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STAND BY ME

生きることにちょっと 不器用な子どもたち、もと子どもたちの 短いお話を 綴っています

祭壇画のロキュ

第73回 Mistery Circle

お題 ●弓や剣より、いつのまにか口のほうが達者になったようだな。
    ● 同盟は激烈な同士討ちを起こした。

   《 出典:「 王都炎上―アルスラーン戦記〈1〉 」 光文社文庫 著:田中芳樹 》




「弓や剣より、いつのまにか口のほうが達者になったようだな」
がっくりと地に膝をつく弟のディートフリートを見下ろしエーベルハルトは剣を収めた。
「兄上には勝てません」
柔らかな亜麻色の髪を乱し、苦し気に肩で大きく息をつきながらも いつもの人懐こい笑顔を見せてディートフリートが言う。
「簡単に負けを認める、か。なんと嘆かわしいことだ」
エーベルハルトは相手を射貫くような薄い菫色の瞳で弟を見返しながら 嘆息を漏らした。
「でも、僕は弓も剣も要らない。美しいもの 善きものを思うままに描ける絵筆こそ必要なのです」
「そんなものが何になる。お前は私の肩腕としていずれは国を治めるのが務めではないか」
「何度でも申します。僕のなりたいのは画家なのです。民を幸せにして、世の中を素晴らしくするのは弓や剣だけではありません。決して」
「愚かなことを。絵描きは、我々力ある者の依頼で描くもの。お前の好きな教会の祭壇画もまた、強い後ろ盾がなければ描けはしない。有難く民が拝むのは権力と金を持つ者あってこそ。絵描きはただの職人に過ぎん」
 いらいらとした時にいつもエーベルハルトは癖のないその金色の髪を何度もかき上げ、靴先で地面をコツコツと突く仕草をする。頭脳明晰で武芸にも優れた美しい若者で、父王自慢の長子ではあったが、折に触れもっと他人の心を掴むことのできる心豊かな者になれと、よく戒められていた。兄は王に、弟は忠実な右腕になるようにと育てられてきた。ディートフリートはそれを当たり前のことと信じ、決められた将来にも格別 不安や不満を感じたことはなかった。けれど肖像を描きに来たある画家の、奇跡のような絵筆の動きを観た幼き日の、震えるような感動を忘れることはできなかった。
 ディートフリートはその画家が来るたびに傍に行って、画布の中に吹き込まれ、育ち、広がりゆく世界を飽かず眺め、様々な幼い質問を投げかけた。気さくで子供の好きな画家は幼い王子と画家という身分を超えて 親しく絵画について語り合い、城を辞する前のひと時、彼に絵の手ほどきもしてくれた。そして教えたこと全てを吸収して目覚ましく伸びる幼き王子を心から褒め、嬉々として絵を描く姿に目を細めるのだった。

 その頃、この国と周辺の諸国では、成功した画家といえば、肖像画と宗教画の職人的存在であり、多くが「親方」の工房に属していた。マイスターの技術を学びながら、工房の中の一人として依頼人の求める絵を製作する。宗教画の多くは依頼者の、民の歓心や尊敬を獲得せんがためのものでありまた、寄進した者とその家族の天国行を保証する切符の如く思われていた。国一番の大聖堂の新しい祭壇画はいつ見ても美しく憧れではあったけれど、眺めれば眺めるほどディートフリートの違和感は強くなっていく。
 磔刑の救世主の足元に跪き祈るのは寄進者夫妻。聖なる場面のまさにその場に居るように寄進者を描きこむのが最近の流行であるとはいえ、彼らはこの時代の衣装をまとい、顔を見せるようにやや身体をこちらに向けている。その豪奢なマントや装飾品、艶の良い顔は何としても大いなる嘆きの場でもある刑場の丘には似つかわしくはない。聖母、若い愛弟子、嘆く女性の表情とそのポーズはやや芝居がかった感じがするし、救世主の腰布を翻らせる風の動き、暗く重い空の下に広がる豊かな遠景の風景描写は描き手の技術を誇示するかのようだ。
「違う」
ディートフリートはつぶやく。素晴らしい絵だ。素晴らしい技術だ。けれど、違う、違うのだ。祭壇にあるべき絵はこのようではないはずだ。

 ディートフリートが十八歳を迎えた春のある朝、エーベルハルトが自室にディートフリートを呼んだ。エーベルハルトは成人を迎えて間もない頃から、ずっと政務に関わり父王や重臣たちの信頼を得ている。父王も最近はめっきり老いて体調を崩しがちで、何かとエーベルハルトに頼っているように見える。大事な決断も王の判断だけでは覚束ないと、エーベルハルトに再度意見を求める者さえあると聞く。ディートフリートはそんな兄を変わらず敬愛していた。
「お前はまだ絵描きになりたいと言っているのだな」
「はい。私には政治は不向きに思えます。世の人々を明るくするも暗くするも政の如何、けれど芸術と信仰もまた大切な心のよりどころ。私は人々の心を絵を通じて癒し、救いを与えたいのです」
いつもはそんなディートフリートの言葉を制し、その道を正そうと意見するエーベルハルトが その日は違っていた。
「では迷わず国を出よ、ディートフリート。修行をして絵描きとして成功を収めるがよい」
「お許しいただけるのですか?父上は何と?」
「私から説得した。お前はまだ若い。見分を広め、他国の政治や経済の情勢を知って欲しい。いずれ帰った日にはそれらの経験を我が国のために役立ててもらいたい」
ゆっくりと肘掛椅子に座り直す兄の声は、いつもの鋭さを抑えて温かみを感じさせた。
「身の回りの持ち物は華美なもの高価なものを避けるように。名前を変え身分を隠すが良いだろう。万一 絵の勉強中に政情が変わり、お前が危険な目に遭ったり、人質となって国に帰れないことがないように。幸いお前はその歳になっても未だ、他国の使者にも顔を見せていないからな」
「ご心配有難うございます。決してこの国に迷惑をかけるようなことは致しません」
「お前の描いた絵が大きな教会を飾るのを楽しみにしているぞ」
エーベルハルトはそう言って弟の肩を抱き寄せる。ディートフリートは兄に感謝の言葉を告げ涙を浮かべた。エーベルハルトの指図で秘密裏に出発の手筈は整えられ 異国を目指す旅の始まりはは人気のない闇夜の港だった。

「本当に行くのだな」
彼を送り出したのは重臣の息子で二人の幼馴染みのコンラート一人だった。旅立ちに期待しか無いといった様子のディートフリートに対し、コンラートはずっと重く口を閉ざしていた。
「身体に気をつけて。落ち着いたら便りをよこして居場所を教えてくれ」
「きっとそうするよ。心配性のコンラート。父と兄にも必ず近況は伝えよう」
コンラートの背中を軽く叩いてディートフリートがそう言うと、コンラートは耳元で囁いた。
「連絡はまず僕にだけして欲しい。国の様子を伝えよう」
「心配性のコンラート」
肩を抱いたままディートフリートが悪戯っぽく笑っても、コンラートは硬い表情を崩さない。
「今は何も話せないが、とにかく身の回りに気をつけろ。無事でまた会えるように」

程なく「ロキュ」と名乗る身寄りのない旅の青年が、いくつもの山を越えた国のマイスターの門戸を叩くことになる。


「ロキュ、腕を上げたな」
マイスターが目を細める。ロキュは今回の公会堂に飾る大作の背景の一部を任されている。遠景は色彩を淡くしぼかして表現するのが主流であったが、ロキュはそれに加えてきちんとした遠近法を独自に学んで会得していた。子細に描かれた遠い町の家や樹々は歪みや不自然さもなく 本当に遥か遠くに広がっていくように見える。自分にはここまで描けるだろうか、兄弟子やマイスターまでもが密かに自問し ロキュの描いたものを見つめていた。無事に公会堂の大作を納めると 次に依頼が来たのはロキュが心から描くことを望んでいた祭壇画だった。
 依頼主のアルベルト公は芸術に理解があると評判で、マイスターとも懇意にしており、幾度か工房にも訪れている。ロキュは公が大層若く美しい女性を伴っているのを見たことがある。娘だろうか、いや若い夫人か、もしかしたら愛人かもしれない、そう思いながらもあのテレシアと呼ばれていた美しい女性の姿を祭壇の絵の中に描きこむことを思うと ロキュは胸が高鳴った。

「ご夫妻の肖像のことだが、ロキュ、今度は人物像も描いてみるか?」
期せずしてマイスターがロキュにその話を持ち掛けた時の驚きと喜びは言うまでもない。マイスターと共にロキュはその後幾度も公の城を訪れ、その美しい女性を画布に写し取ることに胸躍らせた。マイスターはすっかりロキュの腕を信用しており、絵は早々にロキュに任せ、館の主と酒を酌み交わしながら隣室でくつろぐことが多くなっていた。政治や経済の話ばかりではなく女性絡みの自慢話まで、声の大きな主の話が筒抜けなのは気になったが、夫人のテレシアは花香るような微笑みを顔に刻み付けたまま、眉ひとつ動かさなかった。ロキュにとっては彼女を目の前にして制作に励むその時間はかつて味わったことのない至福の時だった。

 テレシアがロキュに直接話しかけたのは 祭壇画製作用の肖像画がほぼ仕上げに差し掛かったころだった。
「お国はどちら?ここでお育ちではなさそうだけれど」
離れていてもいつも国のこと父や兄、臣や民のことを思っていた。もちろん旅立ちに際しての兄との約束を守り、身分を隠して誰にも悟られたことはないはずだった。ロキュは黙ったまま制作に打ち込むふりをし続けた。
「あなたの言葉を聞いた時 私の生まれた国の訛りがあるような気がしたの」
親しく話しかけるその声はロキュが思っていた以上に若く明るく、幼くさえ感じられた。
「あちらこちらを旅して参りました。様々な国の出の者と親しくしております」
「工房に入る前、諸国を旅をしていたというのは聞いています」
「はい。親切な旅の一座と共に過ごした日々も大切な思い出です」
それは嘘ではなかった。国を発ってからは苦労の連続だった。騙されて僅かな金さえ盗み取られた。物乞いのように人の情けにすがり、冷たくあしらわれたこともあった。自分の世間知らずを思い知らされたが 城に居ては知ることもできない市井の人の優しさや逞しさにも触れた。
「旅の一座?では 踊りや歌もお得意?ぜひ見せて頂きたいわ」
椅子から乗り出して目を輝かせてテレシアは言う。
「残念ながら 私は絵しか能がありません。彼らのために絵を描きました」
親切に心から感謝し、共に旅をしながら友情を育んだ。懐かしく愛おしい人たち。だが そんな彼らを蔑む者は多い。貴族や金持ちばかりではない、身分に関わらず相手を見下し、傷つけても何とも感じない、人を人とも思わない、そのような場面も嫌というほど見て来た。この人も同じ人種ならば悲しい。ロキュの心配をよそに、彼女のロキュを見つめる目には変わらず温かいものが感じられた。
「揶揄っているのではないわ。気分を害されたのなら謝ります。私は生まれ育った国と、この屋敷の周りしか知りません。様々な人と出会い、自由に旅してきた貴方が羨ましい」
この人も異国から来たのか、ロキュは静かな親しみを覚えながらも 感情を表に出さないように画布に集中しようとする。
「父は国で屈指の資産家だったの。貴族の方々とも親しく、王様のお傍にも上がることも度々あった。もう遠い昔の話だけれどね」
ロキュは思わず彼女の輝くような面に目をやる。それは僅かな瞬間だったにも関わらず、彼女は何か受け取ったように思えた。ロキュの返事を待つ様子もなく、まるで独り歌でも歌うようにテレシアは続けた。
「私、一度父に連れて行ってもらったの。お城の広いお庭で迷子になった時 池のほとりで絵を描いている少年と出会った。お喋りして仲良くなって かくれんぼして駆けっこして遊んだわ」
ロキュの心に幼き日の自分が蘇る。爽やかな風、花の香、ふいに茂みから現れた可愛い客人の少女。逢った時から懐かしい感じがしたのは同じ国のひとだったからか。そしてかつて会ったことのある人だったからなのか。
「後から知ったのよ。その少年が王子様だったって」
ロキュの手が微かに震えた。口元には甘やかな微笑みをたたえたまま テレシアは真っすぐロキュを見つめた。その視線が一瞬、心を見抜くような強い光を帯びていたように感じたのは思い違いではないだろう。
「何だか懐かしいことを思い出してしまったのはこんな香る風の吹く季節のせいかしらね。お喋りが過ぎて疲れたわ。マイスターのお弟子さん、貴方のお話も少しは聞かせて頂戴な」
童女のような好奇心を煌めく瞳に宿し、甘えるような柔らかな声でテレシアはロキュに言う。一瞬でも動揺した自分を戒めながら ロキュは堅い表情に戻って静かに答えた。
「お話するほどの身の上ではございません」
程なくマイスターと主の話は終わり、促されるまま画材を片付けて屋敷を後にした。夫妻の肖像はその日を完成とし、屋敷に訪ねるのは最後となった。今度はそれを下敷きに、工房で祭壇画を仕上げる作業が残されている。


 絵に集中していると周りの音がすべて消える。ロキュは今何もかも忘れて描き出す世界の中に居た。祭壇画は観音開きの大きなもので、開いたその中央に磔の神の子が居る。がくりと垂れた頭部は茨の冠に傷つけられ血が流れる。手足の傷も生々しい。浮き出る血管や痩せた痛々しい肢体のリアルな表現もまた時代の要望に応えていた。ここに敬虔に祈りをささげる公爵夫妻の姿を描きこまねばならない。それが依頼人のたっての希望であることは知っている。だがロキュの絵筆は先に描いてきた肖像画に目をやったままぴたりと止まっていた。光沢のある布の深い紅や真珠の首飾り、金の縁飾り、血色の良い美しい肌。ロキュはずっと逡巡していた。

「思うようにお描きになればいいわ」
急に背後から声を掛けられてロキュは強張った。肖像画のテレシアを見つめすぎて、絵の中から声まで聞こえるほど呆けてしまったのかと一瞬たじろいだのだ。衣擦れの音にまだ信じきれぬまま振り向くと ロキュのすぐ後ろで腰を屈めて絵を覗き込むその人の姿があった。袖のレースが肩に触れ、香水の香りが鼻をくすぐる。
「近くまで来たので。今日は私ひとり」
「絵の具で裾が汚れます」
「大丈夫よ、衣装にはこだわらないたちなの。夫とは違ってね」
テレシアはまるで悪戯な子供のように口を尖らせ、夫の表情を真似て眉間に皺を寄せて見せる。もう一度ロキュの描きかけで止まった人物像のところを眺めくすりと笑った。
「私も変だと思うわ。そこに自分が今の姿のままで居たりしたらね」
思っていたことを言い当てられてロキュは内心どきりとした。
「でも、それは……」
「大丈夫よ、私が主人に言うわ。豪華なドレスを着て、顔を見せている私たちでなければ良しと思いにならないのですか、私はこの神聖な場に居合わせさせて頂くだけでも満足です。後世の人が誰と解らなくても一向に構わない。多くの過去の祭壇画のように扉の外の面に別に描いて頂いたって有難いわ、と」
テレシアの物おじしないきっぱりしたものの言い方にロキュは驚く。


 完成し教会に収められたその祭壇画は依頼主の不満足をよそに随分と巷の評判を呼んだ。画面にはしっとりと違和感なく馴染んで まさにその場面に居合わせたかのような夫妻の姿がある。描かれた姿は依頼主の深い信仰心と、誠実で控えめな人柄を感じさせ、地味な衣装で顔を伏せる夫人の様子も好感を持って受け容れられた。そしてその結果、公もしぶしぶではあるがその出来の良さを認める形となった。

「そうね……私も素晴らしい祭壇画だと思う。評判も上々。マイスターの弟子のロキュといえば皆その腕を褒めるわ」
自らの描いた祭壇画を確認しにロキュが教会に寄ると そこには幾度となくテレシアの姿があった。自分の名が工房を離れて世に知れ渡っていることはロキュ自身も知っていた。
「でも貴方は納得していない。これでもまだ、思う通りでは無いという感じね」
祭壇画を見つめるロキュの隣に立ったテレシアはいつもながら鋭い。近頃は人目も気にせずロキュの仕事場に一人で立ち寄ったり、話しかけたりもする。そんなテレシアの解き放たれたような自由さを喜ばしく思っていいものかロキュには解らない。彼女のことを想うとき心の奥から沸き起こる熱いものを、ただひたすら絵筆を動かすことで鎮めようとしていた。
「聞きたいわ。何処が気に入らないの?貴方の目指しているものは何?」
「解りません。ただ 本当に跪いて心から神に祈りを捧げたくなるのはどの画家が描いたとか、技術がどうだとか そういうものとは別のものだと思います」
「腕が良いと評判になるのは不本意?それとも『ロキュ』が有名になるのが困るのかしら?」
思わず振り返ってテレシアを見た。
「夫が貴方の身元を調べさせています。気を付けた方が良いわ」
耳元でそう囁くとテレシアは裾を翻してロキュの元を去った。甘い香水の香りだけが ロキュの周りに残った。国から来た使者が父王の重篤な病状とエーベルハルトの対外政策について報告してきたのはつい先日のことだった。

 国では父王の病状の悪化で兄のエーベルハルトがすべてを任された形になっている。隣国との交渉が決裂したのち、戦いに備えてエーベルハルトは隣国を囲むような形で周辺の諸国と同盟を結ぼうと図っていた。しかし、父王の時代から隣国とは友好が深く、商売だけではなく婚姻も多い。友人や親族が居る民も多かった。民の反発だけでなく、官僚や兵士の中にもこの政策に不満を持ち、争いに反対する者も数えきれず居たのだ。この国を含め同盟を持ち掛けられた国々の態度も未だ不安定で、いつ味方が敵に替わるか解らない。少なからずエーベルハルトの人間不信の気持ちも周囲に影響しているようだった。
国に帰って微力でも兄の力にならねばならない。でも自分に何ができるのだろうか。ロキュが思いを巡らしている時、コンラートが訪れ、思いもかけないことを告げた。
 国内でエーベルハルトのやり方に不満を持つ者たちが、次期国王にディートフリートを望んでいる。父王も元より兄のエーベルハルトではなくディートフリートに目を掛けていたのだというのがコンラートの言い分だった。
「まさか。そんなはずはない。そんなことがある訳がない」
「気が付かなかったところがお前らしい。他人に厳しすぎるエーベルハルトよりご自身に似た優しい性格のお前の方が為政者としての資質があると王は感じておられたんだ。そもそも、画家の修行をせよと国を追い出したのは誰だ?」
「決して追い出されたわけではない。兄は父を説得したと、見分を広めて来い、と そう言ってくれた」
「説得?王は何も知らされてはいなかったんだぞ。愛する息子が自分と国を捨てたと 王はそう思っておられる。そして混乱の今、それでも尚お前が居ればと、病の床の中でお思いになっている。そしてそれを一番感じていたのがあのエーベルハルトだ」
「何かの間違いだ。兄はそんな卑怯者ではない」
「今まで生きていられただけでも喜ぶんだな」
「父にお会いしたい。変わらぬ真心をお伝えしたい。今すぐにでも帰らねば」
「待てディートフリート。今、うかつに国に足を踏み入れるのは危ない」


 自分の部屋でロキュは画布に向かっていた。誰に依頼されたのでもない、自分のための一作を密かに描き続けてきた。磔の救世主の後ろに広がる風景は描いたのち消し、緞帳が下されたように深い紅の色に塗りこめられている。その前に立ち、嘆きのポーズをとる聖母の面差しはどこかテレシアに似ていたが、俯いて手で顔を覆い、色彩も極力抑えられ、肌や布の質感さえ彫像のそれに近かった。聖母と対をなし、弟子のひとりがこれもまた抑えた悲しみの表情で立ち尽くしている。筆を加えれば加えるほど、悲しみの弟子も磔の救世主も不思議なほど自分自身に似てくる。もっと神聖なものが描きたいのに、もっと自分を消して描きたいのに。どうしても描けない自分が悔しかった。

「お前の描きたかったのはこういったものだったのだな」
振り返るとマイスターが腕を組んで立っていた。尊敬する師匠の悲しそうな表情がロキュの心に影を落とす。先の祭壇画で夫妻の描き方に大幅な変更を加えたことを、マイスターは依頼主に責められたという。夫人のとりなしと事後ではあるが評判の良さで怒りは収まったものの今度は夫人がロキュと親しくする姿を見とがめられてしまった。そのようなことでマイスターは一言もロキュを責めはしない。いつも弟子を信頼し誠意を尽くして相手に語り、どんな時も自分たちを守ってくれることは兄弟子からよく聞かさていれた。
「誰よりも美しい風景を描けるお前が、誰よりも柔らかで温かな血の流れる人間を描けるお前が、それでも描きたいのはこのような祭壇画だという……」
ロキュはただ頭を垂れる。父や兄と勝るとも劣らぬ深い愛情と尊敬をロキュはこの老いたマイスターに感じていた。
「お前が正しいのかもしれないな。ロキュ」
そう寂しげに言うマイスターはその画布と、その先の片隅に小さく纏められた荷物を見つめていた。
「お世話になりました。御恩は一生忘れません、親愛なるマイスター」
今、ここを自分は離れなければならない。これ以上留まれば、マイスターにもテレシアにも迷惑が掛かるに違いない。ロキュは老マイスターと別れを惜しみ、心を込めて抱き合った。

* 
 故国は不安が蔓延し、民の心は荒んでいた。反逆者の疑いを掛けられた者は捕らえられ、密告する者を恐れ、すべての民が心安らぐ時のない日々を過ごしていた。
コンラートの言うのが正しいのなら国に還って父に会う前に捕らわれてしまうかもしれない。きっと兄は今、辛く苦しい立場に立ち、混乱しているのだ。話せば誤解は解ける。兄の力になる努力はできても代わりになることなど到底ありえない。自分は政に口を出す器ではないと知っている。けれどまず病の床にいる父に会い、今日まで勝手をしたことを詫び、決して国や父を捨てたわけでは無いと心を込めて伝えたい。そして兄に決して王になりたいなどと思っていないことを解ってもらおう。自分を担ぎ上げて兄を追い落とそうなどと考えている者が居るとしたら そんな考えは間違いだと正さねばならない。エーベルハルトのやり方が誤っているとしたら、「弟のディートフリート」として共に正しい道を探そう。きっとそうしよう。そして国が落ち着きを取り戻し皆が許してくれるなら、そして兄が自分にそれを望むのであれば、また絵描きの「ロキュ」として暮らしたい。国境に向かう山道を急ぎながらずっとロキュはそれだけを念じていた。
山あいの村の小さな教会に火が放たれたのを見たのは帰途に急ぐそんな最中だった。

***

 その小さな教会は静かな山あいの村にある。山を越えて旅する者は遠くからでもその美しい緑の木々とと花の咲き乱れる庭を目にし、つい足を踏み入れるのだ。そこは国が分かれていたころ国境(くにざかい)だったということだが 今は山越えの旅の間の丁度良い休息場所となり、旅の者の疲れを癒している。庭の世話をしているという品の良い老婦人は、控えめに、それでも何か確信を持った様子で礼拝堂に旅人を案内し、祭壇にまつわる昔の話をしてくれるのだ。

──かつてここには素朴な祭壇がありました。壁の中央高い位置に木彫りの救世主、祭壇の左右に 同じく木彫りの聖母と弟子が、村人の捧げるたくさんの花々にいつも囲まれて訪れる人々の祈りを聞き、見守っていたのです。国境の警備も緩やかで行き来も自由にできた時代で、隣国からもこの教会を訪れる人も多くいました。隣同士の国の民が、共に祈り共に語らう場としても愛されてきた場所だったのです。
ですが、戦争の気配が濃くなり、国が乱れ、内乱が起こった頃、その教会に反逆者が集い謀反を企んでいるというのが王子エーベルハルトの耳に入りました。政を仕切るのはこのエーベルハルトです。病の床に居るはずの老いた王は、この混乱の時の中すでに亡くなっていて、次期国王についてはエーベルハルトの弟の王子の名を言い残したという噂もありました。確かなことは解りません。
エーベルハルトの命により屈強な兵士が集められました。中には異教の者も居りました。
山あいの平和な村の小さな教会を兵が取り囲み 中に居た者たちは捕らえられ牢獄に連れ去られます。王子の命令がどこまでだったかは定かではありませんが、村人が愛した祭壇は聖なる像もろとも打ち壊され、炎に包まれてしまったといいます。

通りがかった一人の画家は、教会の惨状を見、村人の嘆きを知り心を痛めました。捕らえられた者の家族、巻き添えで怪我を負った者たちがそれでも教会を修復しようと力を合わせて働いています。画家は自分のできることをさせて欲しいと申し出て、自らに問うた後、壊れた祭壇の壁を塗り直し、そこに直接 絵を描き始めたのです。
 その画家ですか?そう、その画家に何の罪があったというのでしょうか、捕らわれてどこかに連れて行かれたそうです。ただ、囚われの身のまま、祭壇画を完成させることだけは許されたとのこと。再び戻って来て、兵の監視の下、絵筆を動かし続けたといいます。
絵は完成しました。が、画家は戻りませんでした。エーベルハルトは追われ、国境は無くなり両国の民に平和が戻りました。画家のその後のことは誰も知りません。

「これがその祭壇画なのですね」
旅の者が言うと、案内人の老婦人は深く頷いた。尋ねると、若い頃異国で結婚したこと、夫を亡くして後、故郷であるこの場所に戻って来たことを言葉少なに語ってくれる。
「皆『ロキュの祭壇画』と呼んでいます。画家自身は名を残すことなど望んでいなかったのですがね」
「ご存知なのですか。その画家を」
知っているとも知らないとも老婦人は答えず
──ゆっくりご覧になってくださいね、心静かに向き合うと、敬虔な気持ちになれることでしょう、それが画家の望みであり祈りなのですから。
そう言うと、旅人を祭壇の前に残して立ち去った。

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さよなら さくら

 父と「琵琶湖ぐるっと桜名所めぐり」に行ったのは4月13日でした。旺太郎くんの残念なツアーはそのまんま その時のお話です。「悲劇」とまではいきませんがね。


第72回 Mistery Circleお題
●彼の悲劇が避けがたいものであったことを彼女は悟った。 で始まり
●彼女は不意をうたれたように目を大きくひらき、足をとめた。 で終わる こと。

お題出典:「 シリウス 」 早川書房 著:オラフ・ステープルドン 訳:中村能三
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旺太郎の悲劇は避けがたい、と決まっていたのかもしれない。

 従妹から借りた軽自動車を緊張した面持ちで運転しながらも、旺太郎は時々ミラー越しにちらりと後ろを見ては口元が綻ぶのを隠せない。大学受験がやっと落ち着いたと同時に旺太郎は最短で免許を取った。この日のためのその涙ぐましい努力の日々を私は知っている。
「告白するの?」
身を乗り出して聞いた私に 十八歳男子にしては小さい身体を更に小さくして旺太郎は首を横に振ったのだ。
「いいの?」
「いいんだ、大学生になってからも時間はあるし」
「大学生になったらって……きっと周りはライバルだらけになるよ。彩音はもっともっと素敵になるだろうし」
「俺だってこのままじゃないし。四年間で背が伸びてイケメンになる……予定だし」
彩音の志望した大学に共に合格したものの、彩音は入学より別の道を選んでしまった。「背が伸びてイケメンに」なる野望も達成できる気がしなかったが、その痛々さに私はため息しか出ない。このドライブを最後に 彩音は明日東京に旅立って行く。
折角だから彩音を助手席に座らせようという気遣いをよそに、旺太郎はお願いだから二人で後ろに座ってくれと言う。緊張しすぎて事故でも起こしたら大変だから。未来の人気女優、佐倉彩音の将来を心から応援する者としては こんな時間を頂けるだけでまたとない幸いなのだから。


「お、桜だ、桜。見ろ、見ろ、千紘、佐倉。ほら、あっちにも」
「うん、綺麗だね、本当に」
一応名前を呼ばれたので私が面倒くさげに頷くと、彩音は道路沿いの風景の中に花を探して首を巡らせ、見つけた山桜に目を細めて律儀に返事する。開けた窓から入る風は心地良い。シャンプーの香りをふわりとさせて彩音の艶かな髪が揺れる。薄桃色の柔らかそうな唇、白いすべらかな肌、黒目がちな目、すらりと伸びた手足。整った横顔を眺めながら 本当にこの子は綺麗だな、と思う。奇跡の造形美。

今年の桜は異例の早咲きで、その分散るのも早かった。ソメイヨシノはもう散って葉っぱだけだ。
そんなことは最初から解っていたはずなのに、今にも降り出しそうな曇天の今日「旺太郎セレクト地域の花見名所ぐるっと巡りツアー」を決行したのは 多忙な彩音を思って早くからこの日に決めてしまったからだ。
「日程が無理なら行先だけでも変更しないの?桜、全然ないかもよ」
そんなことを私が言ったら 旺太郎は悩むばかりだ。彩音のために一生懸命考えたコースだったみたいだし、予定が変更となってこのドライブ自体が無くなってしまう方が旺太郎には痛手だろう。
「大丈夫よ、遅咲きの桜だってあるし、それより私、二人とドライブっていうだけでずっと楽しみにしていたんだもの」
彩音が屈託のない様子で微笑みながら言う。「二人と」のところで旺太郎の目はきらきらと輝いた。もちろん慌てて向こうを向いた旺太郎の頬から耳の辺りがほんのり赤くなったのも私は見逃しはしない。

 佐倉彩音は高校入学式当日から学校中の噂になるほどの美少女だ。他のクラス、上の学年からもわざわざ彼女を見に来る生徒が後を絶たず、今までに何度もスカウトに声を掛けられたとか、街に出れば必ず雑誌のスナップに載るとか、一度に何人もから告白されて断ったことがあるとか 出所不明の伝説は数知れない。最初こそ傍に群がってきた男子も互いに牽制し合ってだんだん近づきがたくなり、女子の中でもどのグループに属す間もなく、どこか一線を引かれた風になってしまっていた。そのうち「伝説」の出所なんて本人しか有り得ないと女子の誰かが言い出し、次第に裏の顔があるとか実は性格が悪いとか陰で言う者も増え、ぽつんと一人でいる姿を見ることが多くなっていった。そんな立場の彩音と仲良くなるのは私にとっては当然の成り行きだ。女子のそういう感覚が私は小さい頃から気持ち悪くて仕方ないのだ。遠巻きに見て「抜け駆けは許さない」とかいっている男子共も同様だ。幼馴染で私の「弟分」の旺太郎を仲間に引きずり込んだのもそういう意味では自然な流れでもあった。

「引っ越し準備とか、本当は忙しかったんじゃないの?ありがとね、今日は付き合ってくれて」
私が言うと 彩音は車窓の方を向いたまま、ううん、と首を横に振った。
「私ね、ずっと思ってた。今日こんな風に二人と一緒に過ごしたらもう、」
簡単には会えなくなるんだね、きっとこれからは……彩音の言葉に続けて言いかけると
「離れたくないって、決心が揺らいでしまうかもしれないって」
そんなに大事な関係に思ってもらえていたのか、と少し驚く。自分たちと彩音の繋がりは三年を経てもまだまだ浅いように感じていた。告白さえしていないものの、旺太郎の一途な好意はもちろん感じてくれていたとは思う。男子が苦手と言いつつも旺太郎のことだけは拒否することもなくいつも笑顔で傍にいた彩音。男として意識さえされていないのだ、と他の男子からはやっかみ半分で見られていた旺太郎。
「大学に合格できたのもちゃんと卒業できたのも 千紘と旺太郎くんのノートと個人授業のおかげだよ。有難う。」
「俺?いやいや俺なんて そんな……」
運転席の旺太郎が声を詰まらせる。涙もろくてすぐ感動するのが旺太郎らしい。
「千紘の字が酷すぎるからさ、俺は清書しただけだから」
「千紘の字……確かにね」
彩音がくすくすと笑う。なんて素敵な笑い方なんだろう、いつものことながら彩音の笑顔の横顔をほれぼれと見つめる。

 何事も大雑把な私の字が、自分にしか読めないレベルで酷いことは自覚している。旺太郎は長年の慣れで解読できるため、ノートを貸して彩音を助けたいと言った時「清書」を自ら申し出た。理系で授業内容の異なる旺太郎にとって、内容を理解してノートを作る作業は新たな勉強でもあっただろう。
ピアノやバレエ、ダンスのレッスンに通っていた彩音が 授業中によく居眠りしていたことに気づいたのは何故かクラスの違う旺太郎が先だった。彩音もスカウトの内容に興味を示したこともあったそうだが、親は全く認めなかった。それらのレッスンについては「学校を休まないこと」「大学受験をすること(もちろん合格すること)」を条件に、「趣味として」続けることを許してもらっていたことは後から知った。
「あたしの部活よりよっぽどハードだし。よく続くよ。尊敬に値する」
帰宅部の旺太郎に、私がそんなふうに言うと旺太郎は何度も肯きながら激しく同意した。

「元は引っ込み思案な私の性格を思っての親が薦めた習い事だった。でも私はそっちばかりを自分の世界にして 学校での友達作りを諦めてきた。線を引いていたのは自分の方だって、解っていたの」
属する「グループ」にこだわらず彼女に近づいた私と仲良くなってから 彩音は明るい笑顔を見せるようになった。その変化も、旺太郎はしっかり見ていた。
「佐倉だけのせいじゃないよ。女子の『グループ』って やたら怖いもんな」
いつも彩音を庇う旺太郎の言葉の優しさにまた、なかなか叶うことの無さそうな彼の想いを感じて言葉に詰まる。いつもだったら からかったりしながらも 旺太郎の良さをアピールして片思いの恋心を後押ししてみたりするのだが、今日は黙ったまま 外を見た。彩音の手が そっと腕に触れる。寂しい想いは同じなのだろうな、もう一方の手を彩音の白い手に重ねた。

 最初に車を降りたのは 小さな湖のほとりだ。遠くに線路が見えるけれど電車が走るのを見るのはラッキーと言っていい。玩具みたいな小さな電車。咲き始めの菜の花が道の脇にちらほらと見えるだけの 特に何という場所でもない。釣りの客も来ないのか閑散とした湖畔には ペンキの色褪せたボートが数隻浮かんでいるが 傍の小屋にも係りの人が居る気配もない。休館日の札の掛かった小ぢんまりした建物は湖と地域の自然や歴史を扱った写真パネルなどを並べた資料館であるらしい。
ここに連れてきて 彩音に何を見せたかったのかは解っていたが 残念すぎてもう、言葉が出ない。
「えっと……小学校の遠足で、来たことあったかな」
ため息交じりに言葉を探すと、先を歩きながら彩音は 
「静かでいいところね。緑が綺麗」
 両手を大きく広げ、首を伸ばして深く息を吸い込むようにする。高校入学と同時にこの土地に引っ越ししてきた彩音にとってはこんな地元感満載の地味な場所も目新しいのかもしれない。
「地域の花見の定番なんだ。あそこからここまで真っピンクに染まる」
旺太郎が手を伸ばして走りながら教えるけれど そこには花はもうほとんど無い。
「満開の時期には、ね」私は小声でつけ足した。

 旺太郎が彩音に一目惚れした瞬間を、私は知っている。入学式の日、桜の花びらが降るよう風に舞っていたその中に彩音が居た。隣を歩いていた旺太郎が急に立ち止まり、固まったように動かない。あの時の旺太郎の顔は忘れようったって忘れられない。制服のブレザーとネクタイが全然似合ってない、まだまだ幼さを残したままの旺太郎。その旺太郎がかつて一度も見たことのない真剣なまなざしでその女の子を見つめている。まるで知らない男の子のようだった。旺太郎はその日一日ずっと無口で、話しかけても上の空のまま、目は彩音の姿を追っていた。彩音は私と同じクラスに、旺太郎は隣のクラスになった。旺太郎が何かと理由をつけてうちのクラスに来たことは言うまでもない。

「千紘、最初は男子だと思われてたんだっけな」
桜の時期にはいつも思い出すことがある。話しかけてもよそよそしい彩音にいい加減いらついたこと、それでも意地になって余計に声を掛け続けたこと。体育の創作ダンスのグループ分けで、「一緒に組もう」と誘ったことで、私が「女子」だと気づいた時の彩音の驚いた顔。自分の勘違いが可笑しくて笑い出した時の弾けるような笑い声。初めて一緒に笑った日。
「ガサツだからなぁ、お前は」
「制服着ずにジャージばかり着てたからでしょ。男子と混ざって喋っていることも多かったし」
「女らしさとか皆無だからな。佐倉とは違って」
「いちいち うるさい。ちゃんと前見て運転しろ、旺太郎」
私が文句を言うと旺太郎は話を逸らす。言い負かされるのが解っているからだ。
「次の目的地は桜並木の『花のトンネル』。あそこは遅咲きの桜なんだ」
「この様子じゃ遅咲きって言っても、もう終わってるよ。きっと」
「湖畔に広がる景色もいいんだ。秋の紅葉も綺麗で観光バスもたくさん来る」
「秋の話なんかしてもさ」
「遅咲きの桜なら、八重桜もある。八重桜ならちょうど見ごろかも」
「あの桜餅みたいなやつね。あれ、いっぱい咲いてると胸やけしそうになる」
「食う訳じゃないし。千紘には風情というものが解らないからなぁ。ほら、花が散った後こそ、花の美しさを想う……とかさ、そういうのも……」
ガラにもなく長く喋るので 旺太郎は舌がもつれそうだ。声もだんだん小さくなる。
「ま、遠足でも花よりお弁当だったのはあんたも一緒じゃん」
旺太郎と私の応酬を彩音はいつも楽しそうに聞いていた。
「羨ましいな。二人は本当に仲がいいよね」
まぶしそうな目をしてそう言う彩音を見ると、慌ててしまう。彩音を含めて楽しい雰囲気を作っているつもりが 彩音に疎外感を感じさせてしまっているのかもしれない。旺太郎と私が仲良しなんてそんなことは全くどうでもいい。少しでも旺太郎を彩音が見て、旺太郎の良さを解ってくれたらと思う。どこが良いかと言われたら難しいけれどもね。
「幼馴染の男の子、私にもいたら良かったのにな」
人付き合いが苦手な彩音は中でも男子がダメらしい。今までずっと男子と気軽に喋れたことがないと聞く。
「旺太郎なんか いつでも差し出すよ。どうにでも使って」
そもそも私のものでも無いのについそんな言い方をして また反省するのだ。

「花のトンネル、残念っ」
どこまでも「緑のトンネル」を車を降りて通り抜けてみる。「花も無いんだし、次に行こう」と言う私に、それでも彩音が少し歩きたいと言ったからだ。見上げても葉の間からは曇った空の鈍い色しか覗いていない。
真ん中に彩音を挟んで歩いていると 彩音が両手を伸ばして二人の腕に手を掛けた。
「球技大会の時 本当に嬉しかったな。こんな風に二人の間で支えられて」
「無茶するんだもんな、佐倉。いやぁ、あの時の千紘はマジ『オトコマエ』だった」
馬鹿、私を持ち上げる話してどうすんだよ、と旺太郎を睨んだ。旺太郎は全然気にしない様子で思い出に浸っている。二年の冬の球技大会の日、彩音は熱が高いのに競技に参加していた。「佐倉が辛そうだ」と先に気づいて私に言ったのはやはり旺太郎だった。慌てて見に行くとチームのメンバーは労わるどころか面白がってふらふらする彩音にボールを回しているようにさえ見える。
「お姫様抱っこでもするいい機会だったのにね」
コートで倒れた彩音の傍に一番に駆け寄ったのはもちろん旺太郎だ。なのに旺太郎はおろおろと彩音に声を掛けるだけで、私が来るのを待っている。球技大会など最初からサボるつもりだったメンバーがいたせいで彩音が抜けたらチームの人数が足りないらしい。
「そんなこと 知るか。この子、熱あるじゃない」
「旺太郎、さっさと そっちも支えて」と声を荒げ、それでも不満げなメンバーに「私が代わりに出てやるから 試合中断して待ってろ」と怒りのあまり震えながら言った。ついさっきまで別の競技に出ていて まだ汗も引いてなかったのだけれど。

 旺太郎企画の最後の予定地は比較的大きな公園だ。戦国武将のゆかりの地とかで大河ドラマ景気に沸いた時もあったが、今はすっかり落ち着いている。もちろん目当ての「桜で覆われる」石垣や城跡の階段も花の一欠片も見当たらなかった。雲行きも怪しい。「だめだね、ここも」私が言いかけた時
「あっ、見て 千紘」
彩音の指さす方向を見ると 公園の遠い片隅にピンクの塊が見える。一瞬息をのんだ。旺太郎も声を上げる。
「枝垂桜だ。すっげぇ」
曇天をバックに、そこだけくっきりと華やかに際立つ花が咲いた樹があった。大きな木とは言えないが、重たそうにしだれた枝に、濃いピンク色の花を満開に咲かせている。そこだけ季節が違うみたいだ。彩音が走り出した。
先にたどり着いた彩音が桜の前でくるりと振り向く。追いかける旺太郎の足が急に立ち止まったせいで 背中にぶつかった。旺太郎がよろける。
「馬鹿、そんな大げさによろけないでよ」
背中を叩くが反応が鈍い。まさか、と思って顔を覗き込むと 旺太郎の目は見開かれ、僅かに潤んでいた。肩が震えている。
「ほらほら、何してるの。行くよ」
旺太郎の背中を押して彩音のところに行くように促す。
「そうだ、写真撮ろう。二人並びなよ」
私が言うと、撮ってやる、撮ってやる、とまた旺太郎はカメラマンに徹しようとした。渋る旺太郎に彩音とのツーショットを撮ってやり、三人の記念写真も撮った。バックに桜をちゃんと入れ、旺太郎が苦労してせっかくフレームに収めるものの、誰かの顔が変だったり切れていたり、手ブレしてたり、喋っているうちに足元を続けて何枚も撮ってしまったりして、なかなかいい写真が撮れない。それでもここに来てからというもの私たちのテンションは上がりっぱなしで、どんなささいなことでも可笑しくて、お腹を抱え、涙まで流して笑い続けていた。私たちはずっとこんな風に笑いたかったんだ。最後の場所で迎えてくれた奇跡のような枝垂桜が本当に有難かった。

「ラスト一枚な」
時計を気にしながら旺太郎は言う。明日早朝に出発する彩音のこと思って帰る時間も決めているらしい。
桜の下の私と彩音を撮ってくれた後、近づいてきた旺太郎に両手を伸ばした。
彩音がそっと旺太郎の手を握ると、旺太郎は見るからにうろたえて 固まってしまった。
「今日は 有難う。絶対忘れないね、旺太郎くん」
この至福の時間の中に旺太郎に少しでも長く居させてやりたい。桜を別の角度からも眺めるふりをして、少しずつ二人から離れる。手を握り返すこともできないまま 照れながら旺太郎は これからの彩音を応援すると約束の言葉を口にする。離れていても旺太郎の緊張しつつも幸せそうな様子が伝わってきた。

 離れたベンチに座って待っていると、程なく手を振りながら彩音が私の方に駆けて来て ベンチの前で立ち止まった。
「千紘、有難う。ずっと一緒にいてくれて、本当に嬉しかった」
「私もね。これからも頑張ってね。応援してる」
彩音の唇が震え、伏せた目からぽたぽたと涙がこぼれ落ちた。こんな彩音を見るのは初めてだった。
「私、私ね……」
座った私の両肩に手を掛けて、潤んだ目が真っすぐに私を見つめた。彩音の髪がさらさらと私の頬の周りで風に揺れた。


 佐倉彩音の名前を雑誌やテレビで見つけるのを、私と旺太郎はいつも楽しみにしている。彩音とのラインは細々ではあるが続いているし、ネットで彼女の綴る近況にはいつも「大事な故郷の友だち」への感謝と変わらぬ友情が読み取れるのがうれしい。
「彩音、頑張ってるね」

 今年の桜はちゃんと季節を間違わずに咲き誇っている。桜の頃になると旺太郎はあのドライブの思い出を語りたがる。三人だけの大事な思い出として秘めておこうと心に決めているらしい。
「千紘とだけは心置きなく懐かしい話ができるはずなのに、何かいつもノリが悪いよなぁ」
不満顔になる旺太郎の気持ちも解らないではない。けれど この日のことを思い出すと私はどうしても額のあたりがくすぐったいような落ち着かない気持ちになって、上の空になってしまうのだ。

 彩音は、あの日ずっと何かを言い淀み、迷っているような様子だったが ベンチに座る私の傍に近づいて来る時、決意したように振り向いて、後ろから追う旺太郎に声を掛けたのだ。
「旺太郎くん、お願いがあるの。少しの間だけでいいの。そこで目をつぶって待っていて」
「さっ…佐倉のお願いなら何でも聞く」
言われるまま旺太郎が目をつぶってその場に留まった。
「私、私ね……」
彩音はベンチに座った私の肩に両手を掛け、身体を折り曲げるようにしてその綺麗な顔を近づけた。不意を打たれ、何が起こったのかよく解らなかった。一瞬の強い風に枝垂桜の花びらが舞う中 彩音の唇が私の額に軽く触れたのだ。
「千紘のこと、本当に大好きだったよ。一生忘れない」
耳元で彩音に囁かれ呆然としていると さっきの場所に立ち止まったままの旺太郎が、間延びした声を出した。
「佐倉、そろそろ目を開けてもいいかなぁ」

 額にキスというものが あの時の彼女にとってどういう意味だったのか、私にはよく解らないままだ。旺太郎が、言われたとおりに本当にずっと目を瞑っていたのか、瞑っていたのならその時何を思っていたのか聞いてみたくなる時もある。けれども大学生になっても背の伸びない旺太郎を見るにつけ このままそっと私だけの心に留めておこう、と思い直すのだ。

早春、花園幻想曲

第71回 Mistery Circle 

バトルロイヤルルール(共通お題) 
●すまないなあ。きみたちしそんにまでめいわくかけて……。
●かまうもんか! あした絶対に使ってやるぞ!
●もう安心して帰れるだろ?
●ぼくはもう、生きてるのがいやになっちゃった。
●きみ、おかしくなったんじゃないだろうね?

※お題はどれを選んでも可




─もう、生きているのがいやになった 。
そんな書き置きを残して家を出たら さすがにお母さんだって探すはずだ。
それは 日菜子の思いつきだった。ちょっとどこかに隠れていたらいいんだよ、少しだけ心配させるくらい構わない。もし見つけてもらえなくても、戻るタイミングはちゃんとあたしが作ってあげるから。
「でも、どこに行けばいいの?」
森生が聞く。場所は決まっていた。一人で理由もなく入る勇気は今までなかったけれど 日菜子にとってこれはちょうどいいチャンスだ。
「そうね、えっと」
考えるふりを少しだけ長めにしてから、日菜子は森生に言う。
「あそこがいいな、『秘密の花園』。大丈夫、中の様子は調べ済み。入れるところだってあたしは知ってるんだ」
「中の様子って…。日菜子ちゃん、入ったの?ひとりで?ずるいっ。」
思った通りの食いつきようだった。それでもすぐ、心配そうに顔を曇らせる。森生は小さいけれど慎重な子だ。
「でも、誰かの家なんでしょ?入ったら怒られない?」
「大丈夫だって。人がいるところなんて見たことないもん。森生が約束守るっていうならとっておきの秘密教えてあげる」
「とっておきの秘密って?」
森生の目が好奇心できらきら光る。一重で細い日菜子とは違う、くっきり二重の大きい目だ。『秘密の花園』は、もちろん日菜子が勝手につけたその場所の呼び名だ。お母さんが以前読み聞かせてくれたお話の題名から拝借している。勿体つけながら、日菜子は森生を自分の部屋に招き入れた。


 何の説明もないまま決まった親の離婚と、三年生の三学期からという中途半端な引っ越しに迷惑を被るのは子供だ。だから新しい家では一つくらい思い通りにしようと日菜子は心に決めていた。小さなハイツの三階の玄関のドアを開けてすぐ、日菜子は真っ先に入って狭い家を一通り見回ると、一番北の端の部屋に自分の荷物を置いた。四畳もないかもしれない物置みたいな小さな部屋だ。けれど 日菜子が気に入ったのには理由があった。
 引っ越し先を見に来た日、お母さんが不動産屋さんと話をしている間に日菜子は周囲を探検してみた。ここに来る途中で見た、道路沿いの古びたお屋敷の門が気になっていた。傍まで歩いて行って見ると、木造の重々しく頑丈そうな門扉は錠が錆び、黒ずんだ表札は文字が読めない。
「……ソノ?」
二文字の漢字のようだったが「園」の文字を読み取るのが日菜子にはやっとだった。隙間から覗く雑草や、ポストからはみ出た黄ばんだチラシ類、玄関前の手入れされていない様子からは人の住む気配が全く無い。門から屋敷の敷地に沿ってずっと、高い煉瓦塀が続いていて、その脇に子供一人が通れるくらいの狭い通路があった。壁伝いに辿っていくと日菜子たちの住むことになったハイツの横手に繋がっていた。
「中に何があるんだろうね。お化け屋敷みたい」
怖がりで、お化け屋敷なんて入ったこともないくせに、森生はちょっと嬉しそうに言った。蔦が這う煉瓦塀、それよりもっと高く茂った木々が不気味な日陰を作っている。どんなに背伸びしたって見えないのは解っているのに 森生は跳んだり跳ねたりして中を覗こうとした。その塀の中が日菜子の部屋の、角の小窓から見下ろせたのだ。
「うっわー、日菜子ちゃん、ここから中が見えるんだ。草ぼうぼう。やっぱりすごくでっかい木ばっかりだね。ほら、あそこ、黄色い花が咲いてるよ、あっちには白。鳥の水飲み場みたいなのもある。ああ来てる、来てる、ねぇ、何ていう鳥?他に動物なんかはいないの?」
「猫がいっぱいいるよ」
「猫?猫、いっぱい?」
窓に張り付いたまま、森生は息を弾ませる。テンションは上がりっぱなしだ。

 少しずつ暖かい日が増えて、春が近づいている。濃いピンクや白の梅がちらほらと花開き、塀の外まで枝を伸ばした桜の木のつぼみも膨らんできた。あの庭に初めて入る日は、花が満開だといいな、日菜子は思う。窓から見える木々は きっと季節ごとに様々な花を咲かせ、葉っぱも色を変えていくだろう。隙間から見える地面はまだ枯草の色が多いけれど、これからどんどん緑が広がっていく。何の種が今、土の下で芽を出す日を待っていて、どんな花々が咲くのだろうと想像する。毎日、それが日菜子の一番の楽しみだった。

 春休み前の短縮授業を終え、「秘密の花園」の横の通路を抜けて日菜子が帰って来ると、森生が台所の隅でひざを抱えて座っていた。
「どうしたの?お母さんは?」
「寝てる」
リビングのソファーでお母さんが横になっているのが見える。本当に寝ているのかどうかは解らない。引っ越す前もぼんやりしていることの多い人だったけれど最近はもっと酷い。子育てが嫌になったのかもしれない、全て投げ出して、今度はお母さんが出ていってしまうんじゃないだろうかと、日菜子は不安で胸がいっぱいになる。こんな馴染みのない土地に取り残されたら、子供だけでどうやって暮らせばいいんだろう。
 日菜子が森生に充てた広くて明るい方の部屋には荷物が入ったままのダンボールが積み上げられている。シンクにはカップ麺の容器が一つとお母さんのお箸とお湯飲みが置いたままになっている。
「森生のご飯は?」
森生は力なく首を横に振った。


「吉崎日菜子、吉崎日菜子、何でそんなに急いでんの」
後ろから追ってくるのは 同じクラスの越谷(えつや)だ。転校生が面白いのか日菜子にやたらと絡んでくる。関西人のお父さんと地元民のお母さんの「ハーフ」だとか言ってヘンテコな関西弁を使うのでクラスで目立っていた。
──みんなから浮いてるのはこいつだって一緒じゃないか。
日菜子は聞こえないふりをして先を歩いていたが、あまりにしつこいので振り向いた。
「フルネームで何回も呼ばないでください。付いて来ないでください」
「けど、お前 苗字で呼んでもすぐに気づかへんし。なぁ、何でそんなに急いでんの?」
まだ母の旧姓に慣れていないのだ、なんて説明はしない。急いでいる理由はもっと秘密だ。森生が待っている。日菜子は今日も森生と家出の相談をする予定だった。
「付いて来るなったって 俺もここから帰るんやけど」
越谷が指さしたのは日菜子がいつも通る塀沿いの近道だ。そうか、自分だけの「秘密」な訳がない、相手の方が前からの住人だ。少しがっかりした気分になって、日菜子は立ち止まってしまう。越谷がすぐ後ろまで追い付いてきた。

 引っ越してきた日の翌朝、日菜子はお母さんと二人でハイツの全部の家を回った。空き室も多く、玄関先に出た住人はほとんどがお年寄りだったので、越谷の家は印象に残っていた。お母さんはどの家でも俯きがちに挨拶の品を手渡し、手短な挨拶をしてそそくさと立ち去ろうとした。越谷のおばさんは越谷と弟を玄関先に呼び寄せて日菜子に紹介し、「学校で困ったことがあったらコイツに頼っていいよ。こんなのでも多少は役に立つと思う」と言いながら越谷の頭をぽこんと叩き、「落ち着いたら遊びにおいでね」と言ってくれた。優しい言葉をかけてもらえたのは日菜子もちょっと嬉しかったけれど、頼ることも遊びに行くことも、この先絶対に無いと思っている。

「なぁなぁ、お前の母さんってさ……」
ハイツの前まで出てもまだしゃべり続けようとする越谷を振り切って三階へ、階段を一気に駆け上がった。何を聞くつもりなのか知らないけれど、うちの家のことについて、まだ他人には話したいとは思わない、日菜子は唇をきゅっと噛み締めた。


「ただいま」
「おかえり 日菜子ちゃん」
玄関ドアを開けるとすぐに森生が出迎える。台所を見ると相変わらず森生の分の食器はシンクにない。引っ越し前はこんなことは無かったのに……日菜子は思う。
「お腹すかないの?一緒に何か食べようか?」
森生は黙って首を横に振った。
「書置きの手紙、書いてみた?」
「書けないもん。日菜子ちゃん書いて」
「森生だって書けるじゃない」
「だめだよ。『生きるのがいや』って『死にたい』ってことでしょ?そんなの書いたらお母さん、泣く。日菜子ちゃんは何ともないの?」
「『生きる』っていう漢字なら自分も書ける、『もりお』の『生』だもん、って。小学生になる前に漢字を覚えたいっていうから教えたんじゃない。だから……」
森生は何か言いたげな表情で日菜子の顔をちらと見て、目をそらした。
「どうしたの。言いたいことあるんなら、はっきり言いなよ」
「いい。日菜子ちゃんにはわからないから」
「何が解らないのよ」
「だから いいってば」
長い沈黙の後、そっぽを向いたまま森生がぽそりと言った。
「だいたい僕って、ちゃんと『生きてる』?日菜子ちゃん」
「何でそんな風に言うかな。嫌なこと言わないで」
胸がきゅっと苦しくなる。森生の癖のない艶やかな髪に日菜子はそっと触れた。


 結局置手紙については保留にして、翌日二人で出かけることにした。長い煉瓦塀を角まで辿って行くと緩い傾斜が続いていた。降りて行った先の小川沿いに続く敷地の囲いは、雑草に覆われた高い鉄の柵になっている。網目状のフェンスになっているところに、小さな子供なら入れるくらいの破れ目があり、誰が置いたのか目隠しに板が立てかけてあった。「ここが入口だよ」と日菜子が教えると、森生はフェンス越しに中を覗き、「すごい、すごい」と頬を紅潮させた。

 森生を先に入らせ、日菜子が後に続く。腰をかがめて中に入ると破れたフェンスの先が引っかかってセーターにほつれ目ができた。敷地内に足を踏み入れると、サクリと乾いた落ち葉を踏む音がして、その下のしっとりと湿った土の感触が靴底を通しても伝わってきた。ぐるりと周囲を囲む生い茂った木々が深い陰を作っていたが、隙間からの木漏れ日がきらきらと揺れ、森生の後ろ姿を照らしている。緩い風が吹き抜け、草の香りが一斉にたち上がり日菜子の身体全体にしみこんでくる。振り返ると川に面した斜面には、明るい陽だまりが広がっているのが見える。頭上の雲が途切れ陽が差し込むと、静かに眠っていた庭が目を覚ましたみたいだ。感嘆の声を上げながら、森生が両手を広げ丈の高い草をかき分けてどんどん中に進む。日菜子が踏んだところは草が倒れ、道ができるのに、身軽な森生の後ろはそのままだ。
「森生、森生、先に行かないで。待って。先に行かないで」
捻じれた木々から垂れ下がる絡み合った蔓が、まるで手を差し出しているように見える。小さな森生がこの『花園』に取り込まれてどこかに消えてしまいそうな気がして、日菜子は慌てて追いかけた。

「ねえ、日菜子ちゃん、猫いるよ、いっぱいいるよ。すごいよ」
庭の中ほどまで行くと クローバーの葉と柔らかな土の色が見える明るい場所に出た。蔓が伸び放題に絡まった薔薇のアーチの向こうに、朽ちかけた小さな平屋が見える。瓦は部分的に崩れ落ちてガラスは破れ、窓枠のペンキは剥げている。壊れて穴の開いたテラスの屋根が時折風に揺れて ぱたりぱたりと音を立てた。寄せ植え用の大きな素焼きの鉢や金属製のフラワーポット、土と雑草に埋まりかけた煉瓦の小道、倒れたガーデンチェア。荒れてはいるけれど、どこか美しかった庭園の名残を留めている。家の周りや庭のいたるところに様々な色や柄の猫が何匹もいて、侵入者の日菜子たちを気にする様子もなく、くつろいでいた。

「おーい 吉崎」
ざわざわと草をかき分ける音がして 誰かが呼ぶ声が聞こえた。入口の板を外したままにしてきてしまったことに日菜子は気付く。振り向くと斜面を上がって来る越谷が見えた。
「今日もずっとそわそわしてんなぁと思ってたら」
つけてきたのか。日菜子が不機嫌な顔をして黙っていると、越谷は大げさに首を回して周囲を見渡し、目を細め「久しぶりやなぁ」とつぶやいた。
「俺らも小さい頃、よくあそこから勝手に入って婆さんに怒られた。今じゃ 気味悪がって誰も入らないし。あ、そうか。お前んちからならこの辺って、見えるんや」
越谷はハイツの窓を見上げて、生い茂った木の梢越しに日菜子の部屋の窓を認めると、一人で納得したように頷き、向き直ってにやっと笑いかけた。
「なかなか勇気あるな、ひとりでお化け屋敷探検か?」
── ひとりじゃない。
心の中で言い返すと、越谷は返事を促すように首を傾けて日菜子の顔を覗き込んだ。
「お、弟が猫を見たいっていうから。ほら あそこにいっぱい…」
「ふーん?弟が、猫、見たい、って?」
越谷が妙に一語一語切って日菜子の言葉を繰り返し、じっと日菜子の顔を見つめる。気まずくなって越谷の視線を避け、日菜子は森生を探した。どんなに目を凝らしても、さっきまであんなにたくさんいた猫がすべて姿を消していて、森生もどこに行ったのか、居たはずの場所にもいなかった。気づかぬうちに周囲はすっかり暮れかけの色になっていて、見上げると細い月が空に掛かっている。クローバーを揺らして 足元を風が吹き抜けた。

「ひどいじゃない。いつ先に帰ったの?あたしを置いて」
慌てて家に帰ると、森生は日菜子の部屋の窓から暗くなった外を眺めていた.お母さんは日菜子たちが出かけていたことすら気が付いていないみたいだ。特別遅くなったつもりは無かったのに、すでに夕食の用意が出来ていた。
「ごめん、日菜子。お腹すいちゃったから ご飯、先に食べた」
相変わらず覇気のない声でお母さんが言う。引っ越し前は必ず、森生と日菜子の分を食卓に用意して一緒におしゃべりしながら食べたのに。最近お母さんは、わざと子供との食事の時間をずらしているように日菜子には思える。 森生の分の食事が気になった。
「森生も一緒に食べる?」
「僕はもういい。それ全部 日菜子ちゃんのだから」
森生は相変わらず小食な子供だ。


 上の空で学校に行き、毎日ぼんやり外を眺めながら過ごす。今日はお母さんが先に起きて朝ごはんを作ってくれていた。引っ越して来てから疲れた顔で寝てばかりだったお母さんも、少しずつだが今までの日常を取り戻している。けれど 日菜子が森生に充てた一番明るい部屋は、やはり荷物が解かれないままだし、森生の話を日菜子がするのを避けているように思える。以前からどういう訳か、お母さんは森生の声だけが聞こえない。森生も遠慮してか、お母さんに直接話しかけることはしない。それでも日菜子たち家族は、自分たちなりに楽しくやってきたはずだった。単身赴任のお父さんがたまに帰ってきて、不機嫌な顔を見せる時以外は。
「お母さん、森生の荷物、あたしが開けるよ。どのダンボール?」
台所に立つお母さんの後ろ姿に向かって、日菜子はなるべく明るい調子で声を掛けたが 返事が無い。
「お母さんってば、もう。森生だっておもちゃとか色々出さないと困るって…」
森生の荷物を探して次々と開けてみる。衣服、おもちゃ、ちょっと早いけど、と日菜子が昨年のうちに選んだランドセルもどこかにあるはずだ。お母さんと日菜子が勝手に買ったのを知ってお父さんは酷く怒ったけれど。
「お母さん、森生の荷物はどれ?どのダンボールも違うんだけど」
お皿を洗っているお母さんの手が止まる。蛇口から勢いよく流れる水はそのままなのに、お母さんの時間だけが止まったみたいだ。
「お母さん?」
静かな台所に水の流れる音だけが続く。

「……日菜子ちゃん」
怯えたような森生の声が聞こえる。
「ほら、お母さん 森生がね、」
お母さんは黙ったままだ。
「日菜子ちゃん。僕はいいから……」
──いい、って何よ。
日菜子が振り向くと同時に森生が玄関の方に走って出ていった。
「森生?」
追おうとする日菜子を、お母さんが何か叫びながら止めようとした。お母さんが何を言っているのか日菜子には解らない。まるで違う国の意味の解らない言葉のようだった。後ろを振り向かず、日菜子は森生の後を追った。

「森生?森生どこ?」
森生の行先は『秘密の花園』に決まっている。入口は板でちゃんと塞がっていたけれど日菜子は確信を持って中に入った。
「森生、いるんでしょ?」
草を分け入って前と同じように奥に進む。昨日から急に暖かくなったせいか、あちこちに水仙の花が揺れ、名前を知らない小さな花がたくさん咲いている。風が吹いてざざっという音がして、早咲きの桜の花びらが舞い散った。足元のクローバーも白い花を一斉に咲かせている。立ち止まり日菜子がぐるりと周りを見ると 草の葉の間や木の根元や石の上に、何匹もの猫がいて、じっとこちらを窺っていた。
「森生?」
猫たちを脅かさないようにそっと先に進むと、この間は廃屋にしか見えなかった建物の前に人影が見えた。

「おや珍しい、女の子だ」
隠れる間もなかった。そこに居たのは、小柄な白髪のお婆さんだ。物語に出てくる魔法使いみたいに深いしわの刻まれた顔、骨ばった細い指。
「えっと、あの……すみません。お、弟を探しているんです。ここ、入り込んじゃったかな、と思って。ま、間違って」
「弟を探しに、ね。本当に子どもってのは 言い訳がうまい」
「言い訳なんかじゃないです。それに ここ、誰か住んでいる家なんて思ってなくて」
「ふふ、そういうのを『言い訳』っていうの。覚えておきなさい、お嬢ちゃん」
言い返す言葉も見つからない。
「で、その弟くんは?」
日菜子が慌てて辺りを探すと近くの草陰に隠れている森生が目に入った。
「まあ 丁度いいわ。勝手に入ってきて悪いと思うんなら、ちょっと手伝ってちょうだい。今 庭の手入れと、種まきをするところ」
─『秘密の花園』じゃなくって『ヘンゼルとグレーテル』だね。日菜子ちゃん。
指示された場所の雑草を抜いていたら 後ろに隠れたままの森生が日菜子にそっと耳打ちをする。
「でも、『悪い魔女』って感じじゃないね」
確かに口調はきつかったけれど、お婆さんの皺の奥に引っ込んだ細い目はずっと笑っていて 全然怖くはなかった。触ると、土はふっくら柔らかく気持ちが良い。根っこが意外に繋がっていて抜きにくい草もあれば、触れただけで花がぽろりと落ちるものもあり ひとつひとつが日菜子にとって発見だった。
「そんなに何でもかんでも雑に抜くもんじゃないよ。せっかく花をつけた小さいものへの思いやりっていうのが必要なんだから」
それはカラスノエンドウ、そっちはハルタデ……お婆さんは小さな花々の名前を日菜子に教えながら 自分はかなり大雑把な感じで作物の種を蒔く。お婆さんの言うとおりに日菜子は枯れた枝葉や茎を切り、色褪せた花を摘み取った。
 花がなくたって冬には冬の、枯れ草には枯れ草の良さがある、雪や霜の冬の庭を飾るため理由があって残しているものもあるのだ、とお婆さんは言った。
「草花自身も、自分の傷ついたところや弱っているところを何とか治そうと頑張ってしまうからね。これから生きて、育つところを手助けして、伸ばしてやらないといけない」
倒れかけた茎に添え木をしながら言い、お婆さんは日菜子の目をじっと見る。よく解らないけれど、日菜子はなんだか別のことを自分に向けて言われている気がした。森生はいつの間にか離れたところでちゃっかり猫と遊んでいる。
「えっと……ここにずっと住んでいるんですか?人の出入りする様子がなかったから 私……」
手を止めないようにしながら日菜子がおずおずと聞くと お婆さんは土を均しながら背中を見せたままで答えた。
「ずうっと居るよ。たまには人も来る。以前にはあんた位の女の子が二人、よく来たっけ。ここが気に入って、庭の手入れを手伝ってくれた。そのあとは 悪ガキたちが入って来ては『冒険ごっこ』とか言って遊んでた」
「女の子が二人?」
「そうそう、私のことを『花園さん』『花園さん』って呼んで……」


 土いじりや草抜きは思った以上に楽しくて、日菜子が夢中になっているうちに森生はまた勝手に帰ってしまっていた。翌日、日菜子は帰り道で後ろを歩いている越谷に声を掛けた。
「今も人が住んでいるなんて言わなかったじゃない。昔 怒られたことがあるとかは言てったけど」
「今も?」
越谷がきょとんとした顔をして立ち止まる。
「あそこに?ひとが?」
森生のことを言った時と同じように 越谷はまた、言葉を区切って繰り返す。
「お婆さん。小柄で白髪の。お婆さんの言ってた『冒険ごっこに来た悪ガキ』ってあんたなんでしょ?」
日菜子が言うと越谷は、口を開けた笑い顔のまま固まった。その後ゆるゆると驚いているような笑っているような奇妙な表情になって、日菜子の顔をしげしげと見る。何なんだ、と日菜子が少しむっとしていると
「やっぱ、お前 すごいわ。思ってたとおりや」
そう言って日菜子の両手を取ると、その手を上下に振り回した。越谷のランドセルに付いた幾つものキャラクターのキーホルダーがカチャカチャと音を立てて揺れた。

 家の鍵を忘れた。学校から帰ってチャイムを鳴らしてもノックしてもお母さんは出てくれない。買い物にでも行ったのかなと、日菜子が階段の下で座って待っていると 越谷が帰って来た。
「何や。家、入られへんのか?」
うん、と頷くと、越谷は「うちで待つか?」と言った。雨がぱらぱらと降ってきていた。今日は風も少し冷たい。引っ張られるまま日菜子は越谷の家の玄関まで行くと、森生と同じくらいの歳の弟が大はしゃぎで日菜子を出迎えてくれた。同じ間取りの家とは思えないくらい感じが違う。いかにも男の子の兄弟のいる家といった様子が、出しっぱなしのおもちゃやゲーム、壁に貼られた絵や、インテリアの色使いからも感じられた。
「おやおや あんたが女の子連れて来るなんてね」
越谷のお母さんは「まあ、どうぞ、遠慮なく」とか 「汚いところでびっくりしたでしょう」とか立て続けに言いながら床に散らばったものをぽんぽんと部屋の隅に追いやり、日菜子を奥に招き入れてくれた。

「お母さんは……どんな様子?」
ことん、と大ぶりのマグカップ日菜子の前に置いて越谷のおばさんが遠慮がちに聞いた。温かい紅茶の良い香りがする。家に連れてきたのは越谷なのに、本人は弟と奥の部屋で遊び始めている。
「実はね、おばさん、ずっとあなたとお話したかったのよ。馬鹿息子、よくぞ連れてきてくれた、と思って」
おばさんは日菜子の思ってもいなかった事を告げ、古いアルバムを本棚から取り出した。中のページを開いて日菜子の前に差し出す。
「これ、誰かわかる?」
女の子が二人、花いっぱいの庭で手を繋いで満面の笑顔を見せている。家にもこんな感じの写真があったことを日菜子はふっと思い出す。
「解る?こっちが吉崎由紀子ちゃん。こっちが私」
おばさんが指さしながら言うその名前は 日菜子のお母さんのものだ。
「ここはね、私たちの大好きだった場所『花園さんの庭』。素敵でしょ?」
薔薇のアーチと煉瓦の小道を見て、日菜子もそこがあの『秘密の花園』だと解る。けれど自然な美しさを生かすように配された、大小、色とりどりの花や様々な形の草の葉は、少女たちの笑顔と同じ、伸びやかで煌めくような「生命」を感じさせた。
「『吉崎です』って、あいさつに来た時はすぐには解らなかったけれど 後で気が付いたの。まさか本当に同じハイツに住むなんて思ってもみなかったもの。すごい偶然」
「由紀子ちゃん」は森生の目と同じ、二重の大きな目で 雰囲気も良く似ている。そういえば引っ越し先を探す時、お母さんが「一番いい思い出のある土地にしたい」と言っていたのを思い出した。お母さんは転勤の多い家の子で、田舎というものが無い。両親もすでに亡くなっていて、帰ることのできる実家もなかった。 転校が決まった時、二人で大泣きしながら「大人になったら近くに住もうね」、そう約束したのだ、とおばさんは言った。
「お母さんはおばさんに気がついていたんですか?」
日菜子が尋ねると、ううん、とおばさんは首を横に振った。
「嬉しくなってね、訪ねて行って驚かせちゃった。でも、喜んでくれて……色々話せて良かった。少しは元気が出たみたい?」
──あの頃は私なんかよりずっと元気で明るい子だったのよ。
おばさんは自分のカップに紅茶をつぎ足しながらそう言って微笑むと、日菜子の顔をまっすぐに見た。心の奥を覗き込むみたいに見つめられて日菜子は慌てて目を逸らした。
越谷と弟が戦隊ごっこを始めた。二人がじゃれ合っている声と笑い声が家の中に響く。日菜子がぼんやりと二人の様子を見ていると、越谷のおばさんはふうっと息をついてから静かに言葉を繋いだ。
「弟さん……森生くんっていうのよね」
よその人と森生の話をするのは避けてきた。お母さんはおばさんにもう話したのだ。意外だった。

 幼稚園の時 家に友達を呼んで、その後その子と喧嘩になった。
──日菜子ちゃんち、赤ちゃんなんていないじゃない。
森生の話をどんなにしても嘘つき扱いされ、日菜子ちゃんの家って変だと言いふらされた。
──弟なんていないのにベビーベッド置いて、赤ちゃんのおもちゃ並べて。
森生はずっとそばにいて、可愛い声をあげ、あの子に向かって笑いかけていたのに……日菜子は泣いてお母さんに訴えた。森生のものを勝手に触るのを咎めたから気を悪くしただけだと、悔し泣きする日菜子をお母さんは慰めた。大丈夫、きっと仲直りできるよ、と。けれどそれから日菜子は一度も人を家に呼ばず、友達を作るのをやめた。森生の方が大事だ。森生がいればいい。日菜子は自分にそう言い聞かせた。
 おばさんがお母さんの古い友達だったことも、うちのことを結構詳しく話していることも解ったけれど、やはり日菜子はどうしても森生の話をする気にはなれなかった。紅茶のお礼を言って話を切り上げ 日菜子は逃げるように家に帰った。

 日菜子が帰るとお母さんが森生の部屋を片付けていた。一生懸命になりすぎて、チャイムもノックも聞こえていなかったらしい。置きっぱなしだったダンボールの中身は必要なものを出して整理され、後は押し入れにきちんと仕舞われている。部屋はすっかり綺麗になっていた。
「森生のものは?」
片付きすぎて何もないくらいの部屋を見て、日菜子が聞くと、お母さんはいつになくしっかりとした声で言った。
「日菜子、ちょっと話がしたいの」
「何?越谷のお母さんと友達だったことなら聞いたよ。さっきまで越谷の家、寄せてもらってた」
お母さんは少しだけ驚いた顔をして日菜子を見、そうなんだ、と小さくつぶやいて微笑んだ。眩しそうな目をして見上げる窓越しの空には 夕焼けが広がっている。
「あなたに友達ができて良かった。母さんね、ずっと考えていたの。ここ、座って」
きっとお母さんは森生のことを言う。予感はあった。
「こんな風なったの、母さんが悪いと思ってる」
「なんの話?」
「日菜子はずっと『森生は居るよ』って言ってくれた。母さんね、ずっと日菜子の気持ちを考えているつもりで日菜子と同じにしてきた。でも それって母さんが日菜子に甘えていたんだと思う」

 お産の予定より何か月も前からお母さんは入院した。日菜子が三歳のころだ。留守番のお父さんと日菜子は赤ちゃんを迎える準備をして待った。今日は何を買った、何を用意した、そんな話がお母さんを笑顔にしたからだ。一緒に名前も考えた。「森生」は日菜子が一番気に入った名前だ。丸い大きなお母さんのお腹に向かって日菜子は「森生、森生」「早く一緒に遊ぼうね」と呼びかけた。──森生、森生、あたしの弟。 生まれてくるのをどんなに楽しみに待ったことだろう。

 予定日より早く、お母さんが沈んだ顔で退院してきても、ずっと泣いてばかりいても、日菜子には理由が理解できなかった。だってその日、ベビーベッドには可愛い赤ちゃんの森生が「居る」のを日菜子はちゃんと見つけたのだから。日菜子にとっては森生が「居る」ことが自然だったのだ。その日から日菜子はずっと、森生と共に育ってきたのだ。
「お母さん、森生にミルクあげよう。泣いているよ。」
「お母さん、森生、笑ったよ。可愛いね。」
お座りした、はいはいした、立った。もうそろそろミルクじゃなく、離乳食にしよう。一緒に食卓でご飯を食べよう。近所の同じくらいの赤ちゃんが育つ様子と同じに、日菜子の見ている「森生」もすくすくと育っていった。めったに外に出ないのも、幼稚園に行かないのも、「身体が弱いから」だ。用意した森生のご飯がそんなに減らないのは、極端に小食だからだ。朝、日菜子が用意してあげたお洋服が汚れないのは、森生がとてもお行儀が良くて大人しい子だからだ。
 森生の声がお母さんに届かないことは不思議だったけれど、それでも問題無い。森生の言葉はあたしが伝えるから。それで日菜子は自分を納得させた。
「日菜子、ごめんなさい、本当は日菜子だって解っていたのよね?母さん、ずっと森生が見えているふりをしていた。お父さんに聞かれたわ。それは日菜子のためか、それとも自分のためかって」
日菜子とお母さんの様子、増えていく森生の洋服やおもちゃを 食卓に並んだ森生の食事や洗濯竿に揺れる森生の衣類を、単身赴任から帰るたび父は苦しそうな顔で見ていた。
「父さんと一緒に三人でやり直したいと思ったけれど それも無理だった。でも、いい機会だと思ったの。日菜子とふたり、新しい場所できっぱりと『森生を失くした』家族になろうって。」
森生の声が聞こえない。今 森生はどこにいるのだろう。傷ついて泣いてやしないだろうか。僕は居る、僕は居るのに……日菜子は混乱して、ぎゅっと目をつぶり耳をふさいだ。
「酷い」
酷いよ。ずっと見えていなかったなんて、「ふり」をしていたなんて、どうしてお母さんが今、そんなことを言うんだ。森生は居るんだ。森生は居るじゃないか。日菜子は泣きながら家を飛び出して走った。

 家から走りだすところを越谷に見られた。
「おい、どうしたん?」
腕を掴まれて振りほどく。逃げ込む先は 日菜子にはそこしかなかった。無性にあのお婆さんに会いたかった。フェンスの穴をくぐり、草をかき分けて奥へ進む。日が陰って空はもう薄闇が広がっていた。怖いとは思わなかったがこの間の荒れてはいてもどこか温かい「花園」の雰囲気は影を潜め、猫一匹いない寂しい庭が広がっていた。家に近づいてみたが人の気配はなく、崩れかけた建物はどう見ても人が住める様子ではない。この間自分が草抜きして整えたあたりだけが柔らかな土の上に小さな花が揺れ、あの時間の痕跡を残していた。呆然と立つ日菜子の後ろから、追ってきた越谷が 「大丈夫か?」と声を掛けてきた。

「なあ、吉崎、お前、この間『お婆さんに会った』って言ったやろ?」
「うん」
「婆さんな、ずっと前にここで倒れてた。ちょうど、この辺りかな。見つかった時はもう遅くてな」
「もう遅いって……」
「ひとりで野菜とか育てて、ほとんど引きこもって暮らしてた。うちの母さんは、小さい頃友達とよく遊びに行って世話になったとかで、時々様子を見に来てた。けど、俺らの遊びの中でここは、『魔界の森』で、婆さんは『森に潜む妖怪』やった。あの婆さんは猫食って暮らしてるんや、
とか嘘で噂した。後で母さんにはめっちゃ怒られたけど」
越谷は両手をポケットに手を入れたままぐるりと周囲を見回し、隅々にいくつもある小さな朽ちかけた墓標を指し示した。そしてお婆さんが沢山の野良猫達に餌をやって世話していたこと、寿命や病気で順に死ぬのを見送っては丁寧に弔っていたこと、こまめに花を供えて祈っていたことを ぽつりぽつりと教えてくれた。
「何で、どんな人が住んでたのかお前に解ったんかな、と思った。『森生』の話もお前んち訪ねた母さんから大体は聞いた。母さんたちがどう思っているかは知らん。だけど俺はな、お前が本当に『見えるやつ』やと思ったんや。婆さんも『森生』も本当に居るって」
鳥のさえずりがひときわ大きくなった。ここを寝床にしている鳥たちが帰ってきたのかも知れない。
「ううん、そうじゃない。」
日菜子の口から掠れて小さな声が漏れた。
「え?」
森生は居ない。呼んでも来ない。もう来ないかもしれない。
──森生を失くした家族になろう。
お母さんの言葉が頭の中でぐるぐると繰り返し、日菜子は何を信じていいのか解らなくなる。足元がぐらついた。
「きっと、本当はそんなんじゃない。私、聞いてた。お父さんがお母さんに言うの。ひなこはひどいうそつきか、でなければびょうきだ。おまえがそれをじょちょうしてるんだ。いいかげんにしてくれ、もうやめてくれ……って。」
森生は居ない。花園さんも居ない。どこにも居ない。それが本当なんだ。喉のあたりが熱い。しゃくりあげて言葉が途切れ、最後は声にならなかった。
「よく、解んないけど……落ち着けって吉崎」
「退院してくるまでの間、お母さんのアルバム、あたし、何度も何度も見てた。赤ちゃんから今の森生くらいまでの。森生はお母さんそのまんま。花園さんのことだって……きっと、お母さんの思い出話で聞いてたんだと思う。『秘密の花園』のお話と一緒に。だから……」
立っているのが辛くなって 日菜子はしゃがみ込む。遠くから「ひなこーぉ」と叫ぶ声が聞こえた。──ひなこーぉ、ひなー、ひなちゃーん。お母さんが日菜子を探している。
「ひなこちゃ─ん」
越谷のおばさんの声がした。 二人の声が一旦近づいて、遠ざかる。越谷がくるりと向きを変え、出口に急ぐ。
「俺、お前の母さんに ここにおるって言ってくる」

「うそつきでびょうき」の日菜子、それが本当の自分だ。もう、本当に「生きるのがいや」になりそうだ。今すぐ消えてなくなりたい……日菜子が思った時、行きかけた越谷のシルエットが立ち止まり、もう一度振り返って叫んだ。
「なぁ、花園の婆さんに伝えてくれ。色々ごめん、って」
「越谷、あんた、いったい何を聞いてたの。だからあたしは……って」
「俺はお前のこと信じる。見えなくたって 聞こえなくたって、『絶対居ない』なんて誰にも言えん」

 お母さんと越谷のおばさんが越谷に連れられて中に入ってきたのは すっかり暗くなってからだった。お母さんは何も言わずに日菜子を抱きしめて「家に帰ろう」とだけ言った。越谷のおばさんも黙ったまま後ろから日菜子の肩を抱き、もう一方の手で越谷の頭をくしゃりと撫ぜた。力なく項垂れ、お母さんに手を引かれてハイツの前まで来ると別れ際に、今度お天気の日あの庭にお花見に行こうと、おばさんが提案した。ずっと無言で俯いている日菜子に「必ずよ」と念を押し、おばさんは日菜子と越谷の手を取って約束の指切りをさせた。


 春休みに入ってから毎日雨が続き やっと晴れた日に日菜子たちは約束を果たした。お母さんと越谷のおばさんは懐かしそうに辺りを見回しながら、あちこちで立ち止まる。日当たりのいい川沿いの斜面には遠くまで菜の花が揺れていた。「日菜子」の名前はこんな風景を思って付けたのだ、とお母さんが言った。温かくて優しくて懐かしい風景。そして庭に入るとお母さんは、ここに自分が花を植えたこと、この木に美味しい実がついて、花園さんがジャムを作り、一緒にケーキを焼いて食べたこと、かくれんぼをしたこと、花火をしたこと、焼き芋を焼いて食べたことを話した。訪れる様々な鳥の名前、小さな草花の名前、花園さんに教えてもらったことは数えきれない。思い出話をしているお母さんの顔は 久しぶりに明るく輝いて見える。この場所のすべてがお母さんに以前の元気を取り戻そうとしてくれているみたいだ。

お婆さんが倒れた場所に花を供え、猫の墓標一つ一つにも摘んだ花で花飾りを作って掛けて回った。
「倒れたその日、訪ねて行かなかったことを、ずっと後悔していたの。ごめんなさい花園さん」
おばさんがそう言って肩を落とすと、お母さんが寄り添って背中をそっとさすった。
同じハイツに住むことになったのも偶然じゃなくて、二人とも花園さんと過ごした時期の思い出が一番だったからだと日菜子は思う。きっと花園さんが二人を引き寄せた。手を繋ぐ二人に入学式の写真の小さな女の子たちの姿が被って見えた。

 小声で越谷が日菜子に聞く。
「花園の婆さん、近くに居る?森生も連れて来てるん?」
日菜子は力なく首を横に振るしかない。あの日 家に帰ってからずっと、森生の姿がぼんやりと見えてはすぐに消えてしまう。「森生」と呼んでも返事が無い。たまに日菜子を呼ぶ声が聞こえた気がしても、その先を聞き取ることができない。やっぱり森生は居ないんだ、そう思うしかなかった。

 ピクニックシートを広げ、一番大きな桜の木の下でお弁当を広げた後、越谷のおばさんが提案した。
「ねえ、今日は一日、ここを綺麗にしよう。花園さんがいた時みたいに」
──『そんなに何でもかんでも雑に抜くもんじゃないよ。せっかく花をつけた小さいものへの思いやりっていうのが必要なんだから。』
──そうそう、いつも言われたよね。『これから生きて育つところを助けて、伸ばしてやらなきゃ』って。 『花がなくたって冬には冬の、枯れ草には枯れ草の良さがある』ってね。
お母さんとおばさんが懐かしそうに言い合いながら庭を整えていく。倒れたフラワーポットを立て直し、煉瓦の泥を払う。アーチのつる薔薇をちゃんと整えてやり、鳥の水飲み場の苔や泥を綺麗にした。花園さんが教えてくれた歌や遊びの話、花輪や花冠の作り方、花の中で歌いながら踊ったこと、三人だけの合言葉、その頃いた猫たちの名前。思い出が溢れ出して尽きることが無い。

 越谷が弟を追いかけて走り回る。日菜子はシートに寝転がって目をつぶった。
──日菜子ちゃん。日菜子ちゃん。気持ちのいい日だね。
──嬢ちゃん、ごろごろしてないで 母さんたちを手伝いな。
二人の声がしたような気がして目を開けると、茶トラの子猫が鼻先を近づけて日菜子の顔を覗き込んでいた。少し離れた葉陰でサビ色の猫がこちらをじっと見ていた。

帰り道、日菜子は越谷に告げた。
「『悪ガキに言っときな。妖怪ごっこも嫌いじゃなかったって』って花園さんの声が聞こえた気がした」
「そっか」
越谷がほっとしたようなくしゃくしゃな顔をして笑う。
「でも、そんなのも嘘かもしれないんだよ。あたしの勝手な、都合のいい作り話かも」
日菜子が自信なく付け加えると、越谷は
「俺は信じる、って言うたやん」
と答え、そしてとびっきりの笑顔になって「伝えてくれて、ありがとな」と言った。

──日菜子ちゃーん、日菜子ちゃーん。
勝手に溢れてくる涙を拭いながら日菜子が振り向くと、夕焼けを映してきらきら光る川の前に森生が居た。花園さんと並んで日菜子に手を振っている。
森生だ、森生が呼んでいる。走って戻ろうとする日菜子を越谷が引き留めた。
「あそこに森生が居るの。花園さんも一緒だ」
行かせてよ、森生が居るんだから……越谷の力は思った以上に強くて振り切ることができない。
──とっとと帰りなー。親を心配させるもんじゃないよー
花園さんの声が笑っている。
──日菜子ちゃん、安心して。僕、もう怖いことなんてない。日菜子ちゃんがずっと一緒に居なくても大丈夫。帰ってあげて、お母さんのところ。

森生が言った。言ったような気がした。





《 早春、花園幻想曲 了 》





【 あとがき 】
子供を語り手にして一人称で書くと、その子の年齢での語彙がネックになります。何気なく5、6年生のちょっとませた考え方の子くらいのイメージで(=作者自身の普通の語彙で)一人称で書いていたのですが 色々状況を考えて、年齢を下げました。(=お母さん目線の都合)
となると、今度はことば選びまで見直さないといけない。回想にしたら語り手の年齢は上がるけど、「その後」をにおわせないといけなくなり、それはここでは書く気が全くなかったので却下。……というような悩みを何とか「調整」しての投稿です。


エツヤくんが何であえて関西弁なのかと読みづらい方もおられるかもしれませんが、最後の方の彼のいくつかの台詞がどうしても標準語ではしっくりこず、こういうことになりました。読まれる時はコテコテなイントネーションで無くてもかまいません。「適度にソフトな関西弁発音で」っていうのが 却ってわかりにくいかなー。すみませんがそういうことでよろしくお願いします。

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すずはら なずな

すずはら なずな

どれも短いお話ですが 
一つでも心に残ったら嬉しいな。

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