀反人を捕らえるために兵士達が踏み込み、勢いに任せ破壊したのは一週間ほど前だ。破れたステンドグラスの窓から細い月明りが差し込み、床にゆらゆらと儚げな色を映している。気配を殺して男の居る祭壇の方に近づこうとしても 崩れた壁の欠片や焼け落ちた木製の椅子の残骸が足元でそれを阻んだ。先日の謀反人達とは異なり、今夜捕らえるべき男の手には絵筆が握られ、足元には絵具が広げられている。
 トーゴは、男が向きあっている祭壇の絵を見上げた。初めて男がそれ描いているのを見たのは、警備の任が巡ってきた日の朝だった。瞬時に目を釘付けにされたのは何故だったろう。自分でもよく解らない衝撃がトーゴを襲った。破壊された木像の代わりのつもりなのだろうか、男は壁に直接絵を描いている。背後の風景はない。緞帳を下したようにも見える深い紅色を塗りこめ、中央の高みには十字架に磔となった男、その足下、左右の位置に対を成して、悲しみに沈む母親と弟子が描かれている。この国の人々の信仰は解らない。こんな磔にされた傷だらけの惨めな男の姿をどんな気持ちで崇めるのだろうといつも思っていた。だがその絵を見た瞬間、きりきりと刺すような痛みと悲しみと、言葉にならない何かが胸に迫って来る気がした。
──このひとを見よ
誰かが自分に呼びかける。
──このひとを見よ
誰かが胸に呼びかける。
突き上げて来る形容しがたい震える思いにトーゴはただ立ち尽くしていた。

 壊された祭壇に絵を描いている妙な男がいることは、隊の中でも噂話になっていた。トーゴを始め、一度見た者は再び任務が巡ってくるのを楽しみにさえしていたのだ。噂がエーベルハルト王子の耳にいつ入ったのか その日トーゴは呼び止められ詳しいことを聞かれた。自分には信仰も芸術もよく解らないけれど、良い絵のようだ──その不思議な感動を伝える言葉が上手く見つけられず、トーゴは情けない思いで唇を噛んだ。まさかその夜に、その男を捕らえよと自分が言いつかるなどとは思ってもみなかったのだ。

「こんな時間にどうされましたか?」
男がトーゴに気がついて振り向いた。あれからもずっと一心に絵を描き続けていたのだろうか。髪は解れ、身に着けているものは破れて、手は絵具で汚れている。今まで見た罪人の顔つきとは全く違い、男の目は優しい。声は柔らかく響き、どこか育ちの良さと人を惹き付ける内面を感じさせた。
「あるお方からお前を捕らえて連行するように言われている。抵抗はしない方がお前のためだ」
剣を突き付けられた絵描きは、濁りのない澄んだ瞳でトーゴを見た。
「あるお方?」
「『今が正にその時だ。お前は運命の鋭い刃の上を渡っている』と言えばわかると仰っている」
「そう伝えよと?……その方が?」
相手は伝えられたその言葉を小さく繰り返し、何かを思い起こそうとするように少しの間目を閉じた後、全てを理解したかのように顔を上げ、微笑みさえ浮かべて答えた。
「もちろん抵抗などしません。連れて行ってもらいましょう。ただ……」
絵描きは静かに両の腕を差し出し縄を掛けよと促した。こんな穏やかな罪人をトーゴは見たことが無い。
「ただ?」
必要の無さを感じつつも腕と腰に縄を掛け、顔を覆うフードの付いた黒いマントを被せながら トーゴは絵描きに聞く。
「ただこれだけは納得して終わりたかった、と。あと少しだと思うのです。何かが足りないのです。それが解らない。間を置かずまた戻ることはできるでしょうか」
「さあな、俺は言い遣ったことしか知らぬ 」
戻れるとも戻れぬともこの先は判らない。トーゴもまた、不思議と離れがたい気持ちを感じつつ教会を出て、絵描きと共に城に向かう夜道を急いだ。

 命じられた通りにトーゴは絵描きを王子の部屋まで連れて行った。エーベルハルト王子は、戒めの縄を解かせると、厳しい表情のまま、軽く手を上げてトーゴを控えの間に下がらせた。



「兄上、お久しぶりです」
縄を解かれ、二人きりになると安心しきった様子でディートフリートは言った。
「ようこそ、画家の先生。ディートフリート、いや、『ロキュ』と言う名の方が馴染むのかな」
「懐かしいです。王宮もこの部屋も。たくさんお話したいことがあるのです、兄上。兄上のお取り計らいで多くの貴重で素晴らしい体験をさせて頂きました」
「何故罪人扱いを、とは聞かないのだな、お前は」
明るい声で話し始める弟の言葉を遮り、エーベルハルトは冷めた目のまま言った。
「私のために一部の民が混乱し、誤った道を歩もうとしたと聞いています。気楽に帰国する立場ではないことは解っています」
「ふん、捕らえられる覚悟もあった、ということだな」
「でも、貴方はこうして内密に私を迎え、縄を解いてくださった」
「縄を解き二人きりになったとて、絵筆しか持たぬお前の腕では私を倒すことなど到底できん」
 幼い時から二人で剣術の練習をした。争いごとを好まず、絵筆を持つことの方をずっと望んでいたディートフリートは 剣ではエーベルハルトに全く敵わなかった。どんなに厳しく追い詰めても悔しがるでもなく、相手を褒めて笑っている弟が歯がゆかった。国を出て絵を学ぶことを許した時も、何の疑いも持たず、歓喜に満ちて感謝の言葉を告げる弟の顔を、エーベルハルトは苦々しく思い出す。
「『運命の鋭い刃の上を渡る』は、貴方と観たギリシア悲劇の台詞ですね。忘れはしません。芝居の台詞を使って色々遊んだこと。貴方はいつも私の傍に居て、たくさんの知識と身を守る術を教えてくださった。異国での絵の勉強に勤しんだ日々も、どんなに兄上と父上にお会いしたいと思っていたことでしょう」
「成程、芝居の台詞だったか。幼き日、お前が些細な事柄でも大仰な言葉を使っては一人で面白がっていたことだけは覚えていた。辟易したからな」
ディートフリートの弾んだ言葉に答えるエーベルハルトの言葉は冷たくそっけない。
「恵まれた出会いもあったのですよ。尊敬できるマイスターや兄弟子、気の良い旅芸人の一座。一番驚いたのは幼い頃ここで遊んだことのある少女と再会したことです。聡明で美しい女性に育っていました。彼女を描きこんだ祭壇画を描くことができたのは最も素晴らしい経験でした」
頬を染め、目を輝かせ勢いよく話し続けるディートフリートに一瞥もくれず エーベルハルトは窓の外を見続けていた。
「何年も勝手をさせて頂いて感謝しています、兄上」
エーベルハルトの沈黙と無表情が続き、流石にディートフリートも戸惑いに言葉を途切らせる。
「申し訳ありません。私ばかり喋ってしまって。兄上はその間大変な思いをして国のために尽力されておられたのですね。父上のご病気はいかがですか」
──父上にお会いしたい、父上はどこに?
ディートフリートがそう続けると、エーベルハルトは初めて窓から離れ、鋭い靴音を立ててゆっくりと近づいて来た。
「それを聞くのだな。知った者は二度と自由にはさせぬ。誰一人、ディートフリート、お前でもだ」
エーベルハルトは刺すような視線を向けると、そのまま顔をぐいと近づけ、ディートフリートの耳元で囁いた。
「教えてやろう。父上は死んだ。王は居ない」
「え?」
「亡き王のたっての願いは国が纏まることだ。民が一つになることだ。それ故今は王の死は世に知らしめるべきでは無い、そう判断した」
「父上が亡くなった」
驚きと悲しみが一度に押し寄せてディートフリートは立っているのがやっとだった。老王の体調が芳しくなく、エーベルハルトが政を任されていることは異国にいても伝え聞いていた。そんなエーベルハルトを排し自分を次期王座に就けようとする者達が居るとも聞いた。ずっと友好的であったはずの隣国との不穏な雰囲気、国内に燻る内乱の気配、何よりも民の心が荒み、重く淀んでいると聞いた。政に不向きな自分でも国のために何かできないだろうか、自分の存在が民の心の纏まりに影を落としているのだとしたら自分にできることは何だろう。自問自答を繰り返し続けた末、画家のロキュとしての幸せな日々を捨て、ディートフリートは故国の土を踏んだ。異国までディートフリートを探して国の現状を告げに来てくれたのは幼馴染のコンラートだった。
「そうでしょうか。父上の崩御を民と共に悼み、兄上の王位継承を皆で祝い、国の平和と栄光を皆で祈る、それでも国が纏まらないと?」
エーベルハルトの目がきらりと光り、ディートフリートの肩に手を掛けた。その手に自分の手を重ねようとした瞬間、ディートフリートの身体は強い力で突き飛ばされ壁に打ち付けられた。
「罪人として連れて来られたことを忘れるな。そうだ、お前はいつもそんな風に清く正しく優しいことを言う。愛と情に満ち、汚く暗い感情など知らぬふりをする。いや、それは違うな。それが『ふり』で無いことがお前の罪。教えてやろう、私がそんなお前を見ながら、どれほどの妬みと憎しみに満ちて生きて来たのか」
エーベルハルトの淡い菫色の瞳をディートフリートは驚きを持って見つめ返す。父が亡くなっていることばかりでなく、兄が自分を憎んで来たという言葉がにわかには信じ難かった。
「聞き知っているはずだ。お前の、お喋りな、『幼馴染のコンラート』から。私を信じぬ者たちが密かにお前を担ぎ上げ 私を追い落とそうと画策していたことを。コンラートも言ったか?私には国王の責務は果たせぬと?私には民の心は掴めぬと? 父上もまた可愛いお前を次期王に望んだと?」
エーベルハルトは倒れたディートフリートの顎を鋭い靴先で持ち上げ、燃え上がるような敵意を込めた目で見下ろした。窓から差し込む月明りがエーベルハルトの蒼白になった顔を更に青白く照らす。
顎に当てられた靴先から逃れるように顔の向きを変え、苦し気にディートフリートが言う。
「コンラートは『私たちの』大切な幼馴染ではありませんか。私のことだけでなく貴方のことも心配しています」
大臣の息子、幼い頃から常に一緒だったコンラート。ディートフリートが名前を変え身分を隠して異国で絵の勉強をしている間も この身を気遣ってくれたのはコンラートだった。エーベルハルトの心の陰りを、心配してくれていたのもコンラートだった。
「幼馴染、幼馴!幼馴染!!幼き日から傍に居て何もかも解り合って、一番心が通じ合う?幸せな時間を分け合った、思い出深い相手?そうか、さっきお前の言った異国で出会った女というのも言ってみればお前の『幼馴染』なのかな」
「いえ、あの人は……」
最初は気づかなかったのだ。花のように美しく成長した彼女は、異国で貴族の奥方になっていた。生まれた国と訪れたことのある王宮の話を懐かし気にするのを聞き、それと解った。だがディートフリートは彼女にさえ本当の名を名乗らずにおいた。身分を隠し別の名を名乗ることが、国を出る時のエーベルハルトとの固い約束だったからだ。
「もう一つ教えてやろう。その『幼馴染』とやらがどんなに私と母を苦しめて来たか。知らないとは言わせない。父上の幼馴染、お前の母親がいつも父上の心を占めていた。母上が王妃として迎えられ、私を身ごもり、産んでからも、そうだ、ずっとだ。母上は苦しみと悲しみに心と身体を蝕まれて亡くなった。さぞ喜んだことだろうな、お前の母親は。これで二人の結びつきを邪魔する者はいない。だが神も見捨てたものではない、お前を産んでこれもまた直ぐに死んだ。父上は余程妃に縁が無いらしい」
乾いた声でエーベルハルトがくつくつと笑うのを凍り付くような思いでディートフリートは聞いていた。母を侮辱されることも耐え難かったが、瞬時に頭を過ったのは大事な親友の運命だった。
「コンラートは、無事で?」
「かろうじて生きてはいるぞ。知ってはならぬ事を知った者に未来は無い。謀反に加担する者は生かしてはおかぬ。私の邪魔は誰にもさせない。私が王位に就くのは亡き母上の悲願だからな」
敵意と憎しみに燃える目を向け エーベルハルトはそう言い放つと、呼び鈴の紐を引き控えの間のトーゴを呼んだ。
「北の塔に連れて行け。錠を下せば決して出られぬ。見張りは無用だ。お前は普段通りの任務に就き、日に二度、自分の食事を分けて運べ」
北の塔には幽閉用の部屋があるとは聞いている。今までの罪人は見せしめのように引き回されて地下牢に繋がれた。エーベルハルト王子の、この絵描きへの扱いは 他とは全く違う。その目に宿る怒りの色も 他の者に向ける時とは別の何かが混ざっている。理由など解るはずもない。トーゴは黙って従うより他には無いことを知っている。
「心配するな、お前の食事の量は増やすよう言いつけておく。だが万一この者の存在が誰かに知れることがあれば その時はお前の命も無いと思え」
行け、とトーゴに顎で示しながら、エーベルハルトは絵描きの肩を抱き、その耳元で 抑揚のない低い声で言った。
「『鋭い刃の上をお前は今 渡っている』、お前はその警告を聞いてなお、のこのこやって来た。覚悟はあるはずだ」



 王子の命を受け 城の北の突端にある塔の小部屋に絵描きを閉じ込めた。小部屋の重い扉には鉄格子の嵌った覗き窓があり食事を差し入れる時だけ出入が許される。食事を運ぶ際は誰にも見とがめられぬようトーゴは細心の注意を払った。
絵描きは塔に連れて行く間も全く抵抗する様子も見せなかった。王子と二人きりで何を話していたのかは想像もつかない。トーゴは城に戻るまでのこの男と歩いた夜の道のことを思い出していた。壁画の印象は強烈にトーゴの心に残っている。何故か男にあの磔の救世主の姿が被って見えた。
「何というお名前ですか。お生まれは南の国ですか」
丁寧な物言いをされ却って戸惑う。
「縛って連れて行かれるのに、相手に名前や故郷なんか聞くのか、あんたは」
「話をするのに、名前が解らないと。ああ、私はロキュといいます」
「皆は俺のことをトーゴと呼ぶ。長い名前があったがもう忘れた」
故郷もだ……トーゴは思う。親は俺を売り飛ばして食うことを選んだ。あんな所に懐かしさも未練もない。
「あのお方が奴隷のようにこき使われていた俺を救い出して下さった。同じ部隊の仲間も皆同じような者ばかりだ」
「そうですか……良かった。ではその方は 多くの人に愛され慕われてるんですね」
自分を捕らえその命運を左右する相手の話だというのに このロキュという男は顔を上げ微笑む。嬉し気に輝くその表情は、自分がまるで愛され慕われているとでも言われたかのようだ。可笑しな奴だとトーゴは思う。
「恩義、忠誠。俺たちの感じているのはそういったものだ。それが愛とかいうのと同じなら そうかも知れん」
「そうですか」
ほっとしたような穏やかなロキュの声が小さく闇の中に溶けた。



 何をしているのだろう。トーゴが小窓から覗くと、どこで見つけたものかロキュは石の小さな欠片をで壁に何か描いている。その姿は初めて教会で見た時を思い出させた。あの時見た横顔は歓喜に溢れていて どんな場所でも絵さえ描ければ幸せだというようだった。俺は何をしている時 あんなに幸せな顔ができるだろう、そう思った。
「絵を描いているのか、こんな暗闇で」
そっと中に入り、粗末なテーブルに小さな燭台と食事を置いた後、つい声を掛けてしまった。部屋に閉じ込めてから初めて口をきく。声に驚いた様子で、ロキュは振り向いてトーゴを見た。あの時のような目の輝きは無く、どこか遠くに行っていた心が一瞬呼び戻されたような、そんな表情だ。
「ああ、トーゴ。そこに居たのですか。気が付きませんでした」
「上手いもんだな。こんなに暗くてよく絵が描ける」
蝋燭の小さな灯りに照らされて壁や床に描かれた絵がぼんやりと浮かび上がる。
「ずっと心の中にあるものをそのまま写し出すだけです。目を瞑っていても描けます」
数日ですっかり痩せ、頬のこけた顔に穏やかな微笑みを浮かべロキュは答えた。
 また別の日トーゴが塔の部屋に入ると ロキュは隙間に穿たれた小さな明り取りの窓から僅かに見える外を見ていた。
「教会が見えますね」
「そうだな」
「トーゴ、貴方はあれからあそこに行きましたか?」
「あの周辺の警備は俺たちの仕事だからな。相変わらず女や老人が石を積みなおし板を打ち付けて、祈りの場所を取り戻そうとしている。あんたは……」
あの絵のところに行きたいのだろう、そんなことは聞くまでも無い。ここに幽閉されてもう一週間以上経つ。王子からはその後何の指示も無い。永遠にこの絵描きはここを出られないのだろうか。自分の描いた祭壇画を、もう一度観ることは無いのだろうか。
「あと少しだと、まだ何かが足りない気がすると、そう言ってたな」
ロキュというこの絵描きが何の罪なのかも知らない。王子に逆らい国を覆すような恐ろしい企みをしたという罪人たちは捕らえられた。あの者たちが集っていた教会の、壊された後の祭壇に絵を描いていた、それが罪なのだろうか。
今でもあの祭壇画を見るたび不思議な気持ちになる。この十字架の男に対して自分は何の信仰もない。なのにその前に膝まづいて許しを請い、祈りたい気持ちになる。悲しみに沈む弟子の肩を抱いて共に嘆きたい気持ちになる。「聖母」の姿を見ていると故国の母の笑顔と涙を思い出し 幸せだった幼い日々が胸の中に蘇る。憎しみが満たしていた心の中に少しずつ何かが取り戻されていく。恨みや憎しみを消しきれぬ自分にも 許し許され救われる日がいつか来ると信じられる気がした。ロキュがどこにあと少し手を加えたいのかはトーゴには解らない。だが塔から出ることのできない無念だけは日々 強さを増して伝わって来る。
床や壁の絵は日ごとに増え 部屋を埋め尽くそうとしている。ロキュはほとんど食事もとらず水も飲まない。このまま狂い死んでしまうのではないか、そう思うとトーゴの胸は痛む。エーベルハルトの命に背き 食事を運ぶ時以外にも日に数度、トーゴはロキュの様子を見に行くようになっていた。



 トーゴの気持ちが決まったのは 兵士仲間のうわさ話を聞いた日だった。その男は仲間のうちで最も貧しい国出身だと聞いた。家族からも虐げられて育ち、他人を信じず粗暴で残忍なところがあった。例の教会に謀反人を捕らえに行った時、憑かれたかのように全てを破壊しようとした。信仰の対象の像を倒し、木製の長椅子に火をつけた男だ。その男が今日、ロキュの描いた祭壇画の前で長い間立ちすくみ、やがて咆哮をあげて頽れ、座して涙したのだという。ロキュに続きを描かせてやろう。あの絵はどんな困難をも乗り越えて完成させるべきだ。もう迷いは無かった。
「絵のところに行きたいのだろう?目を瞑っていても描けると言ったな、夜の暗がりの中でも良いなら行かせてやる」
人目を忍んで塔の部屋に行き、ロキュにトーゴが声を掛ける。眠りもせず壁を埋め尽くす絵を描き続けていたロキュは、夢から醒めたように顔を上げ周囲を見回した。消えかけていた目の輝きが徐々に戻り、頬に赤みが差した。
「邪魔する者は全力で止める。さあ 早く」
トーゴに深く頭を下げて丁寧に礼を言ったその後の、ロキュの行動は驚きだった。扉の外に出るとロキュは導くまでも無く歩み始め、城の中を見張りの目の届かない通路を選んで進んた。トーゴも知らない秘密の通路や階段が壁の向こうに続いている。



 来た時より暗く人の通らぬ道を、ロキュは選んで急ぐ。城の中も国の隅々までも 何故こんなにも詳しいのかトーゴには不思議だった。一体この男は何者なんだろう。
「『刃の上を』何とか言ったな。あれは今みたいに命が危ないことをやるって意味なのか?さしずめ『危ねぇ橋を渡る』ってとこか」
教会が坂の上に見える。二人は大きく息をついて振り仰いだ。
「幼い時、家族とお芝居を観ました。ある国で兄弟の王子が戦い、刺し違えて双方が死んだ、その後の物語でした。」
「何だ、いきなり芝居の話か?」
「王はすでに亡くなっており、世継ぎになるはずの二人の王子を一度に失ったため、王子たちの叔父が王位に就きました。叔父は兄の王子を丁重に弔い、弟の方は他国と結び国を裏切った者として野ざらしにします」
「酷い話だな」
「国を守るために良かれと新しい王が考えた結果です」

教会に向かう広い坂道を行かず、裏の草原の斜面を這うように上りながらロキュは続けた。夜露が顔を濡らす。秋の風が草を揺らして吹き抜け 見上げると空には満月が青白く輝いていた。トーゴはロキュに目で合図して見張り番の仲間の目を逸らしに入口の方に進んで行く。
 聖堂でロキュは絵の具を広げ、久しぶりの絵筆に心を震わせる。月明りを頼りに、ただ祈りを込めてロキュは今、祭壇画に向き合っていた。



 ディートフリートが塔の小部屋まで戻り着いた時には 朝焼けが空を淡い紫に染め始めていた。鍵を下していたはずの扉は押しただけで開いた。一歩踏み入れて息をのむ。未だほの 暗い部屋の入口に、エーベルハルトが立っていた。
「やはり戻ってきたか。何を驚いている、お前の逃亡に気づかぬほど私は愚かだと思っていたか?」
エーベルハルトは手にした短剣をディートフリートの首筋に突きつけ、扉を閉めると部屋の隅に追い詰める。
「ふむ、こんな場所でも絵を描くとはな。これは幼馴染のコンラートやお友達というわけだ」
淡い朝の光に、背後の壁に描かれた野辺に遊ぶ天使のような子供たちの姿が浮かび上がる。エーベルハルトは低く笑った。
「幸せに遊ぶ子供たち。穢れ無く、人を疑い憎むことを知らぬ、お前のような?」
「幸せな子供の時代にはいつも貴方がいました。強く正しく優しい貴方が傍に居たから 私はいつも安心して過ごせました。貴方は私の規範、進むべき道を示す光でした」
エーベルハルトの青ざめた頬に赤みが差す。
「そうやってお前はまだ、綺麗ごとを言う。泣いて命乞いをするがいい。憎しみを産んだお前の母親と父に恨みごとを言え、ディートフリート。非の無い自分を助けてくれない神を呪え」
「私の母が貴方に悲しみを与え、私の存在が貴方をずっと苦しめた。なのに気づきもせず貴方を慕い、貴方の傍で笑っていた。非は私にあります」
「解ったような口をきくな。慕う?下らない思い出話は沢山だ。お前に非を認めさせて私が喜ぶとでも思うのか」
エーベルハルトが言い終えたその時、風に飛ばされた小枝かそれとも哀れな鳥か、何かが外壁に当たって大きな音を立てた。音のした方向に振り向いたエーベルハルトは そちら側の壁の絵を認めると一瞬視線を漂わせ、そのまま見入った。そこにはあの祭壇と同じ十字架の救世主が描かれている。明り取りの窓から差し込む朝の光が緩やかに角度を変えて部屋を満たすと、壁と床いっぱいに描かれたロキュの絵が救世主の姿を優しく包み込んだ。
 長い沈黙が流れた。ディートフリートは刃を向けられたままエーべルハルトの横顔を見つめている。エーベルハルトの目に何が映っていたのだろう。その心に何が投げかけられたのだろう。弟の首筋に刃を当てていた右手がゆるゆると力を失い、垂れた。ディートフリートは壁を背にもたせたまま 膝を折り床に頽れた。
「兄上、私はどうなっても構いません。この国のこれからのために私が害悪ならばどのようにでも排除してください。お願いです。父上の葬儀と貴方の戴冠式を執り行い、捕らえられた者たちを恩赦で解放してやって下さい」
エーベルハルトは壁の聖画を見つめたまま微動だにしない。ディートフリートはその足に縋るように頭を垂れると繰り返して懇願した。
「兄上、お願いです。私は絵描きのロキュとしての生活に浸り切り、国や民を思う心など全く無くなってしまったのだとコンラートに手紙を書きましょう。私は国を捨てた裏切り者。王子を名乗る資格も無い者だ、と」
「自分を悪者にして……か?」
ディートフリートの顔を凝視してエーベルハルトは問いかける。
「父上と兄上に会いたい、民のために何かしたいと思って戻って参りました。ですが、壊された祭壇を見て、私にできるのは嘆く人のために絵を描くことだと思いました。その後は何もかも忘れ、絵を描くことしか考えておりませんでした。絵を描いていればただ、幸せでした」
「お前はどこまでも画家だ、ということか」
「民が頼り愛するべきは貴方だけだと 世に知らしめてください。恩赦を与えた者たちの中に貴方に尽くしてくれる者もおりましょう。トーゴのように貴方が救った兵士たちも貴方に忠誠を誓っております。父上の代からの善き相談相手の臣もいます。どうぞ大切になさって下さい」
エーベルハルトは、俯いて額に手を当て、低く声を上げひとしきり笑うと、急に表情を硬くして向き直った。
「甘いのだ、お前は。そんなことでは国を治めては行けぬ」
エーベルハルトはそう言い残すと、上衣の裾を翻し足早に部屋を出て行った。荒々しく錠を下す音の後、遠ざかるエーベルハルトの足音が塔に響いていた。



 数日の後、遅い朝食を運びに来たトーゴを扉の前で待っていたのは 王子エーベルハルトだった。あの日からいつ咎めを受けるのかと怖れてはいた。だがロキュを再び絵に向き合わせてやったのは間違いではなかったという不思議な確信が心に満ちている。責めも咎めも受けよう。絵描きには絵描きの、王子には王子の正義がある。そして自分にも、だ。それだけに数日間のエーベルハルトの無言は却って重苦しくトーゴの心に圧し掛かっていた。
「トーゴ、と言ったな」
扉に背を持たせ 腕を組み斜に構えたままエーベルハルトは言う。ああ、ついに来た、トーゴは身体を固くした。
「お前の手引きで完成した、例の祭壇画とやらが見たい。同じ道で私を連れて行け」
感情を圧し殺したようなその顔からは、王子の気持ちは汲み取れない。後ろから刺されても仕方ないと腹を決め、トーゴはロキュが進んだ細い秘密の通路を先に立って案内した。エーベルハルトの静けさが逆に不気味でもあった。死をも覚悟しているつもりだったが 冷たい汗がトーゴの額を伝った。



「よくあのような通路を覚えていたものだな」
塔の部屋にエーベルハルトが入ってきて、トーゴの案内で祭壇の絵を観て来たことを告げた。あれから三日後の夜だった。
「子供のころは全てが遊び場でした。壁に隠れた秘密の通路、道なき道」
「林の中の隠れ家に秘密の基地、か」
エーベルハルトが小さく後を続けた。
「祈りをこめて色を重ね、絵に語り掛け、絵の声を聴いて参りました。あのような時間が持てたことを神に感謝しています」
ディートフリートが静かに言葉を継ぐ。
「ずっとここで絵を描きながら 何が足りないのかを考えていました。そして久しぶりに向き合って思ったのです。この先は訪れる人と時間に託されるのだと」
「託す?」
「多くの人の祈りをあの祭壇の救い主が受け止めます。ステンドグラスを通る日の光は背景の紅色に揺らぐ色と深みを重ねます。月の光は救世主や聖母の姿に優しい陰影をつくるでしょう。時間を経て多くの人を癒し、絵は深みと重みを増していきます。それはもう描いた画家だけのものではありません」
壁に、床に、ディートフリートの描いた絵をつぶさに眺めながら、エーベルハルトは部屋の中をゆっくりと歩く。
「救いと癒し、か。絵で人を幸せにするのが画家になりたい理由だったな」
エーベルハルトは十字架の絵の前で立ち止まり、呟くように聞いた。
「お前は 自分がどうなっても構わぬと言った」
「はい、命を奪われ、野に捨て置かれても」
エーベルハルトは弟の言葉を聞いて、聖画の描かれた壁に身体を預けると こつんと額を当て俯いたままで小さく笑った。



 その翌日のこと、トーゴがロキュのところに行くと、エーベルハルト王子が、扉の前で待っていた。
「絵描きのお守は今日で終わりだ」
意味を測りかねて黙ったまま トーゴは次の言葉を待った。自分かロキュの身に何が起きるのかと一瞬不安も心を過ったが、エーベルハルトの菫色の瞳はその日、不思議と穏やかだった。
「除隊を命ずる。生まれた国にでも帰るんだな」
ぽいと投げるように金貨の入った袋をトーゴに渡し、
「港まであの絵描きも連れて行け。そして二度とこの国の地を踏むな。二人ともだ」
トーゴの目を真っすぐに見つめそう言い残すと、エーベルハルトはくるりと向きを変え、靴音高く歩き出した。



「何処へ行くつもりだ?」
南行きの船に乗る列に並び、トーゴはロキュに聞いた。
「そうですね……誰も知らない遠い遠い所へ」
「追放か。それで良かったのか?」
トーゴの問いかけに、ロキュは涼しい目をして微笑んだ。
「ええ、絵はどこでも描けます。あなたも故郷で幸せになれますように」
「あんたに会えて嬉しかったよ、絵描きの先生」
「こちらこそ。あなたに神のご加護がありますように」
ディートフリートはトーゴの手を心を込めて握り、出港を見送った。

──兄上は、ご自身の中に住む清さ、優しさが見えておられないのです。もっとご自身を愛して下さい。
ディートフリートは最後に兄に掛けた言葉を、心で繰り返す。 国外へ追放を言い渡した後、ずっと無言だったエーベルハルトは、ディートフリートの去り際に 呟くように言った。
──『刃の上』を歩いているとお前に言った。だが、迂闊にも忘れていたようだ。物語の中、予言者が警告した相手は他でもない、『王』の方だったのだな。

 命に背いて、野ざらしの遺体を丁寧に葬ろうとした王子の妹を王は許さず、岩の牢に閉じ込める。神の怒りに触れたのか、以降、国の災いが続き、予言者は王に進言するのだ。頑なだった王が彼女を許したときはすでに遅く、彼女も、王の息子であるその恋人もその母である王妃も嘆きのうちに死んでしまう、そんな話だった。

あの芝居を観た幼き日、「王様の判断が間違っているなんておかしい。王様の意志は神の声なのではないのですか?」と、納得できず父王を困らせたのはディートフリート、「何故みんな死ぬのだ。何故皆幸せになれない」と怒って泣いたのはエーベルハルトだった。 ディートフリートはそのことを忘れてはいない。



 エーベルハルトの平和な治世は数年間続いた。だがそんな時代も、隣国の侵攻により儚く終わる。国境の守りにおいて肌の色や故国の異なる勇敢な兵士たちの働きは目覚しかったという。エーベルハルト王は、傷が深くなる前に隣国に和平を求め、自ら王位を辞したが、幽閉された後、果てた。民の平和と安全だけを望み、もとより民族を同じくする二国の統一を願うという英断は、多くの民を救ったのだった。エーベルハルトは、かつての国境の教会墓地に埋葬され、今でも彼の死を悼み、祈りを捧げる者は多いという。
祭壇画を描いた絵描き、ロキュの行方は誰も知らない。

祭壇画のロキュ

第73回 Mistery Circle

お題 ●弓や剣より、いつのまにか口のほうが達者になったようだな。
    ● 同盟は激烈な同士討ちを起こした。

   《 出典:「 王都炎上―アルスラーン戦記〈1〉 」 光文社文庫 著:田中芳樹 》




「弓や剣より、いつのまにか口のほうが達者になったようだな」
がっくりと地に膝をつく弟のディートフリートを見下ろしエーベルハルトは剣を収めた。
「兄上には勝てません」
柔らかな亜麻色の髪を乱し、苦し気に肩で大きく息をつきながらも いつもの人懐こい笑顔を見せてディートフリートが言う。
「簡単に負けを認める、か。なんと嘆かわしいことだ」
エーベルハルトは相手を射貫くような薄い菫色の瞳で弟を見返しながら 嘆息を漏らした。
「でも、僕は弓も剣も要らない。美しいもの 善きものを思うままに描ける絵筆こそ必要なのです」
「そんなものが何になる。お前は私の肩腕としていずれは国を治めるのが務めではないか」
「何度でも申します。僕のなりたいのは画家なのです。民を幸せにして、世の中を素晴らしくするのは弓や剣だけではありません。決して」
「愚かなことを。絵描きは、我々力ある者の依頼で描くもの。お前の好きな教会の祭壇画もまた、強い後ろ盾がなければ描けはしない。有難く民が拝むのは権力と金を持つ者あってこそ。絵描きはただの職人に過ぎん」
 いらいらとした時にいつもエーベルハルトは癖のないその金色の髪を何度もかき上げ、靴先で地面をコツコツと突く仕草をする。頭脳明晰で武芸にも優れた美しい若者で、父王自慢の長子ではあったが、折に触れもっと他人の心を掴むことのできる心豊かな者になれと、よく戒められていた。兄は王に、弟は忠実な右腕になるようにと育てられてきた。ディートフリートはそれを当たり前のことと信じ、決められた将来にも格別 不安や不満を感じたことはなかった。けれど肖像を描きに来たある画家の、奇跡のような絵筆の動きを観た幼き日の、震えるような感動を忘れることはできなかった。
 ディートフリートはその画家が来るたびに傍に行って、画布の中に吹き込まれ、育ち、広がりゆく世界を飽かず眺め、様々な幼い質問を投げかけた。気さくで子供の好きな画家は幼い王子と画家という身分を超えて 親しく絵画について語り合い、城を辞する前のひと時、彼に絵の手ほどきもしてくれた。そして教えたこと全てを吸収して目覚ましく伸びる幼き王子を心から褒め、嬉々として絵を描く姿に目を細めるのだった。

 その頃、この国と周辺の諸国では、成功した画家といえば、肖像画と宗教画の職人的存在であり、多くが「親方」の工房に属していた。マイスターの技術を学びながら、工房の中の一人として依頼人の求める絵を製作する。宗教画の多くは依頼者の、民の歓心や尊敬を獲得せんがためのものでありまた、寄進した者とその家族の天国行を保証する切符の如く思われていた。国一番の大聖堂の新しい祭壇画はいつ見ても美しく憧れではあったけれど、眺めれば眺めるほどディートフリートの違和感は強くなっていく。
 磔刑の救世主の足元に跪き祈るのは寄進者夫妻。聖なる場面のまさにその場に居るように寄進者を描きこむのが最近の流行であるとはいえ、彼らはこの時代の衣装をまとい、顔を見せるようにやや身体をこちらに向けている。その豪奢なマントや装飾品、艶の良い顔は何としても大いなる嘆きの場でもある刑場の丘には似つかわしくはない。聖母、若い愛弟子、嘆く女性の表情とそのポーズはやや芝居がかった感じがするし、救世主の腰布を翻らせる風の動き、暗く重い空の下に広がる豊かな遠景の風景描写は描き手の技術を誇示するかのようだ。
「違う」
ディートフリートはつぶやく。素晴らしい絵だ。素晴らしい技術だ。けれど、違う、違うのだ。祭壇にあるべき絵はこのようではないはずだ。

 ディートフリートが十八歳を迎えた春のある朝、エーベルハルトが自室にディートフリートを呼んだ。エーベルハルトは成人を迎えて間もない頃から、ずっと政務に関わり父王や重臣たちの信頼を得ている。父王も最近はめっきり老いて体調を崩しがちで、何かとエーベルハルトに頼っているように見える。大事な決断も王の判断だけでは覚束ないと、エーベルハルトに再度意見を求める者さえあると聞く。ディートフリートはそんな兄を変わらず敬愛していた。
「お前はまだ絵描きになりたいと言っているのだな」
「はい。私には政治は不向きに思えます。世の人々を明るくするも暗くするも政の如何、けれど芸術と信仰もまた大切な心のよりどころ。私は人々の心を絵を通じて癒し、救いを与えたいのです」
いつもはそんなディートフリートの言葉を制し、その道を正そうと意見するエーベルハルトが その日は違っていた。
「では迷わず国を出よ、ディートフリート。修行をして絵描きとして成功を収めるがよい」
「お許しいただけるのですか?父上は何と?」
「私から説得した。お前はまだ若い。見分を広め、他国の政治や経済の情勢を知って欲しい。いずれ帰った日にはそれらの経験を我が国のために役立ててもらいたい」
ゆっくりと肘掛椅子に座り直す兄の声は、いつもの鋭さを抑えて温かみを感じさせた。
「身の回りの持ち物は華美なもの高価なものを避けるように。名前を変え身分を隠すが良いだろう。万一 絵の勉強中に政情が変わり、お前が危険な目に遭ったり、人質となって国に帰れないことがないように。幸いお前はその歳になっても未だ、他国の使者にも顔を見せていないからな」
「ご心配有難うございます。決してこの国に迷惑をかけるようなことは致しません」
「お前の描いた絵が大きな教会を飾るのを楽しみにしているぞ」
エーベルハルトはそう言って弟の肩を抱き寄せる。ディートフリートは兄に感謝の言葉を告げ涙を浮かべた。エーベルハルトの指図で秘密裏に出発の手筈は整えられ 異国を目指す旅の始まりはは人気(ひとけ)のない闇夜の港だった。

「本当に行くのだな」
彼を送り出したのは重臣の息子で二人の幼馴染みのコンラート一人だった。旅立ちに期待しか無いといった様子のディートフリートに対し、コンラートはずっと重く口を閉ざしていた。
「身体に気をつけて。落ち着いたら便りをよこして居場所を教えてくれ」
「きっとそうするよ。心配性のコンラート。父と兄にも必ず近況は伝えよう」
コンラートの背中を軽く叩いてディートフリートがそう言うと、コンラートは耳元で囁いた。
「連絡はまず僕にだけして欲しい。国の様子を伝えよう」
「心配性のコンラート」
肩を抱いたままディートフリートが悪戯っぽく笑っても、コンラートは硬い表情を崩さない。
「今は何も話せないが、とにかく身の回りに気をつけろ。無事でまた会えるように」

程なく「ロキュ」と名乗る身寄りのない旅の青年が、いくつもの山を越えた国のマイスターの門戸を叩くことになる。


「ロキュ、腕を上げたな」
マイスターが目を細める。ロキュは今回の公会堂に飾る大作の背景の一部を任されている。遠景は色彩を淡くしぼかして表現するのが主流であったが、ロキュはそれに加えてきちんとした遠近法を独自に学んで会得していた。子細に描かれた遠い町の家や樹々は歪みや不自然さもなく 本当に遥か遠くに広がっていくように見える。自分にはここまで描けるだろうか、兄弟子やマイスターまでもが密かに自問し ロキュの描いたものを見つめていた。無事に公会堂の大作を納めると 次に依頼が来たのはロキュが心から描くことを望んでいた祭壇画だった。
 依頼主のアルベルト公は芸術に理解があると評判で、マイスターとも懇意にしており、幾度か工房にも訪れている。ロキュは公が大層若く美しい女性を伴っているのを見たことがある。娘だろうか、いや若い夫人か、もしかしたら愛人かもしれない、そう思いながらもあのテレシアと呼ばれていた美しい女性の姿を祭壇の絵の中に描きこむことを思うと ロキュは胸が高鳴った。

「ご夫妻の肖像のことだが、ロキュ、今度は人物像も描いてみるか?」
期せずしてマイスターがロキュにその話を持ち掛けた時の驚きと喜びは言うまでもない。マイスターと共にロキュはその後幾度も公の城を訪れ、その美しい女性を画布に写し取ることに胸躍らせた。マイスターはすっかりロキュの腕を信用しており、絵は早々にロキュに任せ、館の主と酒を酌み交わしながら隣室でくつろぐことが多くなっていた。政治や経済の話ばかりではなく女性絡みの自慢話まで、声の大きな主の話が筒抜けなのは気になったが、夫人のテレシアは花香るような微笑みを顔に刻み付けたまま、眉ひとつ動かさなかった。ロキュにとっては彼女を目の前にして制作に励むその時間はかつて味わったことのない至福の時だった。

 テレシアがロキュに直接話しかけたのは 祭壇画製作用の肖像画がほぼ仕上げに差し掛かったころだった。
「お国はどちら?ここでお育ちではなさそうだけれど」
離れていてもいつも国のこと父や兄、臣や民のことを思っていた。もちろん旅立ちに際しての兄との約束を守り、身分を隠して誰にも悟られたことはないはずだった。ロキュは黙ったまま制作に打ち込むふりをし続けた。
「あなたの言葉を聞いた時 私の生まれた国の訛りがあるような気がしたの」
親しく話しかけるその声はロキュが思っていた以上に若く明るく、幼くさえ感じられた。
「あちらこちらを旅して参りました。様々な国の出の者と親しくしております」
「工房に入る前、諸国を旅をしていたというのは聞いています」
「はい。親切な旅の一座と共に過ごした日々も大切な思い出です」
それは嘘ではなかった。国を発ってからは苦労の連続だった。騙されて僅かな金さえ盗み取られた。物乞いのように人の情けにすがり、冷たくあしらわれたこともあった。自分の世間知らずを思い知らされたが 城に居ては知ることもできない市井の人の優しさや逞しさにも触れた。
「旅の一座?では 踊りや歌もお得意?ぜひ見せて頂きたいわ」
椅子から乗り出して目を輝かせてテレシアは言う。
「残念ながら 私は絵しか能がありません。彼らのために絵を描きました」
親切に心から感謝し、共に旅をしながら友情を育んだ。懐かしく愛おしい人たち。だが そんな彼らを蔑む者は多い。貴族や金持ちばかりではない、身分に関わらず相手を見下し、傷つけても何とも感じない、人を人とも思わない、そのような場面も嫌というほど見て来た。この人も同じ人種ならば悲しい。ロキュの心配をよそに、彼女のロキュを見つめる目には変わらず温かいものが感じられた。
「揶揄っているのではないわ。気分を害されたのなら謝ります。私は生まれ育った国と、この屋敷の周りしか知りません。様々な人と出会い、自由に旅してきた貴方が羨ましい」
この人も異国から来たのか、ロキュは静かな親しみを覚えながらも 感情を表に出さないように画布に集中しようとする。
「父は国で屈指の資産家だったの。貴族の方々とも親しく、王様のお傍にも上がることも度々あった。もう遠い昔の話だけれどね」
ロキュは思わず彼女の輝くような面に目をやる。それは僅かな瞬間だったにも関わらず、彼女は何か受け取ったように思えた。ロキュの返事を待つ様子もなく、まるで独り歌でも歌うようにテレシアは続けた。
「私、一度父に連れて行ってもらったの。お城の広いお庭で迷子になった時 池のほとりで絵を描いている少年と出会った。お喋りして仲良くなって かくれんぼして駆けっこして遊んだわ」
ロキュの心に幼き日の自分が蘇る。爽やかな風、花の香、ふいに茂みから現れた可愛い客人の少女。逢った時から懐かしい感じがしたのは同じ国のひとだったからか。そしてかつて会ったことのある人だったからなのか。
「後から知ったのよ。その少年が王子様だったって」
ロキュの手が微かに震えた。口元には甘やかな微笑みをたたえたまま テレシアは真っすぐロキュを見つめた。その視線が一瞬、心を見抜くような強い光を帯びていたように感じたのは思い違いではないだろう。
「何だか懐かしいことを思い出してしまったのはこんな香る風の吹く季節のせいかしらね。お喋りが過ぎて疲れたわ。マイスターのお弟子さん、貴方のお話も少しは聞かせて頂戴な」
童女のような好奇心を煌めく瞳に宿し、甘えるような柔らかな声でテレシアはロキュに言う。一瞬でも動揺した自分を戒めながら ロキュは堅い表情に戻って静かに答えた。
「お話するほどの身の上ではございません」
程なくマイスターと主の話は終わり、促されるまま画材を片付けて屋敷を後にした。夫妻の肖像はその日を完成とし、屋敷に訪ねるのは最後となった。今度はそれを下敷きに、工房で祭壇画を仕上げる作業が残されている。


 絵に集中していると周りの音がすべて消える。ロキュは今何もかも忘れて描き出す世界の中に居た。祭壇画は観音開きの大きなもので、開いたその中央に磔の神の子が居る。がくりと垂れた頭部は茨の冠に傷つけられ血が流れる。手足の傷も生々しい。浮き出る血管や痩せた痛々しい肢体のリアルな表現もまた時代の要望に応えていた。ここに敬虔に祈りをささげる公爵夫妻の姿を描きこまねばならない。それが依頼人のたっての希望であることは知っている。だがロキュの絵筆は先に描いてきた肖像画に目をやったままぴたりと止まっていた。光沢のある布の深い紅や真珠の首飾り、金の縁飾り、血色の良い美しい肌。ロキュはずっと逡巡していた。

「思うようにお描きになればいいわ」
急に背後から声を掛けられてロキュは強張った。肖像画のテレシアを見つめすぎて、絵の中から声まで聞こえるほど呆けてしまったのかと一瞬たじろいだのだ。衣擦れの音にまだ信じきれぬまま振り向くと ロキュのすぐ後ろで腰を屈めて絵を覗き込むその人の姿があった。袖のレースが肩に触れ、香水の香りが鼻をくすぐる。
「近くまで来たので。今日は私ひとり」
「絵の具で裾が汚れます」
「大丈夫よ、衣装にはこだわらないたちなの。夫とは違ってね」
テレシアはまるで悪戯な子供のように口を尖らせ、夫の表情を真似て眉間に皺を寄せて見せる。もう一度ロキュの描きかけで止まった人物像のところを眺めくすりと笑った。
「私も変だと思うわ。そこに自分が今の姿のままで居たりしたらね」
思っていたことを言い当てられてロキュは内心どきりとした。
「でも、それは……」
「大丈夫よ、私が主人に言うわ。豪華なドレスを着て、顔を見せている私たちでなければ良しと思いにならないのですか、私はこの神聖な場に居合わせさせて頂くだけでも満足です。後世の人が誰と解らなくても一向に構わない。多くの過去の祭壇画のように扉の外の面に別に描いて頂いたって有難いわ、と」
テレシアの物おじしないきっぱりしたものの言い方にロキュは驚く。


 完成し教会に収められたその祭壇画は依頼主の不満足をよそに随分と巷の評判を呼んだ。画面にはしっとりと違和感なく馴染んで まさにその場面に居合わせたかのような夫妻の姿がある。描かれた姿は依頼主の深い信仰心と、誠実で控えめな人柄を感じさせ、地味な衣装で顔を伏せる夫人の様子も好感を持って受け容れられた。そしてその結果、公もしぶしぶではあるがその出来の良さを認める形となった。

「そうね……私も素晴らしい祭壇画だと思う。評判も上々。マイスターの弟子のロキュといえば皆その腕を褒めるわ」
自らの描いた祭壇画を確認しにロキュが教会に寄ると そこには幾度となくテレシアの姿があった。自分の名が工房を離れて世に知れ渡っていることはロキュ自身も知っていた。
「でも貴方は納得していない。これでもまだ、思う通りでは無いという感じね」
祭壇画を見つめるロキュの隣に立ったテレシアはいつもながら鋭い。近頃は人目も気にせずロキュの仕事場に一人で立ち寄ったり、話しかけたりもする。そんなテレシアの解き放たれたような自由さを喜ばしく思っていいものかロキュには解らない。彼女のことを想うとき心の奥から沸き起こる熱いものを、ただひたすら絵筆を動かすことで鎮めようとしていた。
「聞きたいわ。何処が気に入らないの?貴方の目指しているものは何?」
「解りません。ただ 本当に跪いて心から神に祈りを捧げたくなるのはどの画家が描いたとか、技術がどうだとか そういうものとは別のものだと思います」
「腕が良いと評判になるのは不本意?それとも『ロキュ』が有名になるのが困るのかしら?」
思わず振り返ってテレシアを見た。
「夫が貴方の身元を調べさせています。気を付けた方が良いわ」
耳元でそう囁くとテレシアは裾を翻してロキュの元を去った。甘い香水の香りだけが ロキュの周りに残った。国から来た使者が父王の重篤な病状とエーベルハルトの対外政策について報告してきたのはつい先日のことだった。

 国では父王の病状の悪化で兄のエーベルハルトがすべてを任された形になっている。隣国との交渉が決裂したのち、戦いに備えてエーベルハルトは隣国を囲むような形で周辺の諸国と同盟を結ぼうと図っていた。しかし、父王の時代から隣国とは友好が深く、商売だけではなく婚姻も多い。友人や親族が居る民も多かった。民の反発だけでなく、官僚や兵士の中にもこの政策に不満を持ち、争いに反対する者も数えきれず居たのだ。この国を含め同盟を持ち掛けられた国々の態度も未だ不安定で、いつ味方が敵に替わるか解らない。少なからずエーベルハルトの人間不信の気持ちも周囲に影響しているようだった。
国に帰って微力でも兄の力にならねばならない。でも自分に何ができるのだろうか。ロキュが思いを巡らしている時、コンラートが訪れ、思いもかけないことを告げた。
 国内でエーベルハルトのやり方に不満を持つ者たちが、次期国王にディートフリートを望んでいる。父王も元より兄のエーベルハルトではなくディートフリートに目を掛けていたのだというのがコンラートの言い分だった。
「まさか。そんなはずはない。そんなことがある訳がない」
「気が付かなかったところがお前らしい。他人に厳しすぎるエーベルハルトよりご自身に似た優しい性格のお前の方が為政者としての資質があると王は感じておられたんだ。そもそも、画家の修行をせよと国を追い出したのは誰だ?」
「決して追い出されたわけではない。兄は父を説得したと、見分を広めて来い、と そう言ってくれた」
「説得?王は何も知らされてはいなかったんだぞ。愛する息子が自分と国を捨てたと 王はそう思っておられる。そして混乱の今、それでも尚お前が居ればと、病の床の中でお思いになっている。そしてそれを一番感じていたのがあのエーベルハルトだ」
「何かの間違いだ。兄はそんな卑怯者ではない」
「今まで生きていられただけでも喜ぶんだな」
「父にお会いしたい。変わらぬ真心をお伝えしたい。今すぐにでも帰らねば」
「待てディートフリート。今、うかつに国に足を踏み入れるのは危ない」


 自分の部屋でロキュは画布に向かっていた。誰に依頼されたのでもない、自分のための一作を密かに描き続けてきた。磔の救世主の後ろに広がる風景は描いたのち消し、緞帳が下されたように深い紅の色に塗りこめられている。その前に立ち、嘆きのポーズをとる聖母の面差しはどこかテレシアに似ていたが、俯いて手で顔を覆い、色彩も極力抑えられ、肌や布の質感さえ彫像のそれに近かった。聖母と対をなし、弟子のひとりがこれもまた抑えた悲しみの表情で立ち尽くしている。筆を加えれば加えるほど、悲しみの弟子も磔の救世主も不思議なほど自分自身に似てくる。もっと神聖なものが描きたいのに、もっと自分を消して描きたいのに。どうしても描けない自分が悔しかった。

「お前の描きたかったのはこういったものだったのだな」
振り返るとマイスターが腕を組んで立っていた。尊敬する師匠の悲しそうな表情がロキュの心に影を落とす。先の祭壇画で夫妻の描き方に大幅な変更を加えたことを、マイスターは依頼主に責められたという。夫人のとりなしと事後ではあるが評判の良さで怒りは収まったものの今度は夫人がロキュと親しくする姿を見とがめられてしまった。そのようなことでマイスターは一言もロキュを責めはしない。いつも弟子を信頼し誠意を尽くして相手に語り、どんな時も自分たちを守ってくれることは兄弟子からよく聞かさていれた。
「誰よりも美しい風景を描けるお前が、誰よりも柔らかで温かな血の流れる人間を描けるお前が、それでも描きたいのはこのような祭壇画だという……」
ロキュはただ頭を垂れる。父や兄と勝るとも劣らぬ深い愛情と尊敬をロキュはこの老いたマイスターに感じていた。
「お前が正しいのかもしれないな。ロキュ」
そう寂しげに言うマイスターはその画布と、その先の片隅に小さく纏められた荷物を見つめていた。
「お世話になりました。御恩は一生忘れません、親愛なるマイスター」
今、ここを自分は離れなければならない。これ以上留まれば、マイスターにもテレシアにも迷惑が掛かるに違いない。ロキュは老マイスターと別れを惜しみ、心を込めて抱き合った。

* 
 故国は不安が蔓延し、民の心は荒んでいた。反逆者の疑いを掛けられた者は捕らえられ、密告する者を恐れ、すべての民が心安らぐ時のない日々を過ごしていた。
コンラートの言うのが正しいのなら国に還って父に会う前に捕らわれてしまうかもしれない。きっと兄は今、辛く苦しい立場に立ち、混乱しているのだ。話せば誤解は解ける。兄の力になる努力はできても代わりになることなど到底ありえない。自分は政に口を出す器ではないと知っている。けれどまず病の床にいる父に会い、今日まで勝手をしたことを詫び、決して国や父を捨てたわけでは無いと心を込めて伝えたい。そして兄に決して王になりたいなどと思っていないことを解ってもらおう。自分を担ぎ上げて兄を追い落とそうなどと考えている者が居るとしたら そんな考えは間違いだと正さねばならない。エーベルハルトのやり方が誤っているとしたら、「弟のディートフリート」として共に正しい道を探そう。きっとそうしよう。そして国が落ち着きを取り戻し皆が許してくれるなら、そして兄が自分にそれを望むのであれば、また絵描きの「ロキュ」として暮らしたい。国境に向かう山道を急ぎながらずっとロキュはそれだけを念じていた。
山あいの村の小さな教会に火が放たれたのを見たのは帰途に急ぐそんな最中だった。

***

 その小さな教会は静かな山あいの村にある。山を越えて旅する者は遠くからでもその美しい緑の木々とと花の咲き乱れる庭を目にし、つい足を踏み入れるのだ。そこは国が分かれていたころ国境(くにざかい)だったということだが 今は山越えの旅の間の丁度良い休息場所となり、旅の者の疲れを癒している。庭の世話をしているという品の良い老婦人は、控えめに、それでも何か確信を持った様子で礼拝堂に旅人を案内し、祭壇にまつわる昔の話をしてくれるのだ。

──かつてここには素朴な祭壇がありました。壁の中央高い位置に木彫りの救世主、祭壇の左右に 同じく木彫りの聖母と弟子が、村人の捧げるたくさんの花々にいつも囲まれて訪れる人々の祈りを聞き、見守っていたのです。国境の警備も緩やかで行き来も自由にできた時代で、隣国からもこの教会を訪れる人も多くいました。隣同士の国の民が、共に祈り共に語らう場としても愛されてきた場所だったのです。
ですが、戦争の気配が濃くなり、国が乱れ、内乱が起こった頃、その教会に反逆者が集い謀反を企んでいるというのが王子エーベルハルトの耳に入りました。政を仕切るのはこのエーベルハルトです。病の床に居るはずの老いた王は、この混乱の時の中すでに亡くなっていて、次期国王についてはエーベルハルトの弟の王子の名を言い残したという噂もありました。確かなことは解りません。
エーベルハルトの命により屈強な兵士が集められました。中には異教の者も居りました。
山あいの平和な村の小さな教会を兵が取り囲み 中に居た者たちは捕らえられ牢獄に連れ去られます。王子の命令がどこまでだったかは定かではありませんが、村人が愛した祭壇は聖なる像もろとも打ち壊され、炎に包まれてしまったといいます。

通りがかった一人の画家は、教会の惨状を見、村人の嘆きを知り心を痛めました。捕らえられた者の家族、巻き添えで怪我を負った者たちがそれでも教会を修復しようと力を合わせて働いています。画家は自分のできることをさせて欲しいと申し出て、自らに問うた後、壊れた祭壇の壁を塗り直し、そこに直接 絵を描き始めたのです。
 その画家ですか?そう、その画家に何の罪があったというのでしょうか、捕らわれてどこかに連れて行かれたそうです。ただ、囚われの身のまま、祭壇画を完成させることだけは許されたとのこと。再び戻って来て、兵の監視の下、絵筆を動かし続けたといいます。
絵は完成しました。が、画家は戻りませんでした。エーベルハルトは追われ、国境は無くなり両国の民に平和が戻りました。画家のその後のことは誰も知りません。

「これがその祭壇画なのですね」
旅の者が言うと、案内人の老婦人は深く頷いた。尋ねると、若い頃異国で結婚したこと、夫を亡くして後、故郷であるこの場所に戻って来たことを言葉少なに語ってくれる。
「皆『ロキュの祭壇画』と呼んでいます。画家自身は名を残すことなど望んでいなかったのですがね」
「ご存知なのですか。その画家を」
知っているとも知らないとも老婦人は答えず
──ゆっくりご覧になってくださいね、心静かに向き合うと、敬虔な気持ちになれることでしょう、それが画家の望みであり祈りなのですから。
そう言うと、旅人を祭壇の前に残して立ち去った。

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すずはら なずな

すずはら なずな

どれも短いお話ですが 
一つでも心に残ったら嬉しいな。

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