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生きることにちょっと 不器用な子どもたち、もと子どもたちの 短いお話を 綴っています

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夏のワルツ~サティさんの話をしよう

「小学生の話はとっ散らかって纏まりがない」と自分で書いてますが、まさに私のこの話こそ とっ散らかってるなーという思いはぬぐえません。出てくる2曲の旋律を右手と左手で被せて弾けるか試してみましたが上手くいきませんでした。またトライしてみよう。

第68回 Mistery Circle お題

●彼は両手の中のものを、そっとわたしの中に移し替える。
●「土になんか埋めてほしくないんだ」

お題出典:「 まぶた 」 新潮文庫 著:小川洋子

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



――手を出して。
彼が目でそう示す。そのサインはたぶん私にしか解らない。
彼は両手の中のものを、そっとわたしの中に移し替える。 そのまま彼は静かに目を閉じた。
すっかり安心した寝顔を私はただ見守っていた。その数日後 彼は旅立った。

*
彼、の話をしよう。
初めて出会ったのはもう10年以上前のことになる。そして 会うことがなくなってからの長い時間 彼の消息について私は何も知らなかった。
聞いたことも無い遠い田舎町の病院に入院している、もう長くないのだと彼の親戚という人からメールが入った時の驚きは言い表せない。 どういうご関係の方かも存じませんし こんな連絡もご迷惑かもしれませんが…と、メールの送信者さえも 彼のことをよく知らない様子だった。

「誰?どういう人?」と聞く夫に、説明する言葉が上手く見つからなかった。
今は使うことも無いそのフリーのメールアドレスと名前を書いたメモを彼に渡したのは、彼と私たちが過ごしたあの夏だ。自分の携帯も無く、家のパソコンを家族の目を気にしながら使う中学生の私と、携帯はもちろんパソコンを使うのかどうかも知らない彼との間を繋ぐそのアドレスは 今日のこの日まで何を伝え合うこともなかった。そんな古いメモ書きを大事に彼が持っていてくれたなんて、思いもしなかった。そしてそんな受信トレイを、その日偶然に開いたのも奇蹟のようなことだった。

*
彼の話を、しよう。
それまで彼のことを私は何も知らなかった。
あの時私は中学生で よく学校をさぼってはあてもなくふらふらと歩きまわっていた。放課後の時間も夜遅くまで、なるべく家にいないようにしていた。家にいても学校にいても窒息しそうな自分を持て余していた。
隣町の、初めて歩く細い路地で初めて見た彼は 丈の長い白いシャツとゆったりとしたデニムのパンツにサンダルというラフな姿だった。胸ポケットから片耳に繋がる白いイヤホンからは何が聴こえているのだろうか、時折目をつぶって聴き入っている。時間の流れがそこだけ違っていて、心はもっと別の世界に居る、そんな感じがした。一瞬で「普通の大人」とは全然違っているのが解った。
すぐに近づきになりたいと思うほど興味を持った、ということではない。何故こんなところで立ち止まっているのか、見下ろしている深い溝に何かいるのか、気にはなったがそんな素振りは見せないで通り過ぎるつもりだった。押した覚えはない。掠ったということも無いはずだ。が、驚いたことに次の瞬間 彼は溝に入ったのだ。「落ちた」というには動作が緩慢で 「降りた」というには つんのめった様子で、足元もおぼつかない。ほおっておけ、関係ない、と気づかないふりをして去るはずだったのに、声が先に出てしまったのだ。

気まずいと思う間もなく、相手は少し首を傾げてこちらを振り向き、真っすぐに視線を合わす。慌てて言葉を探した。「な…何かいるの?」
相手は答えないまま すっと屈んで手を水の中に入れ、両手で何かを掬うようにして持ち上げた。溝に立ったままその手を私に差し出す。溝の上から私はそれを見下ろす。
何か大事なものを包み込むように合わせた両手を 高くかかげ、彼がそっと開く。ほんの一瞬、開いた掌からきらきらした透明なものが空に向かって昇っていくのが見えたような気がした。 
*
それから何度か 同じ町の色々なところで彼を見つけた。私は彼に会いたくて、いつもその姿を探していた。あの人の澄んだ目をもう一度見たい、あのきらきらしたものは何だったのか教えてほしい、そう思った。
舗道の脇で、公園の植え込みの前で、スーパーの駐車場で私は彼を見つけた。ひょろりと高い身長と、目を隠すように伸びた柔らかそうな茶色の髪、いつもの白いシャツが目印だった。何よりどんな騒々しい音のする場所でも人混みでも、彼の周囲の空気だけ静かに止まったように見える。何者にも邪魔されない世界で彼は一人佇んでいた。

何をしているのか 彼が何者なのかを知る機会が訪れたのは偶然で、教えてくれることになったのは 小学生の男の子たちだった。
嫌がる素振りも見せないのをいいことに、だんだん遠慮無く傍に寄るようになり、好きなだけ彼について歩くようになった私を 少年たちが遠目に見ていることは気づいていた。
「ゾ・ン・ビー」
ある日 一人の少年がそばを駆け抜けながらそう言った。聞き違いかと思ったが また別の日にも その友達と思しき少年が道路の向こう側から 同じ言葉をこちらに向けて叫んだ。そして ある日、私が一人で歩いている時に「ゾンビのカノジョー」と言いながら 数人の少年が私の傍を駆け抜けた。

彼らを以前見かけた児童公園で待っていると予想通りさっきの少年たちがやってきた。私を見つけた一人が連れの子供に耳打ちして くるりと回れ右して逃げ出そうとした。サボっているとはいえ一応陸上部員だ。足は私の方がはるかに速い。遅れて走っている二人を一度に捕まえることができた。
息切れしながらも笑っているやんちゃそうな茶髪と、小太りで泣きそうなもう一人、二人の頭を抱え込んだまま 後の仲間も戻ってくるように呼んだ。別に怒ったりしないから、ちょっといいかな。
4人の子供を前にして私は 残念ながら私は「カノジョ」ではないどころか あの人のことを何も知らないのだ、と告げ、何か知っているなら教えてくれと 実にフレンドリーに話しかけた。 4人も抵抗を諦め、互いに目で合図しあうと、私に向かって話し出した。気を許しだすと後は早い。
小学生は一斉に喋るし 一人が言えばもう一人が否定するし とっ散らかって纏まりがない。それぞれが「聞いた話」を好き勝手に喋り出す。それでも 彼が「ゾンビ」と呼ばれていることと、その由来はなんなく掴めた。

「あちこちの墓場から出て来るのを見たひとがいるんだ」「頭から血、ダラダラ垂らして 血だらけの服で歩いていたことがあるって」「あいつの母ちゃんの葬式の時、騒いで邪魔して滅茶苦茶にしたんだって」「墓を掘り返してたって。見た人がいるんだ。土ついた手のまま こう・・・」「ぎゃーっ」

きっとそれぞれに想像以上の事情があるはずだ。お母さんを亡くした子供がお別れが辛くて葬儀を邪魔することだってあるだろう。お墓にいたのだって、血を流していたのだって 噂が本当ならば何か理由があるに違いない。そういうのって関係ない人たちが面白おかしく話のネタにするなんて、ひとを傷つけるあだ名でからかうなんて、良くないことだと 年長者として子供たちに言うべきことは後から考えたら沢山あった。けれどその時は、それがどんな情報であれ彼のことを少しでも知ることができたことの方が大きくて、少年たちにアイスなんかおごって またね、と別れてしまった。ただ彼のことを考えたり、直接話しかけたりするとき「ゾンビ」はあんまり宜しくないと思い、次は名前を知りたいと思ったのだった。
*
すっかり蒸し暑くなった。学校は夏休みに入っていた。
「今日は雨降るよ、夕立。」「傘なんか持って歩いてないよね」「私、二つ持って来たんだ、準備いいでしょ」いつものように 公園の植え込みの前に彼を探し当て、私は話を続ける。全く私の声が彼に届いていないとか、鬱陶しく思われているとかではないことを勝手に信じていた。
「何をいつも聴いているの?」ポケットには今時珍しい旧式のカセットテープレコーダーが入っていて、イヤホンはそれに繋がっていた。
「聴きたいな、私も」
そう言うと、彼はゆっくりとした動作でイヤホンを外し、私に差し出した。私への初めてのはっきりした反応に驚きつつ、とても嬉しかったことは忘れない。
イヤホンからは女の人の声と、その後ピアノ曲が流れた。
『お母さんの大好きなサティを弾きます』後ろで子供の楽しそうな笑い声も聞こえる。話し声は優しく、ピアノの曲は聴いていると波に揺蕩っているような、心地よい気持ちになるワルツだった。「お母さん」の声と音楽を共有できたこと、それを彼が私に許してくれたことが嬉しかった。距離がうんと縮まった気がして、それ以降、毎回更にいろいろと話しかけた。やはり彼はほぼずっと無言ではあったけれど、たまに小さな相槌やかすかな表情の変化を見せてくれるようになった。だが そういうのもまだ一瞬のことで、その後は傍にいるのにどこか違う世界に居るような彼に戻る。名前も聞き出せないままだったので 彼を勝手に作曲家の名前を借りて「サティさん」と呼ぶことにした。

サティさんが立ち止まるとき 彼の視線の先を気を付けて見ると そこには見逃しそうな小さなものの「死」があった。まだかろうじて生きているものもあったけれど、お腹を上に向けた小さな魚や 身体から液を垂らして動かなくなったバッタや、何かに轢かれたのか片羽が破れ、アスファルトに張り付いたような蝶もいた。
最初に彼を見た日もきっと 溝の中にそういう生き物がいたのに違いない。彼はそういう生き物を見つけては、立ち止まりじっと見つめていた。彼はしゃがんでその小さなものにそっと触れ、目を閉じて長い間黙っていた。明らかに息絶えたものについて 私が「埋めてあげる?」と聞いた時、彼は私の声ではっと我に返ったようにこちらを振り向き、静かに首を横に振った。アスファルトの上で死んだカマキリは、花の傍にそっと移した。鳥は羽を一枚風の中に飛ばし、飛んでいくのを見送った後、銀杏の木の下に埋めた。
土に、草に、空に、水に。様々な方向に向けて 彼は手に包み込んだ何かを そっと放つ。それはきっと生き物たちの「魂」なのだ、と私は思う。そしてそういうものたちの最後の声を、どこに行きたいのか どうして欲しいのかを 彼は埋葬する前に、聞き取っていたのだ、と そう思う。

ハムスターの死骸をあの小学生たちが公園に埋めに来たところに出合ったことがある。一人の子がかわいがって飼っていたハムスターだったらしく、酷く泣きじゃくっていた。他の子たちも流石に口数少なく、項垂れている。サティさんが近づいて行って、そっと手を出しハムスターを自分の手のひらに載せ、静かにその身体を撫ぜた。厳粛な葬儀をしてでもいるような様子で子供たちは彼を囲み、彼が目をつぶると 同じように黙とうした。すすり泣く子供たちの声以外の音が一切消えたみたいだった。
ハムスターに野の花やヒマワリの種を添えて桜の木の下に埋めながら、少年の一人が古い映画の話をした。身寄りのない小さい女の子と少年が出会って、死んだ動物たちの墓地を作る話だ。「だんだん秘密の墓地作りがエスカレートして霊柩車の綺麗な十字架とか…本当のお墓からも十字架盗んで使っちゃうんだ」「なんとなくわかるかも。独りぼっちのお墓で目印もないのって寂しいもん」「だけど大人には、たちの悪い悪戯だと思われちゃうんだよね」「ねえ、ここにも何か立てておく?やっぱ十字架?」
俯きながらぼそぼそと映画の話を続けていた4人はそこで考え込んでしまい サティさんの方を振り返った。サティさんはゆっくりと立ち上がって両の手で太い幹に触れ、高い枝越しに空を見上げた。
「大丈夫。桜の木があるもの。毎年綺麗な花が咲くんだよね」
サティさんと同じに空を見上げ、拳で涙を拭きながら飼い主の少年が言った。

「で、その話はその後どうなるの?」「女の子は連れて行かれちゃうんだ。一緒にいさせてくれるって約束したのに。大人なんて嘘つきだ」
私でさえ知らないほど古い映画のようだったけれど、少年が口ずさんだ物悲しい綺麗なメロディーには聞き覚えがあった。
埋め終えるとサティさんはかぶせた土の上に長い間手を当てていたが、いつものように両手で何か掬うようにして包み込み、そのまま立ち上がった。みんなが黙ったまま彼の動きに注目する。彼は飼い主の少年の胸のあたりに向けて その手を差し出し、何かを彼に流し込むような角度でそっと開いた。暮れかけた空は夕焼け色に藍色が迫り いくつかの星が瞬いていた。
「あ…」私は思わず声をあげる.
木陰の暗がりの中、飼い主の少年の胸に向かって きらきらしたものが流れ、揺らめいて消えた…ような気がした。

サティさんと二人の時は相変わらず私が勝手に喋っているだけだったけれど、夏休みの間に サティさんを囲んで私たちの関係は緩やかに変化していった。子供たちも、もう彼を「ゾンビ」とは呼ばない。
小学生たちについても茶髪はタクミ、眼鏡はトキマサ、映画の話をしてくれたのはナオヤ、ハムスターの飼い主の小柄な子はトシキ、と名前で呼ぶようになった。「サティさん」は「サトルさん」だということも解ったが 音がどこか似ていることもあって「サティさん」とみんな呼ぶようになった。胸ポケットの中のテープレコーダーは彼らにとってかなり珍しいものだったようで、彼にせがんでは触らせてもらっている。いつもイヤホンを回し、みんなで 彼のお母さんの演奏するサティのピアノ曲を聴いた。

サティさんのお父さんがすぐ殴る人だったという話はトキマサが聞いてきた。「だから、この前言っていた『血がだらだら』?」「お父さん出て行ったままだって。サテイさん、今一人暮らしなんでしょ?」
そんな話をきっかけに、私も寡黙で不思議な大人と子供四人を相手に、自分の家の事情とか悩みとかを話し始めた。うちの父も言葉の暴力で母や私を責め立てる。いっそ殴れば?とか出て行ってくれればいいのにと思うこともある、と話すと、サティさんはとても悲しそうな顔をした。子供たちにも大なり小なりそれぞれに家族との悩みがあった。

「品出しの仕事、うちの母さんパート始めてさ、知ってたよ、サティさんのこと」「仕事、真面目だし丁寧だって。店長もほめてたって」
いつものように公園の桜の木の木陰で集まって喋っていた。サティさんの勤める店の店長の話をまるで自分が褒められたように自慢げに話すトシキの様子がおかしかった。

ナオヤがあの映画のテーマ音楽をハミングする。「途中から明るい感じになるところが好きなんだよね」ナオヤが言う。「転調っていうんだよ。短調から長調」私が言う。トキマサがテープで覚えたサティのワルツをハミングする。「これはずっと明るいからいいね」トシキが言う。タクミがトシキの手を取って適当なワルツを踊り出す。ナオヤが長調のところだけ繰り返して歌い、3人の歌うサティのワルツに被せる。私も照れるトキマサの手を取って立たせ、日が陰るまで大笑いしながら踊った。

みんなといる時のサティさんの表情がとても柔らかくなり、子供たちの一人ひとりをちゃんと「知って」いることが解る。黙っていても答えなくても決して聞こえていないとか無視しているとか そういうのではないことがみんなには判っていた。サティさんと私と少年たちはその夏「親友」だった。


けれど楽しい時間は長く続かない。トキマサが塾の夏期講習に行くことになった。「訳の分からない大人や中学生と一緒にいる」ことを親にとがめられたのだと トキマサが悔しそうに言った。私も私で、公園でサティさんと制服姿の私が一緒のところを見かけたと学校に通報された。真面目に学校に行っていなかったことで父に詰られ、母にはサティさんとのことであらぬ心配をされ、部活に戻るよう教師に説得された。教師に頼まれたのかもしれないが、数人の友人も何かと訪ねて来、対応に忙しく過ごした。何もかも反発してきた今までと、少しだけ自分が変わった気がするのは、小さな命に心を寄せるサティさんと過ごした時間のおかげだと思う。小学生の「仲間」の前で、拗ねてかっこ悪い自分をそのままにしておくのも嫌だった。父も母も、通報した人も教師も知らないことがある、解らない大切なことがある。そんな大人は可哀そうだな、そう思う。
決定的な別れがやって来たのは雨の降る蒸し暑い日だった。部活を終えた私のところにタクミとナオヤが息を切らしてやって来た。

「大変だよ、サティさんの部屋が火事だ」
「火事…って。サティさんはどこ?無事なの?」
みんなで一緒に走り出す。「サティさんは大丈夫。留守だったんだ」「良かった」「でも…違うんだ、良くないんだ」「何、どういうこと?」
ナオヤが息切れしながらなお、必死で話そうとする。
よく聞くと 大きな火事ではなくいわゆるボヤで済んだそうなのだが、大家さんがカンカンで、今すぐにでも追い出されそうだ、ということだった。
「『最初から反対だったんだ。あんな奴を一人暮らしさせるなんて』、って 親戚呼びつけて連れて行けって怒ってる。親父さんが出ていったままって知らなかったんだって。」
「あんな奴…って、」
「アイロン掛けてる途中で置いたまま 公園に行ってたんだって。パニックになって土掘り返してたって」
いつも 白いシャツは綺麗に洗濯してアイロンもしっかり掛けられていた。それはサティさんのこだわりで、「アイロンなんてうちの母ちゃんより上手だ」タクミが悔しそうに言う。何でそんなに急いで公園に行ったんだろう。どうして土を掘り返したんだろう。どうしてパニックになったんだろう。走りながら色々なことが頭の中でぐるぐる回り続けた。

でも、私たちが揃って会うことは結局それからずっと無かったのだ。サティさんは警察や消防に事情を聴かれ、大家さんに責め立てられ、怯えて更にパニックになったという。
私たちは親に頭を下げてもいい、誰か大人に掛け合って、彼が追い出されたりしないように何かして上げたかったが、動くにはすでに遅かった、母方の親戚という人が呼ばれて、ほんの数日のうちににサティさんを連れて行ってしまった。 どこか遠くの「施設」に入れられたと聞いたのは 秋も深まったころ、塾の鞄を下げたトキマサとたまたま電車で出会った時だった。


「生前『土になんか埋めてほしくない』って母親がサトルに言っていたんです」
訪ねて行ったその日、病室で私を待っていた親戚のおばさんは私に言った。 亡くなったお母さんの親戚とうその人の声や喋り方はどことなくカセットテープのお母さんの声を思い出させた。
「心配だったんでしょうね。あの子を父親と二人にして、置いては逝けない、そういう意味だったんだと思います。」

お母さんの亡くなった日はあのボヤのあった日と同じに蒸し暑い日で、雨が降り出していたというのも一緒だったそうだ。お母さんのことを思い出したのかもしれない、とおばさんは言った。そうなのかもしれないし、公園に埋めたハムスターや、小さな生き物たちの呼ぶ声がサティさんには聞こえたのかもしれない、私は黙っておばさんの話を聞きながらずっとそのことを考えていた。
やっぱり一人暮らしなんてさせないで 誰かが世話をすべきだったのだ、とおばさんは悔やんでいる様子だった。言っても仕方ないといいながら 出て行った彼の父親について無責任だと非難するその人に、私は私の知っている彼が、どんなに「ちゃんと」暮らしていたのかを話した。


サティさんが亡くなったことを私は彼ら、タクミ、ナオヤ、トキマサ、トシキに連絡した。
彼らが来たら一緒に、私がサティさんから受け取った「サティさんの大事なもの」を空に向けて放とう。身体がどこにどんな形で埋葬されても心配ない、私は先に受け取ったものを手の中に大切に持っている。それだけじゃない、ここにも、この胸の奥にもサティさんから大事なものをもらって持っている。
4人揃って本当に葬儀にやって来るかどうかは解らない。でもあの夏休み 確かにサティさんと私たちは親友だった。それは変わらない。

みんなで彼の話をしよう。ワルツを聴きながら無口で不思議な、澄んだ目をしたサティさんの話をしよう。

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終点の氷細工屋

父の庭にどくだみが咲いています。鉢に移して部屋に飾っています。どくだみの咲いている通学路の小道は本当にあって、ピアニストの人が住んでいるという大きなお屋敷もありました。色々と懐かしいアイテムがちりばめてあります。


第67回 Mistery Circle お題

そのうち、外の闇の中から自分の名前が調べにのって聞こえてきた

氷のリンゴはとてもめずらしいもので、それにくらべればダイヤモンドなど浜の砂粒くらいにありふれたものだった。
お題の出典:「ゴ―スト・ドラム」 サウザンブックス社 著:スーザン・プライス 翻訳:金原瑞人 





誰かの呼ぶ声が聞こえる。寂しげな笛のような音が遠く響く。振り向いてあたりを見回しても誰もいない。細い道。辺りは真っ暗な闇だ。踏み出したらその先、足元に何も無い。不安定な姿勢になって仰向けに倒れそうになり、握りしめた大切なものが、開いてしまった手のひらから離れていく。「大切なもの」はきらりと光って一瞬空中に浮き、繁みの闇に消えた。いつもの夢だ、早く覚めなければ。
*
「遠野さん?遠野さん?大丈夫ですか?」
目を開けると こちらを覗き込む女性の輪郭が見えた。目鼻立ちはぼやけて確認することができない。ここがどこで 今がいつなのかも掴めなかった。視界が少しずつクリアになってきて、背を向けて水差しからコップに水を灌ぐ女性の姿を認める。きっと新しく来た家政婦なのだろうと思う。そうだ、この前の女が、割れると危ないからと言って食器をプラスチックのものに勝手に替えた。大嫌いなのだ、こんな安物をあてがうなんて、とコップを壁に投げつけた。クビだ、出て行けと怒鳴りつけた。それにしてもどんなに深い眠りだったのだろう、現実からずっと遠くにいて 今帰ってきた そんな感じだ。
*
あれこれ話しかけるうるさい女を振り切って散歩に出た。声は聞こえるのに何を言っているのかよく解らない。聞き返すのも面倒だし 理解したいとも特に思わない。どうせ大たいしたことではないのだ。最近身体が思うように動かない気がする。仕事で疲れているのだろうか。今までこんな感じは無かったのに、情けない。角を曲がり間違えたのだろうか、目の前の風景に違和感を覚える。見知らぬバス停が見える。この付近は長く住んでいるのだ、一筋間違えたからとて 見たこともない道なんぞにはめったに出くわすものではない。何かの勘違いだろうと 目を凝らして前を見、振り返って、来た道を確かめる。
バス停は古臭い木造で、ベンチの周囲に囲いと屋根がある。一時間に1本程度の運行を示した錆の浮いた時刻表が掲げてある。近づくと、柱の陰に隠れて見えなかったのか、小さな女の子がひとり座っていた。花の刺繍の入った丸襟の水色のワンピース、白いレースのカーディガン、白いレースのソックス。肩より短くまっすぐに切りそろえた髪は艶やかな光りの輪を描き 夕刻の茜色の空気に包まれて少女全体の輪郭が溶け込むようだ。
「すみません。今何時ですか?」
急にあちらから話しかけられて 少しうろたえる。子供と話をするなんて 何十年ぶりだろう。
腕を見たものの腕時計をしていなかった。その無意味な動作を誤魔化すために 咳払いをひとつ、
する。どこかで会ったことがあるだろうか。誰かに似ているのだろうか。初めて会った気がしないが、何も思い出せない。少女の横顔を窺っているうち ふと知っている香りがしたような気がした。草の葉の香り、花の香り…何だろう 何かひどく胸が痛いような苦しいような気持ちになる。「懐かしい」というのはこういう気持ちを言うのだろうかと柄にもなく思う。

*
──ずっと「氷細工屋さん」だったのよ、わたし。
一番後ろの長い座席に並んで腰かけていると 窓の外を眺めたまま少女は言った。
他に乗客は一人もいない。少女に付き合うつもりなんて特別になかったのだ。ただ、目の前に停まった旧式のバスは前乗りで、保護者だと思われたのか運転手に強く促され、乗る羽目になってしまった。日は暮れかけており、バスの中は薄暗くて いつになく子供を一人で放っておくことができないような気になったこともある。
「氷細工屋」という聞きなれない言葉と「だったのよ」という語尾が奇妙に聞こえたが 反対側の窓の外を眺めたまま少女の言うに任せて、黙って聞いた。
──お店を開くときは 鳥の形をした笛を吹くの。不思議な音色のね、歌のような、そうでないような、もの悲しいような。でも陰気っていうのではないの。他では聞いたことのない、遠い異国の音楽のような。お店っていってもそれは小さいものなの。だけど氷はお客様が欲しがる分だけあって切れることはない。お客様の手に渡した時、溶けているなんてことも絶対ないの。
お客様が差し出すお代金を受けとると、わたしは小さな氷の塊を取って 小刀で細工を始める。お金が多ければ大きいというものではなく、羽ひとつひとつ細かい細工の入った鳥の形だったり 薄い花びらが何枚も重なった、それは繊細な花だったりするの。それぞれのお客様に「合わせて」作るのよ。
いつも小銭を握りしめ順番を待つこどものお客様。自分のために何を作ってくれるのかって ドキドキしていることが 目の輝きから解るのよ。たまにはつんと澄ましたご婦人や難しい顔をした紳士も来るわ。たいていが「何を作ってくれるかなんて気にもしていません」っていう顔で並んでいるの。だけど「どうぞ」、と手渡した氷細工が思ったより単純な形だったり こどものお客様より「つまらない」動物だったりすると ちょっとだけ嫌な顔をして「別に期待なんてしていなかったし」「大人はこんなもの欲しがらないものだ」と、順番待ちのこどもにあげてしまったりするの。せっかく並んでいらしたのにね。お金だって払ったというのに。
*
窓の外の空の茜色が、だんだん紫色に変わってゆき 樹や家々が昔見た影絵そっくりに変わる。道は先に行くに従ってどんどん細くなり 舗装もされていない石ころだらけの田舎道に入っていった。長く走っているように思うのにバス停で停まる様子もなく、何のアナウンスもない。少女の声だけが静かな車内に緩やかに流れる川の水音のように響いていた。
──淡く色のついた氷、きれいなマーブル模様の氷もあったわ。それは美しかったのよ。
「氷細工屋さん」の話はそのまま続いていたが、ままごと以外にこの子が店を「やっていた」なんてことはあり得ないし、そんな店が実際にあるものとも素直に信じられず、とはいえ子供相手に疑問を投げかけたり嘘つき扱いをしたりするのも面倒な気がした。どうせ夢だか空想の類だろうと思いながら、相槌を打つ気にもなれず目をつぶって眠っている風にしているうち いつの間にか本当に眠ってしまったようだ。
*
「お客さん、お客さん、終点ですよ」
聞いたことのある声だ、と思った。暗いせいなのか運転手の顔が見えない。目を凝らしてもその顔だけが薄い霧でもかかったように分からないのだ。誰の声に似ているのだろうと思いながら立ち上がり、隣に座っていたはずの少女を探す。前に進み、とりあえず運賃箱にいくら入れる必要があるのかを確認しようと思うと
「もう頂いておりますよ。それより…」
運転手は先に降りた少女の方を手で示した。慌てて後を追って降りた。
「払わせてしまったのか。いくらだったかな?」とポケットを探るが財布が見当たらない。当惑していると少女はこちらを見上げて微笑み、
「このバスね、お金は要らないのよ」と言った。
こんな子供が気を遣ってくれているとも思えない。からかわれているのだろうか、古臭い物言いや物おじしない態度も子供らしくない。最初からおかしなことばかり言う子だと思っていると 少女は続けて当然のことでもあるように言った。
「懐かしむ気持ちとか 思い出そうとする気持ちでバスが動くのよ」

少女は軽い足取りで道を先に進んでいく。低い空にも星がまばらに輝き始めている。
馬鹿々々しいと少し苛立ちを感じながらも、ふと思い出したのは バスの運転手の声。あれは初めて雇った「運転手」のY、彼の声と似ていた。会社を興し軌道に乗せ落ち着くまでの数年間、毎日のように朝から愚痴を聞いてくれた。穏やかで優しいずっと年上の彼。そうだ些細なことでクビにしてしまったのだ。余計な口を出すな、何様だと思っているのだ、お前の意見なぞ求めてはいないと詰った時、向けられた寂しげな目さえ癇に障った。元には戻せない自分の言葉に、ずっと「正当な」理屈をつけて 幾度も苦い気持ちを押しやった。彼以来 運転手相手に自分の弱みを見せたり、気持ちを打ち明けるなんてことは一切しなくなった。
長く続く煉瓦塀に沿って歩き 少女が立ち止まったのは大きな屋敷の門の前だった。
「ここよ、覚えてる?」
後ろ姿を見せたまま少女は言う。暗闇の中で目を凝らす。古い記憶の中の道と確かに似ている気はするが それはこんな細い田舎道だったろうか。煉瓦の塀はこんなに低かっただろうか。大きな門のある家、道の反対側は暗い繁みになっていてその向こうはきっと…小さな川が流れている。
「貴方はこの繁みが怖かったのよね?だからいつも小走りで通っていたわ」
くすくす笑いながら少女は言う。しかし、あれは私が小学生の頃のことだ。
だんだんと思い出していたのだ。一人きりの通学路。道端のどくだみの香り。擦り切れた靴が水たまりで濡れ、ぬかるみでドロドロになって泣きそうになったこと。おさがりのランドセル。この道は大嫌いだった。何よりも、そうだ何よりもこの屋敷。大きくて威圧的でちっぽけな自分をせせら笑うような大きな門扉。
一体 この子供は私の何を知っているというのだ?誰かから聞いたこと以外考えられないのに、まるで自分自身が知り合いでもあるかのように すらすらと平気な顔をして言う。今日会ったばかりの子供にこんな風に接せられ、気持ちをかき回されて納得がいくわけがない。相手が私の何を知っているにしてもこんな近づき方は失礼ではないか。
「わたし、氷細工屋さんだったのよ」
私の憮然とした表情にも気づかないのか、また 少女は同じ言葉を繰り返す。待っていて、と言って、躊躇することも無く少女は重そうなその門を押し開け、ひとり中に入っていった。この家の子供だったのか、この年頃ならあの頃の家の住人の孫か、いや、ひ孫の代にでもあたるだろうか。
窓に順々に灯りがともる。暗がりでシルエットしかわからず 冷たくて重苦しいだけだった建物が 柔らかな光に包まれた。まるで死んでいた家が息を吹き返したかのようだ。

カタンと音がした方を見ると塀のすぐ近くの硝子窓が開き、少女が少し身を乗り出した格好でこちらを見下ろした。
「ね、ここなの、『お客様』。思い出してくれた?」
まぶしい部屋の灯りに目を細める。窓越しに見える天井のシャンデリア、窓の傍は飾り棚にでもなっているのだろうか、動物や果物を象ったたくさんの小さな硝子の置物が光を放っている。
少女がこちらに乗り出し 白くて細い腕をいっぱいに伸ばして 何かを差し出した。
「危ない」
乗り出す姿が不安定で頼りなくて、こちらに向かって落ちてくるのではないかと思った。咄嗟に手を差し伸べる。同じようなことがかつてあったのだ。あの時もその「少女」は窓を開け 子供の私を「お客様」と呼んだ。記憶がよみがえる。何故忘れたままでいられたのだろう。
差し伸べた手に 透明な丸いものが乗せられた。何だろう、握った手のひらの感覚を知っているように思う。そっと掌を開いて見るとそれは小さな林檎の形をしていた。
「お客様、その氷細工はとても珍しいんですよ。そしてどんな他の氷細工より素晴らしいの」
渡された「氷細工の林檎」を眺める。窓を飾るクリスタルと異なり、それは子供の小物玩具の入れ物のようなプラスチック製の容器だった。そしてその感触と軽さは私に痛い過去を思い出させた。
「嬉しかったの。本当は『氷細工屋さん』のお客様になってくれる人なんかいなくて、ずっと一人で
道を行く人を相手に 勝手に空想していたの」
思い出の中のあの子が言っているのか 今そこにいる少女が言っているのか、もうが区別もつかない。聞きたいことはたくさんあって、言わねばならないこともたくさんあるような気がした。
窓の奥に少女の影を認めたこともあった。話をしたことは無かったはずだ。暗い道は怖かったし 見上げるには眩しすぎるその窓を、なるべく見ないふりをして駆け抜けた。その日立ち止まったのは 先に窓が開き、笛の音とその子の声が聞こえたからだ。自分に向かって「お客様」と呼びかけたように思ったが きっと聞き違いだと思い直した時、窓から彼女が身を乗り出した。か細い手が何かきらきら光るものを自分に向かって差し出した。
お互いがまだ小さくて、手が届きそうで届かなかった上、一瞬のためらいのせいだったろう。少女の手から離れたその繊細な形の光るものは、自分の手をすり抜け、零れ落ちるように煉瓦と壁の隙間に落ちて行った。美しい硝子の白鳥が輝きながら羽を広げて飛んだように思った。

逃げてしまった自分。あれから首の折れた硝子の白鳥ばかりが目に浮かんだ。あの子が勝手に窓から落としたのだ、自分は関係ない、という言い訳を何度も頭の中で繰り返した。けれどずっと気になって街のショーウィンドウで似たものを探したが、持ち合わせの小銭で買えるようなものではなかった。塀のあたりを探してみた。折れた白鳥の首どころか何も見つけられはしなかった。

「どうして これが『珍しい宝物』なんだ」ちっぽけで子供だましのこんなものが。
「探してくれたのでしょう?その間 ずっと『私』のことも考えていてくれた」
プラスチックの林檎の形のカプセルには虹色に光るビーズが入っていた。店で見つけた時はとても美しく見えたのだ。小遣いをはたいて買い、息をはずませて屋敷の前まで行った。
「ちゃんと『私』に届いたのよ。同じくらいの歳の子に贈り物をもらったのなんて初めてだった。『友達』からもらった素晴らしい思い出の品。何よりも貴重な宝物なのよ。ダイヤモンドなんかよりきっと、ずっと」

あの時、門の前まで行ったものの、どうしたらいいのか、大人が出てきたらどこからどういう風に説明したらいいのか解らなかった。立ち尽くしていたら屋敷の大きな玄関扉が開き、黒い服の大人が大勢 俯きがちに出てくるのが見えた。探しても女の子の姿は見つからない。女のひとが声を上げて泣いていた。肩を抱き合う人、ハンカチで顔を覆う人もいた。小さな棺が運び出されるのが見えた。ただならぬ雰囲気に声をかけることもできず迷った末、あの窓の外、塀の一番近いところにそっと置いた、何かメッセージでも入れようかと思ってランドセルを下ろし、ノートのページを破ってみたものの何を書けばいいのか解らず諦めた。また会いに来よう。今度会えたら話しかけてみよう。そう思った。しかし何度傍を通っても窓は開く様子は無く、あの屋敷に灯りが灯るのを見ることはなかった。

*
気づくと天井が目に入る。ゆっくり視線を周囲に動かすと見慣れた自分の部屋だった。重厚さと高級感ばかりを基準にして選んだすべての家具には何の愛着も無い。楽しい思い出もこれといって無い一人暮らしのこの部屋には 少しの親しみも感じなかった。
サイドボードに買った覚えのない小さな一輪挿しが置かれていた。どくだみの花が1本挿してある。
「雑草は残すなっていうのがご主人の言いつけだからって、庭掃除の人が草も花もすっかり抜いてしまって、あんまり可哀そうだったので。よく見れば可愛い花だと思いませんか?匂いが臭いって嫌う人もいるみたいですがね。せんじ薬にもなるんですよ。」
声のする方を見ると、私がプラスチックのコップを投げつけた、あの家政婦だった。
「とっくに辞めたのかと思った。えっと…」
名前を思い出しあぐねていると 気を悪くした様子も無く自分の名前を告げ、楽しいことを話すように目を細め、えくぼを見せて言った。
「あんなぐらいでお暇を頂いていたらヘルパーは務まりません。もちろん交代をご希望で派遣先にお申し出を頂いたら別ですがね」
手伝ってもらって身体を起こし、先ほどまで見ていた「夢」を思い出す。どこからどこまでが夢だったのかもはっきりしない。まだ頭はぼんやりしていた。ベッドサイドのテーブルの上、小さな林檎の形の小物入れが目に入った。「夢」の中で少女が私の手に載せたあの「氷細工」の小さな林檎にとてもよく似ていた。
「これをどこで?」
手に取って 両手で包み込むようにして見る。それは思ったよりずっと確かな重みがあり、指の隙間からきらきらと美しい輝く光が漏れた。
「さっきまで枕元に。眠っていらっしゃる間ずっと、大事そうに触れておられましたよ」
以前から持っていた、ということはないはずだった。いつから枕元に?と聞いても、
解らないと言い、家政婦は付け加えて言った。
「昨日は見かけなかったように思いますが」

ダイヤモンドより貴重…か、少女の大げさな言葉を繰り返し呟いてみる。小学生の自分が、書いて渡せなかったメッセージを考えてみる。
さっき聞いたヘルパーの彼女の名前は、照れくさいので覚えられないふりをした。謝らなければと思ったが 簡単には言葉が出ない。
「この間は…この間は…えっと」

咳払いで先を胡麻化すと、覚えてくれるまで何度でも教えますよ、という風に彼女は悪戯っぽく眉を上げ、笑って名前を告げる。窓を開けましょうね、いい風が入ります、言いかけた言葉の先を促すでもなく、彼女はそう言って 鎧戸を開けて回った。
さわやかな初夏の風がカーテンを揺らし、柔らかな日差しが部屋を満たしていく。





ラプンツェルの帰還 

父の家(実家)に単身赴任状態で早3か月。初めてここで書いた一作です。新たにPCも買ったし、父が寝た後は長い夜だし、今後も書くしかない、そんな近況です。(このところゲームばっかりしていたんですが)

今回のお話については 珍しいものを書いたようですが、何かを狙ったわけでもなく今後の方向の見通しなんてまるで無く思い付きです。いつものことですが。
全て ただただお題のせいかもしれません。
書いている最中にTVで例の3Dアニメ映画がオンエア。初めて観ました。これもまた別の冒険物語になっているんですね。
色々雑で申し訳ありません。お許しください。


第66回 Mistery Circle バトルロイヤルルール(共通お題) 

●子どもの姿が、煙のように消えてしまった。まるで幻か何かのように。
●――あの頃は確かに、あの牢屋と関係のある「山の鬼」のようだった。
●「お姉さん、もう忘れてる? 言ったでしょ 私は見える気質の人なの。でもってここにも、そういうのがいるのよ。私はその姿が見えるし、声も聞こえるの」
●もうすぐこの身は滅びるだろう。だがこの魂は、あの女と共に此岸に留まる。


※お題出典
《 「霧雨が降る森(下) 」 KADOKAWA/エンターブレイン 著:朽葉つむぎ、原作:真田まこと、イラスト:廻田武 》


---------------------------------------

――誰かが見たら、「隠れて住む悪い魔女か鬼」のように思うでしょう。だから絶対に誰にも見られてはいけないの。見つかったら最後、きっと大勢の人があなたを捕まえに来て、もっとひどい牢屋に入れようとするわ。
そう言いながら、女は 硬い表情を崩すことなくドアというドアのすべてに新たな鍵を取り付けた。窓は、窓とは言ってもすべて硝子が無く木の板を打ち付けたものばかりで外が見える場所は無い。女がドアの鍵を閉めて出て行った後、静まり返った家の中、小さな女の子は獣がうめくような声を出しながら床を這いずり回った。風の音だけが響く寂しい夜だった。

──あなたはお馬鹿さんだから 心配なのよ。
──外に出たら悪い人に騙されて、ひどい目に会う。あなたを守れるのは母さんだけ。そうよ、あなたの味方は母さんだけなのよ。
女の子は黙って、白く美しいその優しい手で頭を撫でられながら、抱きしめられながら、呪文のように繰り返されるその言葉を聞いていた。言葉の意味はよく解らなくてもこの人だけが自分を守ってくれるのだ…そう信じる、そんな目をして。
──だから 母さんを悲しませないでね。母さんは誰よりもあなたを愛しているのよ。心から大事に思っているわ。

この家がどんなところにあるのか、外観がどんな建物なのかなど、女の子は知りはしない。いったい何があって 今ここにいるのかもよく分からない。何故「母さん」が自分をここに連れてきたのか、なぜ「母さん」が自分をここに置いてどこかへ行ってしまうのか 全く解らなかった。

真っ白な雪景色、暖かい部屋。桜色の花の下、涼風に揺れるカーテン、夕焼け…瞼の裏に時折ぼんやりと映像が浮かぶ以外 女の子の記憶は空白しかない。それを表現する「言葉」も今の彼女にはない。

もともと消えそうだった僅かな電気がつかなくなった。寒くはなかったが 暗闇は恐怖心をあおる。いつも女の子は息を殺して「母さん」の帰りだけを待っている。
いつの間にかそのひとが来て、呻きつかれて眠っている女の子の傍のテーブルに 四角いトレイにきれいに盛り付けられた食事を置いて行った。かわいい洋服や髪飾りが置いてある時もあったが女の子には興味が無い。寒さだけ防げればどんな格好だって構わなかった。
それでも絵本を見つけた時の表情は違った。初めは表紙をそっと触り、眺めるだけだったが、ページを開くことを知る。開いたページひとつひとつに新しい色が、風景が、世界が開けた。文字は読めなかったし「ことば」の持つ意味でさえ解らなかったが 少しずつ平面で繰り広げられる「絵」というものが周囲のものを模し、象っていることを理解していく。女の子はいつもページごとに描かれたものを長い間飽きずに眺めていた。絵本の世界だけが女の子をこの場所以外の世界に連れて行ってくれるのだ。
そうやってこの家で目覚めたその日から、一人きりでいても女の子は少しずつ 「獣」からヒトになっていった。もとよりヒトとして暮らしていた幸せな時期があったのだろう。 「言葉」や「文字」を、周囲の「ひと」とのつながりの中で 使っていたことを少しずつ思い出す。

**

ぼくは彼女を助けたかった。僕は彼女を助けることができるだろうか。そしてそれは、ぼくの救いになるだろうか。
**

ある日 きみは偶然寄りかかった廊下の突き当り、飾り棚の後ろに隠し階段を見つけた。階段を上り詰めるとただの短い廊下があるだけだったが、その薄暗い廊下の天井にきみはちらちらと仄明るいものを見つけた。高い天井の一角に四角い形が確認できる。その四角い形の回りから 細い明かりが差し込む。時間によって差し込み方や光の柔らかさ 色あいが変わることにきみは気づく。最初はその変化を眺めるだけでもなんだか秘密の友達ができたように嬉しかったのだろう。時にはその隙間から冷たい隙間風が入ったけれど、きみは一日中でも 廊下に寝そべって 天井の片隅を眺めて暮らしていた。こんなささいな楽しみさえも見とがめられそうな気がしたのか きみは「母さん」に見つからないようにしようと 彼女の来る気配がする前に 必ずそこから離れるようにしている。何もかも 「母さん」の言う通りにすればいい、という信頼や依存は少しずつ崩れている。きみの世界に小さな風穴が空けられたようだ。
カサリコソリとその「四角」の上から音がするだろう?
ねずみかときみは思ったろう。といってもきみは与えられた絵本の中のねずみしか知らない。「くるみ割り人形」の絵本では 怖い敵役だった。ほかの物語では優しい友達だった。怖いけれど会ってみたい。一緒に住んでいる「生き物」がいるとしたら それは素敵なことだ。
数日後のある日、きみは運んできた椅子に上り手を延ばす。高い天井にはそれでは届きはしない。きみはそれでも諦めず 何度も背伸びを繰り返す。やがて疲れてまた 廊下に寝転んでそのまま眠ってしまうのだ。けれどきみは次の日、先の傷んだ箒を持ってきた。それでも箒の先が天井に届かない。もっと長いものはないか探し、紐とモップを探し当てて苦心した末何とかつないで更に長い棒を完成させた。この家には 以前居たひとが残していった様々な生活道具がひっそりと残されている。目的を達するために 道具を工夫するきみを見ながら 知恵、という言葉をぼくは思う。
こん、と 出来上がった長い棒で突つくと四角い明かりの筋が動き、広がった。屋根裏の部屋があることにきみは気づく。これが入口の蓋になっているのだろう。その上に光と風がある。そして 何かがいるのだ。逸る気持ちを抑えているのか きみの頬が紅潮し 目が輝きを増した。
押し上げられて蓋がずれると きみの思ったとおりそこには柔らかな光の入る屋根裏の部屋が見える。不安定な椅子の上で背伸びし、きみは上に上がる努力を続ける。せめてどんな所なのか見たいのだろう。大きな梯子でもあったら良いのだけれどね。椅子を積むのは止しなよ、危ないから。
思案するきみは目の前に揺れるものを認める。もともと上るときに使っていた太い紐だ。驚いて見上げる。大人ならもう少し大きい脚立とこの紐があれば簡単に屋根裏に上がれる。紐の先に手を掛け思案するきみに向けて ぼくの口から 風の音に消えてしまいそうな か細い声が出た。
「上ってくる?」

紐を手繰って上っていくと そこはほんの小さな屋根裏部屋だ。小さな明り取りの窓がひとつ。それぞれの段ボールからは誰のものだったのか、人形や本が覗いている。きみはさっきの声の主を探す。ぐるりと周囲を見回した後、きみは部屋の片隅のぼくを認めた。まっすぐ濁りの無い目でじっと見つめるその表情からは ここに来て以来「母さん」以外のものを見る小さな驚き、言い聞かされて心に根付いた他者への恐怖心 それを超える強い好奇心が見て取れた。

「きみには ぼくがわかるんだ…」
きみは答えない。表情の変化から「聞こえている」ことは解る。意味は届いているのだろうか。きみはぼくに「危険」を感じなかったのだろう、少しずつ前に進み出て ぼくの前に立ち、ゆっくりとその手を差し出した。ぼくの体にその華奢な腕の細い指がそっと触れた感触が確かにあった。ぼくの頬に「温かい」涙があふれ出す。きみがぼくを認めることで ぼくは存する身体を、温もりを感じることができた。長い間消えていた「ぼく」はきみにもう一度生かされた。
──ありがとう、ぼくはここにずっと居たんだよ。今気が付いた。ぼくはずっと誰かに見つけてもらいたかったんだ。きみはぼくに会えてうれしい?
きみの柔らかい長い髪が屋根裏の小窓の光を受けて きらきらと輝く、きみの瞳に今まで見られなかった色が浮かぶ。安心、慰め、親しみ、愛情…それらにきっと近いもの。
忘れかけていたぼくの幾多の感情も蘇る。表情というものもきっと以前のようにあるだろう。暗い閉塞した穴の中に新しい風が生まれ、生命が一斉に芽吹いたような、そんな素晴らしく美しい瞬間だった。
その日からきみは屋根裏部屋に上がってくるようになった。

**

その屋根裏部屋には小窓があった。硝子のないぽっかりした穴のような窓だ。雨や風はさほど入ってこない作りにはなっているようだったが、冬は相当寒いに違いない。いつからずっとそこにいたのだろうか、その不思議な住人はそれでも特に不便を感じてはいない様子だった。
椅子を運び、その上で背伸びするとやっと少しだけ 外を見ることができる。高い場所から 私は毎日空の様子を、遠い地面を少しだけ伺う。
母さんが遠くの坂道を登って近づくのが見えたら わたしはここから離れる。
屋根裏部屋にいた淡く光る輪郭を持ったその不思議な少年は自分の名を「からす」と言った。「ねずみじゃなくて残念?」とも。

彼と毎日屋根裏部屋で会うことで わたしは忘れていた「ことば」を取り戻していった。最初はぼんやりと彼の口元と口から発せられる「音の流れ」とその表情 手振りを見ていた。彼は屋根裏部屋にあるたくさんの箱から絵本や画用紙、クレヨン、人形などを探し当て それらを使って根気よく言葉と絵とのつながりをわたしに教えてくれた。
何かのきっかけでわたしは記憶と言葉を失っていたのだろう。彼と会うことで わたしはさまざまなことを思い出してまた「ひと」に戻る。拙い会話を繰り返すうちにわたしは「かりん」という名前の女の子に、透明で消えてしまいそうだった「からす」は、はっきりとした輪郭を持った少し年上の少年になっていく。
わたしの言葉を取り戻すのに、彼が使ったのは絵本だった。「ラプンツェル」。小さな子供向けに簡単な物語にしたものだろう、短くて文字の少ない、でも絵は見飽きない程美しかった。彼は絵と実際の部屋や窓 お人形や自分自身を巧みに使って 物語を紡いでくれた。何度も何度も繰り返し 塔に閉じ込められた女の子と閉じ込めた魔女、魔女の目を盗んで塔に登ってくる王子の会話を私にしてくれた。
わたしの指に彼が手を添えて、一文字一文字をなぞるようにして読む。いくつかの文字の塊を指しては、絵や部屋の中の物、身体の部分や動きを交互わたしに示す。最初はぼんやりと彼のすることを見ていただけだったが、やがて彼がわたしに何を教えたいのか、思い出させたいのかが朧げに解ってきた。深い霧と闇の向こうから 彼が呼んでいる。声のする方向にきっと光がある、わたしはそれを信じて一歩ずつ手探りで進んで行く。

「ラプンツェル、ラプンツェル。おまえのかみをおろしておくれ!」
絵本で繰り返される言葉を覚え それが屋根裏部屋に登る時 紐を下してもらう合言葉になった。物語の意味が分かり始め、彼が繰り返し読むその絵本の、ラプンツェルという名の髪の長い女の子と王子に わたしは「からす」と自分自身を重ねた。立ち位置は逆だったけれど。

すっかり からすにな馴染み、わたしが言葉を取り戻したある日、「母さん」が屋根裏部屋のわたしたちに気づいた。そして からすもまた「母さん」を間近で見ることで たくさんの自ら消していた記憶を取り戻したのだ。まるで雷が落ちたように。
「…ラプンツェル」
からすは紐を手繰って屋根裏に登ってきた母さんと長い間黙って見つめあった後、かすれた声で そう言った。

**

「『ラプンツェル』なんかじゃないわ。」

「そう、きみは『ラプンツェル』じゃなく『つぐみ』。ぼくは『からす』だ」
封印していた記憶が鮮やかによみがえる。
この屋敷にかつて閉じ込められた子供たち。つぐみにからす、ひばり、それからひいらぎやかえで。それは ただナンバーように割り振られただけの 思い入れ一つない思い付きの呼び名。つけたのは時々やってくる冷たい目をした『先生』だった。僕たちは彼がきらいだった。怖かった。
「そして 同じことをきみはこの子、かりんにもしているわけだ」
ラプンツェル、いや、つぐみは俯いて 唇を噛む。
「外の世界で王子様と幸せになれなかったんだね? かりんはきみのこども?」
「ここを出て幸せになった子なんかいないわ。きっと」
「ここにずっと居て、居るしかなくても 僕は幸せになれなかったよ。つぐみ」
つぐみは前に進み出て 深い空洞のような目のまま僕をじっと見た。
「こんな風になってもなお…あなたは生きている。あの日からずっと?…そうなの?」
「これを『生きている』というならね」
僕は泣きそうになりながら笑う。

**

──きみにもうひとつの「ラプンツェル」の話をしよう。聞いてくれるかい?
母さんの視線を逃れて後ろに隠れた私の方を振り返り からすはそっと私の頬に触れた。
「やめて、聞きたくない」
母さんが遮ろうとする。白い顔が更に青白く見える。
「この子には知る権利があると僕は思う。こんな風に閉じ込めたって幸せにはなれない。解っているくせに」」
「やめて、やめて」
母さんは震える声で叫ぶ。
「やめて、やめて、やめて」
その言葉しか知らないかのように 母さんは言い続けた。だんだん声が掠れ力を失い 母さんは床に崩れ落ちた。
からすは そんな母さんを静かに見下ろしながら 絵本を読み聞かすように私に語り続けた。母さんはもう「やめて」とも言わず俯いて泣いている。

**

どういうわけなのか その子の親にさえも解らない、「能力」を持ったこども、というものが生まれることがある。親はその赤ん坊を扱ううちに気づくのだ──この子は普通の赤ん坊ではない、何かとてつもない力を持っている。恐ろしい、得体のしれない生き物。ある親は恐れ、ある親は拒否し遠ざけようとさえするのだ。
自分の力がどういうものかも知らず、コントロールすることもできない子供たち。いつか何かのきっかけでその力を暴発させかねない。
──きちんと注意して育てないといけません。あなた方の手には負えない。
どこからかその子供の存在を嗅ぎつけて現れる「使者」は 親に言う。この子は危険です。隔離しなさい。
そうやって、あるいは親自ら手放すことを望み、置き去りにされる「特殊なこども」が
その丘の上の「塔」に集められ 外の世界を知らないまま一緒に暮らしていたのだよ。
そう、それが つぐみや僕だった。
ぼくやつぐみのように小さなこどもは 自分にどんな力があるのかも知りはしない。「外のひとたち」と自分のどこが違うのかなんて知らない。ぼくに至っては「外のひとたち」を見たことすらなかった。真っ黒な布に包んで捨てられていた、真っ黒な髪と黒い瞳の、泣かない赤ん坊。そう、年上の「なかま」がからかい気味にぼくに言った。だから「からす」なんだよ、名前に親と繋がる由来があるだけいいじゃないか、とも言った。
その年上の子は「モグラ」と呼ばれていた。ずっと目を閉じていたが、目が見えないのではなく「見えすぎるからだ」と自分で言った。幼い僕が無遠慮にしつこく聞くと気難しい彼が嫌な顔をすることは解っていたので 僕はそれ以上聞かず、彼の様子を観察し、推測した。年上のこどもたちが何人もいたが、彼のようにはっきりした特徴がある者は少なく、とりたててどこにどんな力を秘めているのか解らない者も多かった。
そして各々 毎日何かの訓練や勉強の時間があり、やがて迎えの車が来てどこかに連れて行かれ、そのまま帰らなかった。
「ラプンツェル」の話がまだでてこないときみは思うかもしれない。僕にとっては辛い最後の思い出なので どうしても後回しになるね。今から話すからもう少し聞いてくれるかな。

この屋根裏部屋を見つけたのは僕だった。ちょうどきみのような具合でね。面白いくらい同じやり方で ぼくはここに登り「外の世界」を眺める。ああ、だけど元は分厚い硝子が嵌っていたよ。
同じ年頃で仲良しだったつぐみにそっとその秘密の屋根裏部屋を教えたのは たまたま他のこどもたちが一斉に何処かへ連れて行かれた日だった。まだ何の力があるのか解らない出来損ないの僕らだけ 家に残されたんだね。
つぐみは目を輝かせて窓に顔を押し付けた。毎日でも外を見たい、僕もつぐみもそう思ったけれど ほかの子供たちや「寮母さん」、「先生」に知られたらきっと禁止される、そう思うと 慎重になった。「先生」と違い「寮母さん」は優しかったけれど、いつも何かに怯えている感じだった。僕は最初その「恐れ」の相手を「先生」だと思っていたけれど、違うんだ、何をしでかすか解らない 未知の能力を持った小さな僕らがきっと一番怖かったのだろう。皮肉なことに僕らはそれに気づかず、「寮母さん」に甘えたがった。

「ラプンツェル」と僕がつぐみを呼んだのは あの日からだ。きみはここへ紐で登ることを物語に重ねていたけれど、そうじゃない。「ラプンツェル」は外の世界の王子と知り合えたんだからね。外の世界から魔女は戻り、塔に登ってくる。それを垣間見た王子もまた外の世界の人で、魔女を真似て ラプンツェルに会いに来る。
そう、つぐみの王子は塔の中の僕じゃなく、窓の外にいたんだよ。つぐみは窓の外に彼を見つけ彼もまた「魔女の塔」と噂される屋敷の屋根裏の窓に、初めて人影を認めたのだ。美しい囚われの少女をね。

**

私は母さんを見る。泣きはらした目をして ぼんやりと空を見つめている。今まで見たことのない弱弱しい姿。硬い表情で扉の鍵を閉めて出ていくあの強い母さんとは別人のようだった。
「どうして わたしをここに閉じ込めたの?こどもの頃 母さんたちもここにいたの?ここがいやだったんじゃないの?そとにでたかったんじゃないの?ここにずっといるの、つらかったんじゃないの?どうしてわたしは何もかも忘れていたの?」
長いことばを話すのにはまだ慣れていなかったので すらすらとは言えなかったけれど 母さんにぶつけたかった言葉はそういうものだった。わたしの口から「言葉」が出ることに母さんは驚いている。わたしがからすから言葉を思い出させてもらったことさえ 母さんは気づいていなかったのだ。いつまでもわたしが 置き去りにされたこどもの獣のように暮らしているとなぜ信じたのだろう。このひとは。

**

かりんの口から言葉が発されるのを聞いて 私は身震いした。思い出したのだ、この子は。言葉を?それとももっと たくさんのことを?
ふらふらする身体を起こし かりんに近づく。触れようとする手にびりりと電気が走った。かりんの目が異様な光を放つ。
「自分が何者か解っていないのよ、この子は。このままだと恐ろしいことになるわ」
からすの方を向いて私は叫ぶ。風も無い屋根裏部屋の中でかりんの髪が生き物のように浮き上がって揺らいでいる。あの時と同じだ。床が揺れ、壁や天井が嫌な音を立てた。
からすはかりんの様子で察知するはずだ。私がかりんを閉じ込めた理由を理解してほしい。
私たちの仲間の中にも居た。不幸にもとてつもなく大きな力を持って生まれたこども。「破壊神」と年かさの子供たちは呼び 彼の感情の変化を恐れた

**

「かりん」
ぼくはつぐみの言葉を制し 低く静かな声でかりんに呼びかける。かりんの力が暴発する前に沈めないといけない。きっとその力を出し切って、抜け殻のようになったまま彼女はここに連れて来られたに違いない。何か彼女の身に起きたのだ、言葉と記憶を失うほどのことが。そしてつぐみが恐れたのは その力を彼女が自覚しておらず、抑えることができないということだったのだろう。
「かりん、かりん。お願いだ こころを沈めて…」ぼくは、彼女が喜んだあの「ラプンツェル」の物語の 呼び声のように節をつけてささやく。きみに聞こえるだろうか。

**

遠くから何度もわたしを呼ぶ、からすの声が聞こえた。身体を包み込んでいた熱のようなものが徐々に引き、内側から燃えるような熱いものが冷めていくのが自分でも解った。足に力が入らなくなって倒れそうになる。からすが駆け寄って支えてくれた。

**

「…下降りよう。お茶でも…入れるわね」
力尽きた表情で私が言うと、からすは悲しそうにくっくと笑った。
「ぼくがどうして今までここに居たと思ってるの?こんな姿で?」
そうだ、からすは私より年上だったはずなのに その姿は最後に見た彼のままだった。
この屋敷には「普通でない」こどもが大勢居て、「普通ではない」力を見せられる場所だった。少年のままの姿で屋根裏に未だ居る彼を見ても違和感を感じなかったのは この場所の持つ特殊さに感覚が麻痺してしまうのかもしれない。
「ぼくときみ、小さい子供たちの幾人かだって 自分のどこが特別なのかも知らなかったんだ」
「私は未だに解らない。何もできない。貴方はこんな風に生きることができた、それが『力』だったという訳?」
「覚えてる?切り傷、擦り傷、熱や病気 ぼくはどれも一瞬で回復した。一緒に色々試してみたよね。」
それに気づいた僕は、つぐみにナイフを持たせ傷をつけさせた。最初は怖がって嫌だと言っていたきみも徐々に慣れた。
「いいんだ。ぼくらにとっては何も残酷な遊びじゃなかった。ぼくたちは退屈で…寂しかった。僕は自分が何者なのか知りたかった」
黒い布に包まれて捨てられたのも、僕を必要としなかった親が、傷つけても傷つかない 殺めても殺めきれない赤ん坊を不気味に思った末だったのだろう。それともそんなことすら気づかないまま、ただ不要だっただけなのか…。つぐみがここを抜け出せたあの日から 僕は自分の存在をどうやって消せるのかばかり試してきたんだ。
「気づいたんだよ、傷やダメージでも死ねないけれど、少しずつ消えていけることにさ。その代償にここから動けなくなるなんていうのは 予定外だったけどね」
呆けたように座り込んでいた かりんがふらふらと起き上がった。

**

からすと母さんのやりとりの中「傷」「傷つける」という言葉の繰り返しに、何か思い出さないといけないものを感じる。真っ黒の背景。鮮血。恐怖。後ろから延ばされた誰かの手。
わたしは何をした?わたしは何者だ?きっとわたしは恐ろしいことを忘れている。
フラッシュバック。
たくさんの断片的な記憶 気味の悪い声や、歪んだ映像や黒い気持ちの渦が迫って来た。頭が痛い。目を開けていられない。立っていられない。ここはどこだ。そこにいるのは誰だ。私は何者だ。目をつぶったままなのに ざわざわとひとの気配が押し寄せる、こどもたち、孤独、恐怖、持て余す力 満たされない心 あなたたち、あなたたちは わたしと同じ。
そうだ、わたしに襲い掛かった知らない男は 一瞬にしてはじけ飛ぶように倒れた。男の周りに血が流れ出た。「見ちゃいけない!」母さんはわたしの手を引いて走ったのだ。走って、走って、走って。
──だめだ、今 思い出すな!
からすが叫ぶ。母さんの悲鳴。激しく震える壁、天井、落ちてくるもの。裂けるように割れる屋根裏部屋の床。わたしは何者だ。母さん、母さん、母さん。
助けて。

**

丘の上にかつてその石づくりの屋敷はあった。
身寄りのないこどもたちが暮らしていると言われていたが、彼らが庭に出て遊ぶ姿は誰もみたことがない。魔法使いの家だとか悪魔が住んでいるのだとか 村のひとたちは噂した。
何を目撃した者がいたのか、ひそかに集められているあの子たちは 奇妙な力を持っている、近づくと恐ろしい目に遭う怪物だ。近づくな、関わってはいけない。
それでもある日 村の青年が初めて、一番高いところにある窓に女の子の影を見る。美しい少女だった。あの子が悪魔や魔女であるはずがない。閉じ込められたかわいそうなラプンツェル。
青年は窓に一番近い 高い木に登って 毎日彼女に呼びかけた。遠い窓越しで声も聞こえなかったが 寂しそうな目をした少女は 毎日やって来る青年に親しみを覚え、次第に彼の来るのを楽しみに待つようになった。彼の姿を見てはにかみながら微笑むようになった。
だが、ある日少女の後にいるもう一人の姿を見たとき 青年は身震いする。黒い髪黒い服 暗い目をした、あれは子供の姿をした何か。あれこそ悪魔か怪物に違いない。
「ラプンツェル」をあの場所から逃がしてあげたいと青年は思う。でもどうやって?

**

異変は別のことで起こったのだ。強い感情を爆発させると周囲に破壊をもたらすと言われていた少年が、その日誰かと衝突したのだ。彼の底知れぬ力に皆は恐れを抱いていたのに、何が原因だったのだろうか。彼の小さな身体のどこからそんな声が出るのか解らない程 高く響く声が長く長く続き 屋敷の硝子という硝子が一瞬にして砕け散る。喧嘩の相手は弾き飛ばされて倒れた食器棚の下敷きになった。細かい硝子の破片が周囲に居た子供たちにも降りかかっていた。階下の騒ぎは酷かったが、屋根裏部屋の二人は硝子が割れた小窓を前に事態が呑み込めず沈黙していた。いつものように窓際にいたつぐみを、突き飛ばして庇ったからすの全身に尖った硝子の破片が刺さっていた。

「知ってるでしょ?ぼくは大丈夫。傷はすぐ消える。」
震えて泣くつぐみにからすはそういうと、空洞になった窓を指さした。
──こんな時のために用意はできているんじゃなかったっけ?
「大丈夫、ぼくは 死なない。きみは先に自由におなり」
いつかここから脱出する夢を見ながら、二人でこっそりと集めた布を裂いて繋いだ、長い長い紐が、屋根裏には隠してあった。そして窓の下には 何が起きたのか心配そうな顔の「外の」彼が待っている。

「下が騒いでいる間に 早く」
癒えるのは解っていたが 傷だらけの痛々しい姿で倒れるからすを残していくことはためらわれる。「一緒に…」手を延ばしかけた時 「寮母さん」が二人を探す声が聞こえた。
「早く! 今しかない!」
紐の一方を持ち、もう一方を差し出して、からすが苦しそうにゆがめた顔で叫ぶ。

**

ラプンツェル、ラプンツェル。外の世界で幸せになれた?
きみの「力」は 結局何だった? 
崩壊した屋敷から逃げた子供もほかにいたかもしれない。あるいは行く場所も持たず、「外」で生きる術も無く、こどもたちはまた別の場所で同じように暮らしたのかもしれない。屋敷は釘打たれ、閉じられた。屋根裏部屋はそのまま忘れ去られた。

**

僕は今 かりんと共に居る。すさまじい轟音と共に屋敷は崩壊し、僕はあの部屋から解放された。ぼくの姿はもう誰にも見えないだろう。意識だっていつまであるのかも分からない。それでもいい、と思う。こんな不死なんて望まない。
だけど、つぐみ、できるだけのことはするよ。かりんが自分の力を知りコントロールできるまで支えていく。また力尽きてたくさんのことを忘れたら 何度でもまたやり直す。

丘の上の瓦礫の中でつぐみの衣服の切れ端を見つけた。つぐみの姿はどこを探しても見つからなかった。長い間立ち尽くした後、ぼくたちはその切れ端を、かつての「彼」の登った木の根元に埋め、葬った。幸せになれなかったラプンツェル。ぼくたちはどうしてこんな風に生まれてしまったのだろう。答えはどこにも無い。誰も教えてはくれない。

「つぐみの『力』はこんな風に跡形も残さず逝ってしまうことだったのかな。まるで煙みたいに…」
─横そして きみという計り知れない力を秘めた存在を産み出す役割が…でも今はそれは言わないでおこう。
「でも」
押し黙ったままだったかりんが さっきからずっと繰り返し考えていた言葉を口にする。姿の無い僕の言葉にかりんは自然に答える。これからどれくらいの時を僕らはこうやって生きていくのだろう。
「こうも想像できないかな。母さんはどこかの裂けめや歪みを通って別の時間や別の場所に行った…。そんな『力』を持っていたのかもしれないって」
泣きはらした瞳で、まっすぐに丘の遥か遠くの空に向けたまま かりんは僕に言う。それは祈りにも似ていた。
「行った先の世界が つぐみにとって生きやすい 幸せな場所ならいいね」
僕の願いはあの時からずっと同じだ。

「いつか 会えるかな」
「きっとね」
丘の上の高い空で 名前も知らない鳥が 一声高く鳴いて飛び去った。

 








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すずはら なずな

すずはら なずな

どれも短いお話ですが 
一つでも心に残ったら嬉しいな。

過去記事どこにでも、
コメントOKです。
舞い上がって
喜びます。

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