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STAND BY ME

生きることにちょっと 不器用な子どもたち、もと子どもたちの 短いお話を 綴っています

パッチワーク (さかなの目 7)

クリスマスが近づくとあの人たちを出そうとかこんな話にしようとか過去作引っ張り出す傾向があるのですが、今回は自分でも予想外の人たちが予想外の展開のクリスマスを迎えてしまいました。
何であいつが死なないといけないんだ、と泣くひとに「ひとは皆死にます」と医者が静かに言うのは萩尾望都の「アメリカンパイ」だったと記憶します。そうだよな、と思う今日この頃。笑って思い出してもらえる人になりたいななどと 思います。(まだまだ生きてるつもりだけどね)

「さかなの目 その7」に当たります。一応 独立しても読めるはずだと思いますが、キャラが解りづらいかもしれません。気になる方がもしいらしたらhttp://nazunashortstories.blog12.fc2.com/blog-category-22.htmlにどうぞ。


第75回 Mistery Circle 参加作品
お題
●「そんな強引で姑息な手段ではちっとも気が晴れなかった。」で始まり

●「みんなざわざわ言いながら、私の方を見た。私も驚いたけど、みんなも驚いた。」で締めくくること

お題出典
「 幸福な食卓 」 講談社文庫 著:瀬尾まいこ 

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 ──姑息な手を色々使った。だけど 何をやってもちっとも気が晴れなかった。
だってあの人はいつも笑って冗談にして、逆に面白がって、全然慌てたり焦ったり、怒ったりしなかったもの。

 ファミレスのつるりとしたオレンジ色の椅子。店の入り口には大きなツリー、窓には電飾。軽やかに流れるBGMもクリスマス関連の洋楽だ。弾むような足取りでオーダーを取りに来た店員が、笑顔をほんの僅かに引っ込める。地味な黒いワンピースの私と、金髪ピアス、レザージャケットの男性は明らかに周囲から浮いていた。店内は子供連れの家族の笑い声とカップルの語らい、交わされる親密な微笑みに満ちている。

──姑息…ね。たとえばどんな?
向いの相手は好奇心いっぱいの子供のような目をして身を乗り出す。席についてから「クリスマス限定おすすめランチセット」のメニューを逐一読み上げ、周りの客を観察しては、その関係や今している会話を勝手に想像して披露し、そうかと思ったら突然黙って格好つけて窓の外を眺める。ちらほら降り始めた雪に気づき「おっ、雪」「ほら、雪だよ、ほらほら」とはしゃぐ。本来の待ち合わせの相手がまだ来ていないし私は食事をする気は無いのだと言っても、お腹が空いたからと、自分だけランチをオーダーした。
──聞きたいですか?
──聞きたいね、ぜひ。
後ろの席の客が、立ち上がろうと椅子を引く。隣の席に置いた黒いトートバックに思わず手を添えた。久しぶりに開けた実家のクローゼットの奥で見つけた学生時代の鞄だ。この中に「あの人」が居る。
*
 あの人がうちの家族に入り込んで来たのは 突然だった。私は小学生で妹はまだ保育園。早くに父を亡くし、まさに「女手一つ」で母は祖父の代からの小さな酒屋を営み、私たちを育てていた。ふらりとやって来たあの人が、重いビールのケースを荷台に積む母を手伝った、それがきっかけだと聞いた。
父が亡くなったのは私が三歳の時だ。覚えているのは 大きな手、安心する温かい背中。でも、それも「お父さん」という言葉のイメージから作り出した後付けの「記憶」なのかもしれない。確かなのは葬儀の日、黒い服を着た大勢の知らない大人たちの重苦しい雰囲気が恐ろしくてただ、早く終わればいいと思い続けていたことだけだ。日常に戻って、母が以前と同じように仕事を続け、私たちに笑顔を見せるようになってどれほどほっとしたことか。母にとっては「以前と同じ」などではあり得なかったのだと、あの頃の母に近い年齢になった今 思う。
*
 鞄の中の「あの人」を、実の娘さんに託す約束を果たすため久しぶりに実家に戻っていた。着て来た服も持ってきた着替えも今日の気持ちにどうもしっくりこなくて、迷った末にこのワンピースを選んだ。古びた店の正面の硝子戸が「家の玄関」だ。ひっそりと自分たちだけで葬儀を済ませたせいで、買い物客だけでなく商店街の面々が線香をあげに、そして母を励ましに度々尋ねて来る。その色ガラスのドアに手を掛けた時、向こうに人影を認めた。どきりとしたのはその人の髪の色や服装のせいでは無い。どこが似ているわけでもなのに、一瞬あの人がそこに居るように思ってしまったからだ。歳はあの人よりずっと下だろう、むしろ私の方が近いかもしれない。ドアを開けると訪問者は私の前に進み出、満面の笑顔を私に向けて、あの人に会いに来たのだと言った。
「店を持てたら 一番に招待する約束をしてたんで。忘れてるかもしれないけどね」
そう言って差し出されたのは一駅先に新しく開店した美容室のチラシと、お洒落な名刺だった。
あの人は残念なことにもう居ないのだということを告げると彼は心底驚いた様子を見せ、会いに来るのが遅かったことを 何度も繰り返し私に謝る。今 出かけるところだと言うと、理由を問われ、ぽつりぽつりと話しながら歩くうち一緒にここまで来てしまったのだった。

*
──あの人の距離感というものに馴染めなかったんです。自分が原因で「目下 家出中」、もう帰り辛い立場だと、隠すことなく言っていました。そのくせに、美人でしっかり者の奥さんとの間に高校生の娘が一人いて、その子が実に可愛いんだとかなんとか、悪びれる様子もない。下らない駄洒落やお笑いタレントの真似を連発しては幼い妹を笑わせる。絶対に笑うもんかと険しい表情を崩さない私の顔をちらと見て妹は、いつも慌てて私の方に逃げて来ます。けれど、家に「面白いおじさん」が居ることを妹は本当は喜んでいました。保育園の送り迎えで見かける「男親」というものが、ずっと羨ましかったのでしょうね。

 住み込みの従業員。長い期間、ずっと母はあの人をそう扱った。それは嘘でも誤魔化しでもない。以前は人を雇っていて、そのための部屋もあったし、父を亡くし、傷めた腰を庇いながら一人で仕事を続ける母にとって、それは不自然なことではなかったと思う。生真面目で一生懸命で強くて優しい母、そして亡くなった父のことが大好きな母。だから本当は、商店街の人たちの好奇心が見え隠れする「心配」など、気にも留めなくて良かったのだ。それでも私が嫌だったのは あの人が、ずんずん我が家に馴染んで、いつか「特別な一人」になりそうな予感がしたからだ。
「妹はあの人を『おとーたん』って呼びだしたんです」
「『お父たん』?」
「いえ、『おとーたん』。あの人は『とおる』さんだから、『とーたん』。……で、」
「『お』をつけて『おとーたん』」
相手は男の人にしては細くて綺麗な人差指をこちらに向けながらそういうと、可笑しくて仕方がない、という風に笑った。もともと笑い上戸な人のか、身体を折り曲げて笑い続ける。
「なるほどね。妹さんには名前を含めて、気に入られたみたいだね」
「抱っこにおんぶ、肩車。手遊び かくれんぼ、鬼ごっこ 妹がせがめば何でもしてくれる。もともと女の子のお父さんだということも聞いていたし、よく聞く危ない性癖の人では無いことはなんとなく信じられた。だけど、」
「姑息な意地悪をやめられなかった?」
「そう、それも結構長い間」
 あの人の靴の左右の靴ひもを合わせて固く結んだり、お茶碗を隠したり、帰って来た時わざと気づかないふりして鍵を開けなかったり……妹には小さな悪戯に見える範囲での嫌がらせを次々と考えた。そう、そんな自分でも『悪意』というものをまだ、幼い妹には教えたくなかったのだと思う。
思い出した順に自分のした意地悪を数え上げると、向かいの席の相手は一つ一つに声をたてて笑った。
「なるほど。それから何にも気にしてない風だった『おとーたん』が君の家を出て、『通いの従業員』になって、その間、実は僕と暮らしてた、という訳だ。家出先からの家出?」

 最初は娘さんの居る家に帰ったのだと思った。自分で驚くほど焦った。あの人のハイテンションなお喋りや調子っぱずれの鼻歌が聞こえない夜の時間が こんなに静かで不安なものとは思わなかったのだ。今まで当たり前だった生活に あの人はそこまで入り込んでいたことに気が付く。何より、夜、潜り込んだ布団の中から聞こえる妹の泣き声が胸に刺さる。いつか来なくなるのではないかと心配したが、何事もなかったかのように日中は母と一緒に仕事をして帰って行く。黙って見送る母の気持ちは解らない。ある日、後をつけて、あの人が戻る場所が奥さんと娘さんの居る家ではないことを知り、そして、そのことに安心した自分にまた、落ち込んだ。ちゃんと謝れたわけではないけれど、妹が寂しがって困るということを告げて、居ないと逆に迷惑だと口を尖らせて文句を言う私のことを あの人は盛大に笑った。間をおいてやっとあの人は戻って来てくれたけれど、その間に奥さんときちんと離婚したということを知ったのはずっと後のことだ。
「確かにいきなり人のテリトリーに入り込んで来る人だよね、いい歳して、お調子者で図々しくて、ガキみたいで、ほんと、迷惑で」
当たっている、どこまでも当たっている。でも今ここに「居る」人を悪く言うのは躊躇われる。私は手元に置いた鞄の開いた口から覗く小さな包みを思わず左の手で触った。その様子を見て、私の思ったことを見抜いたように相手も加えて言う。可笑しくて仕方がないという表情で。
「だけど、全然 嫌いになんかなれなかった、そうじゃない?君だって」

*
 駐車場に軽自動車が止まり、私より少し年上の女性が下りるのが見えた。今日 ここで会う約束をしたのは あの人の実の娘、千波さんだ。妹が「おとーたん」にすっかり懐き、あの調子のよいフレンドリーさを振りまき続けた結果、商店街の皆からもやっと仲間として認められたころのある日、初めて彼女に会った。本当の、帰るべき「家庭」があり、自慢の可愛い、血のつながった「娘」がいることは常に私の頭の中にあったはずだったのに、店の前でぼんやり佇んでいた彼女を見た時は心臓がきゅっと苦しくなったのを忘れない。
ドアを開けて入って来て店内を見回し、千波さんが私に気づく。でも、向いに座る見知らぬ男性を認めて、少しだけ戸惑った様子になった。私が手を挙げて彼女の名を呼んだ。
「こちらは?」
運ばれて来た水に口をつけながら、千波さんが私に聞いた。彼が答える。
「初めまして。『自慢の娘の千波さん』にずっと会ってみたくて、今日は強引に付いて来ました」
「すみません。うちに訪ねて来られたんですけれど、丁度出かけるところだったので……」
「父のお知り合い、ですか」
「一年近く一緒に暮らしました。丁度こちらのお宅から追い出された時に、上手いこと拾わされて」
悪戯な目つきで私を見て彼は言う。
「何だかこの人に姑息な手を駆使していびり出されたらしいですよ。ああ、ご存知ですよね」
「いえ、それほどは詳しくないんです。父のこと」
「でも、ずっと想ってた。そして彼、とおるさんもあなたのこと、とても」
千波さんは苦笑いしながら首を横に振る。
「本当にそんなに想っているなら、ちゃんと帰って来るもんだと思います」
千波さんと喋るといつも、言葉の棘が私たち家族に向かないよう気を使っているのが解る。この人はこの人で、お父さんに離れて行かれてずっと苦しい気持ちだったはずだ。
「あ、そうか。そうだよね。うん、そうだ、そうだ。本当に」
千波さんの返した言葉を受けちょっと驚いたように目を丸くした後すぐ笑顔に戻る。そして大いに納得しているという風に何度も頷きながらまた、彼は声をたてて笑う。
──あ、まただ。
私は思う。会話の合間に何だか懐かしい感じがするのはあの人と良く似た返し方をするからだ。
「貴方は、どこで?」
先に会ったのは私なのに、まだ聞けてなかったことを千波さんが聞いた。
「ああ、僕ね、そうそう。謎だよな、いきなり一緒に暮らした男とか現れて」
その言い方がまた、あの人に似ていて、思わず彼の顔を見た。同じ思いだったのか千波さんも顔を上げて彼を見た。
「やりたいことも見つけられず、大学サボってふらふらしていた時期だったな。入り浸っていたゲームセンターが初めて会った場所で。後ろからやたら覗かれてね、恥ずかしいほど大げさに応援するんだ。面白いよね、最初は何だ、うぜえおっさんだなと思ったのに、いつの間にかあのペースに引きずり込まれてた」
あの人のことだ、それだけで初対面のうんと年下の彼のところに転がり込むのも想像ついた。千波さんも同じ気持ちだったのか、くすっと笑うと
「自分のこと棚にあげて、ちゃんと先のこと考えろとか 説教したりしたんでしょ?」
「仕送り受けて暮らしていたからね。大学行ってないことも親に隠してたし」
「人の所に転がり込んで強引に住まわせて貰っているのに よく言うよね」
──ですよね、彼は少し考えるように言ったあと 皿に残った星型の人参を口に運んだ。
「だけど、あの頃、詐欺紛いのアルバイトに加担するところをギリギリで辞められた。彼がいてくれたお陰です。そして」
「ちゃんと進路を考え直した?」
千波さんが窓の外の雪を眺めながら言う。硝子に映る表情は見えない。
「お役に立てたって訳ですね。貴方の人生に」
千波さんが まだ外を見たまま 穏やかな声でそう呟き、静かな深いため息をついた。
「あの人の髪をもう一度ちゃんとカットしてあげたかったなぁ」
一緒に暮らしてる時、何度か髪を切ってあげたんですよ……彼がしんみりとした口調で続け、聞き手二人が俯くと、でも、と急に前に乗り出して片目をつぶり囁くように言った。 
「無責任に誉めて、相手をその気にさせるのは超一流な人だったよね」

周囲の席で家族連れがにぎやかに笑う声が響く。小さな子供がぐずって泣く声、それをなだめる若い母親、中高生のグループがスマホを見せ合ってはしゃぎ、老夫婦が隣のテーブルの赤ちゃんに目を細める。足元に子供の落としたスーパーボールが転がって来た。拾って、追ってきた子に渡してあげた。たどたどしい「ありがとう」。

「ずっと……」
頬杖をついたまま周囲を見ていた千波さんが、コーヒーカップを包み込むように手を添えて言う。今注いだフレッシュがゆるやかな渦を描いている。
「こんな風にファミレスでクリスマスが過ごしたかったんです、父は」
「ファミレス?」彼が聞く。
「そう、だからせめて今日はここで会うことにしたの。妙だと思ったかもしれないけれど」
千波さんが私の方に向き直って静かに微笑みながら言う。
「かなり思いつき、だったんだけどね」

「うちは誕生日もクリスマスも家ですることにしていて、食事と手作りのケーキは母が必ず用意したんです。毎年 毎年」 千波さんが言う。
「何度か『母さんも準備大変だろうし』って 気遣うみたいに言っては父は外食を提案してた。でも母は大丈夫、っていうんです。それに『母さんの手作りの方が美味しいわよね』って。言われたら私も頷くしかなくて。本当は私も少し行ってみたかったんだけれど」
うちはいつも店や配達の仕事が忙しくて家で済ませていた。おかずもケーキも買ってきたものばかりだったけれど、私たちの好物を母は食卓に並べてくれた。妹と私は折り紙や絵で部屋を飾った。あの人と一緒に住むようになってからも それはずっと一緒だった。
外の雪が本格的に降ってきた。立ち止まって傘を広げる人、寒さに寄り添うカップルがガラス越しに見える。三人とも窓の外を見ながら 少しの間沈黙が続いた。
「そういうところかな。母と父が続かなかったのは」
そう呟いた後ちょっと重くなった空気に千波さんが気づいて困った顔をした。

 突然向かいの彼が手をポンと叩くと、満面の笑顔を見せて言い出した。
「じゃあさ、今からやってあげようよ。ファミレスのクリスマス」
私と千波さんが同時に彼を見る。重い空気や沈黙を冗談を言ったり急に話をそらしたりして破ろうとするところもあの人に似ていた。
「出してあげてもいいんじゃない?その椅子空いてるし」
「自慢の娘たちと一緒なんて喜ぶよ。加えて僕。妙な取り合わせだけど、それもまた面白がってくれると思うし、ほら」
ぽんぽんと続けて言いながら彼が指し示すのは 私の鞄の中の「あの人」だ。白い布に包んだ小さな壺に入った、あの人だ。
周りは濁りの無い明るさと幸福感で満たされている。調子の良いクリスマスソングのBGMが流れ始め、向こうの席から乾杯の声が聞こえると、流石に躊躇して鞄の中を再び見た。
「あ……」
内側のポケットのファスナー少し開いていて 中に何か明るい色のものが入っているのに気が付いた。

手を差し込んで出してみる。この鞄を使っていた頃少し流行った緩いキャラクターを、一面にあしらった大判のバンダナだ。小さなヤシの木やバナナが全体にプリントされていて、その間でキャラクターがおどけたポーズで踊っている。
「それ、好きなの?」
彼がぷっと噴き出し、目を細めながら揶揄うように言う。今日の黒いワンピースには全くそぐわない持ち物だった。取り出して広げて眺めると忘れていた記憶がよみがえる。
「ちょうどこの鞄を毎日持っていたころに、貰ったんです。『これ、持って行け』って」
「『とおるさん』に?」
ええ……私が頷くと千波さんが手を差し出すので渡す。バンダナを手にして少し黙っていた千波さんが 何か楽しいことを思い出したように口元を緩めると ゆっくりとした口調で聞いた。
「その時期って もしかしたら何か落ち込んでたとか、辛いことあった?」
「え、と……あっ、ああ、失恋、だったかな。もう、遠い昔ですけれど」
「いきなり 押し付けるようにくれたんでしょ?」
そうだった。あの人が何に気づき、何を思ってくれていたかなんて考えたこともなかった。
「ちょっと驚きました。そして、こんなの要らない、趣味悪いって文句言ったけど、まあ、いいから持っとけ、持っとけって」
「ふふ、私も似たようなこと、あった気がする」
千波さんが続ける。
「学校で嫌なことが続いた時、ランドセルにつけろって、変な、きのこの形のキーホルダーをくれた」
お母さんに叱られてる時に後ろでふざけた歌を歌って邪魔をして 今度はあの人が怒られた。熱が出て寝込んでいる時におかゆを作ってくれた。梅干しと昆布とちりめんじゃこで描いた歪なスマイルマークと下手くそな「がんばれ」の文字が載っていた。
──そんなこと、僕にもあったな 
彼が記憶を手繰るように目を伏せて、そう言った。
* 
 派手な色のふざけたバンダナを被って「あの人」が奥の椅子に居る。あの人の念願叶ったファミレスでのクリスマス会は、不思議な親密さと明るさに満たされていた。結局 私と千波さんも食事を、ランチを食べ終えた彼はもう一品頼み、乾杯して、ケーキも食べた。人数より一個多めのオーダーに店員は少し首を傾げた気もするが、そんなことは気にしない。食べ物を残すとお祖母ちゃんに怒られたとあの人から何度も聞いていたので 皆で綺麗に食べ切った。

 そして予定通り、千波さんに「あの人」を託す。千波さんがあの人を納めるために、煌めくような星空色の陶器の容器を創ってくれた。皆と同じ普通の骨壺じゃなくて自分のためだけの特別な容器に入れて欲しいというあの人の願いを 以前に聞いていたのだそうだ。そうして 厳しくて優しかった千波さんのお祖母さん──あの人のお母さん、の居るお墓に、共に眠ってもらうことも決めている。
「大人しく『眠ってる』とも思えないけどね」
受け取ってぎゅっと抱きしめるように持ち、頬を寄せると、千波さんはそう言って顔をくしゃくしゃにして笑った。

駐車場にうっすらと雪が積もっている。誰からともなく足跡をわざと残すように歩く。
「今日は有難う」
千波さんが車の前で軽く頭を下げると、彼は「こちらこそ」と上着のポケットに手を入れたまま照れたような笑顔を見せた。そして身体を折り曲げるようにして、千波さんの抱いた「あの人」に手を延ばして触れると「またね、とおるさん」と声を掛けた。
ずっと笑ってばかりいたのに、涙が一粒零れると止まらなくなった。最後に何か言おうとするとしゃくり上げ のどが震え奇妙な声が出た。外で声を上げて泣くなんてあり得ないと思っていたのに自分でも驚く。通り過ぎた子供が振り返って私を見る。犬が不思議そうな顔で私を見上げる。
信号待ちで立ち止まると、舗道ぞいの店の小窓に飾られたパッチワークのタペストリーが目に入る。鮮やかな赤や緑、ツリーやサンタやプレゼントをあしらった賑やかなキルト。花柄やチェックやプリントの小さな布を繋ぎ合わせたそれを眺めていたら見飽きなくて、信号が変わったことにも気がつかなかった。
 今日だけでもたくさんの思い出の欠片を受け取った。こうやってあの人に繋がる誰かと語り合うたびにそれは増えていく。持ち寄ったあの人の思い出を繋ぎ合わせたら、どんな模様が浮かび上がるのだろう。それはカラフルで、きっと、くすっと笑えるものに違いない。
自分勝手で、面倒くさくて、お調子者で 子供みたいで、とんでもなく迷惑なひと。 今日はあの人が居た時みたいに 滅茶苦茶な鼻歌を歌いながら、スキップして家に帰ろう。


Merry Xmas、






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茉莉花の家 (さかなの目6)

第69回 Mistery Circle参加作品

もう書き切って終わったつもりだった千波とおとーさんの話ですが また出て来てしまいました。と言っても初めて読む方もいらっしゃるだろうと、少し「今までのお話」も書きこんでみました。(全部続けて読むと、若干設定が「?」なこともあるのは秘密です)。
いつから書いてるかって・・・?
確認したいキトクな方はこちらへ。
http://nazunashortstories.blog12.fc2.com/category22-1.html
http://nazunashortstories.blog12.fc2.com/category22-0.html



 引きこまれる。

 写真の束は、押し入れの奥の紙箱の中に 無造作に入れられていた。
一枚一枚並べてみると、どれも皆、寂れた場所や建物、その一部分などだ。写真の四角い枠の中、時計の針を止めて息を潜めているみたいだ。それでも目に映る以上の奥行きや広がりを感じるのはきっと、そこがただの「死んだ場所」とはどこか違うからだろう。中に入って目を凝らし耳をすませば、気づかなかった密やかな息遣いが聞こえてくるのかも知れない。
「引き込まれる」。その言葉だけは その写真を目にした瞬間千波の中に生まれて、間違いなくすとんと落ち着いたものだった。

「結局、ちっともお片付けになってないじゃない」
部屋のドアのところに立ったまま 笑いながらお母さんは言う。「お片付け」なんて子供に言うような言い回しは相変わらずだ。お母さんも身に覚えがあるのだろう。大掃除や片付け、なんて言いながら たまたま手にした懐かしいものに見入ってしまう。気づいた時は時間だけが吃驚するほど過ぎていて、結局その日は懐かしいものを見られたことに満足して、散らかしただけでみんな元に戻してしまうのだ。
でも、今回の千波の場合は少し違っていた。

「そんなところに残っていたなんてね」
そう言いながらお母さんも部屋に入って来て千波の横に座り、写真を一枚一枚手に取って見る。
「誰が撮ったの?」
「誰だと思った?」



「ここに行ってみたい。お母さん、どこだか解る?」
一番心惹かれたのは うっそうとした樹々の中の洋館の写真だ、壊れかけた鎧戸、丈高い草に覆われた蔦模様の門扉、それでも屋根の風見鶏はその日の風向きを示し、ステンドグラスの丸窓は木漏れ日を受けて輝いている。繁みをかき分けて進む小道の先は静かに光る海、そんな風景の連作だった。
千波が聞いた時、お母さんは「写真を撮ったお父さん自身」に場所を教えてもらえばいいと、拍子抜けするほど軽い調子で言った。
 千波が中学を卒業するのと同時に二人は離婚している。その後のお母さんは随分と生き生きとして、趣味に仕事に忙しく過ごしている。それまでの中途半端な父親不在の日々がお母さんを苦しめていたことを千波はその時改めて気づかされたのだ。自分のために結論を先延ばしにさせたと、その頃は随分申し訳ない気持ちになった。二人が別れてからも、連絡も取れるし会うのを止められているわけではない。けれど、だんだんお父さんと疎遠になってしまっているのは確かだ。
千波にとって「優しいお父さん」は他の女性にも優しかった。会社の部下という女性が家に来て、夕食を共にした日のお母さんの固い表情と凝った手作りのメニュー、幼い千波でも感じた気まずさと緊張感は忘れることができない。結局お父さんはその女性のところに通うようになり、だんだん帰らない日が増えた。
あれから何年経ったんだろう。


 一人で行く、と電話で言ったのに お父さんは駅で待っているようにと言って聞かなかった。
「女の子の一人旅なんて心配だし…千波、父さんが案内するよ」
「いいよ、心配ないよ。場所だけ教えてくれたらいい」
そう言ってもお父さんは も三十年近くも前の写真だから住所もはっきりしないし、色々変わっているかもしれないし…と ぐずぐず言い続けた。そして結局この人は自分で勝手に決めるのだ。
「一緒に行こう。うん、それがいい、そうだ、そうしよう」
「じゃ、行かない」
子供時代の拗ねた自分は卒業したつもりだった。けれど、相変わらずお父さんと喋ると 素直な言葉は出てこない。不貞腐れた言い方しかできない。勝手に離れて行って、寂しがらせて、「色々と悪かったな」で済ませてしまえるこの人の神経の太さには何度も呆れさせられている。メールも電話も大歓迎だと言って憚らない。手放した娘と久しぶりに会うのも怯まない、皮肉も拒否の言葉も全然聞こえていない。でも、お父さんにはもう、新しい「家族」がいる。

 時計を見ると、約束した時間の少し前だ。お母さんだったら絶対に来ている時間だな、と思う。お父さんはきっと遅い。強引に待ち合わせを決めたくせに。

「とおるさんを待っているんですよね」
いきなり声を掛けられた。中学生くらいの女の子。あの人を「とおるさん」と呼ぶのを聞いて思い当たる。高校三年の夏、探し当てた先でお父さんが一緒に暮らしていたのは、若い部下でも派手な化粧の女性でもなく、地味な酒屋の女店主だった。まだ幼い姉妹を女手ひとつで育てている人だとお父さんは説明した。偉い女性だ、と。
「電話で話しているの、聞きました。一緒に旅行…ですか」
何かを決意してやって来たという、意気込みが見える。しっかりした子だと思う。いきなり近くまで訪ねて行った時、ちらとすれ違っただけなのに、一瞬こちらを真っすぐ見た、その目を覚えている。お父さんに甘えて、「おとうたん」と呼ぶ幼い妹に「『とおるさん』だよ」と訂正した。あの頃はこの子だってまだ小学生だったはずだ。
何と答えたらいいのか千波が迷っていると、後ろからお父さんの姿が見えた。
「おう、千波 待たせた…かな?」
まだ暑いのにジャケットに黒い細身のジーンズ。サングラスなんか掛けて、お洒落して来たのかと思えば足元は履き古したサンダルだ。千波の横にいるもう一人の姿を認め、笑顔が一瞬固まった。動揺しているのが解る。それでもさすがに気持ちの切り替えは早い。
「あれ、ナツじゃん。今日は部活じゃなかったっけ?」
ナツっていうのか、千波が名前を確認しながら少女を見直す。「ナツ」はお父さんの声を聞いて、いきなり弱気になったみたいに俯いている。お父さんはお父さんで、慌てて話を繋げてこの場の空気を軽くしようとする。この人はいつだってこういう人だ。
「なぁんだ、なんだ?あれれ、二人、仲良しになっちゃってるわけ?父さんの知らないうちに。いやぁ、参った、参った。千波 お姉さんだもんな」
何が 参った 参っただ、馬鹿みたい…千波は横を向き苦笑いする。ナツは生真面目に表情を崩さない。
「ナツも一緒に行くか?大歓迎、『おとうたん』企画のミステリーツアーだぞ」


 何だか微妙な空気のまま、電車に乗り込む。最初のうちは車内もそこそこ混んでいたので、なるべく離れて立った。けれど、お父さんが買った切符の行先はずっと先で、駅ごとに乗客は降りていくばかりだ。席が空いたとしても自分だけ離れて座ろうと思っていると、お父さんが大げさに手を上げて呼ぶ。
「こっち、こっち、ほら千波、ナツ」
進行方向に向かって二席ずつ並んだ座席の1組を指して ナツと千波を座らせようとしている。あの子はどうするだろう、千波が振り返ると、勧められた席の窓側に迷う様子も無く座った。その横の千波の席を空けたまま通路を挟んで隣の空いた席にお父さんは腰を下ろす。
「ごめん、窓側、替わってもらっていいかな」
ナツに声を掛け、席を替わってもらった。外が見たいわけじゃない。二人の間に入りたくないだけだ。

 よくこれだけ用意したと感心するほど、お父さんの鞄からはお菓子や飲み物が出てくる。何種類目かの飴玉が「千波の分もね」と言いながらナツに差し出された時 千波はとうとう口を挟んだ。
「もういいよ。そんなに次々食べられないし。ナツ…ちゃん、困ってる」
断りの言葉も言えず 次々と千波の分まで受け取るナツを見かねてのことだ。この二人の関係は未だにこんなだったのだろうか。こんなに気を遣い、遠慮しながらナツはこの人の入って来た家庭で暮らしているのだろうか。

「寝ないでよ、行先だって知らないんだから。降りる駅も解らないし」
お菓子を断られてちょっと拗ねた顔して黙り込んだお父さんが 目をつぶるのを気にして千波が声をかけた。
「ばーか。こんな楽しい旅行で寝るわけないじゃん。可愛い娘二人と一緒なんてさ。ああ、リクも来たかっただろうなぁ。誘ってやればよかったな。なぁ、ナツ」
聞こえないふりなのかナツは答えない。大きな声で通路を挟んで喋るのでお父さんの隣に座った若い女性は迷惑そうだ。さっきお父さんは飴を薦めて断られた。当たり前だ、千波は思う。

 窓外の景色はだんだん田園風景だけになってくる。いくつかの長いトンネルも抜けた。心地よい揺れに案の定お父さんは小さな鼾をかいて眠り始めた。自分も眠ってしまおうか、このまま皆眠ってしまって終点まで起きないで、目的地にも行けないまま引き返してもいいや、そんな気持ちにもなった。
本当のところ隣のナツの緊張が伝わって眠れやしない。待ち合わせの場所にやって来てどうするつもりだったんだろう。何を考えて付いてきたんだろう。窓の外を見ているふりをして考えていた。

「やっぱり仲がいいんですね。」
ナツがぽそりと言う。
「待ち合わせの約束をしている電話の様子で、きっと相手は千波さんだと思いました」
そんなの解らない。新しい浮気相手かもしれないじゃない、あの人は相変わらずそういう人なんじゃないの?それとも幾分は落ち着いたのかな──少しだけ意地の悪い問いかけをしたくなる。そんな思いを振り切って そうだ、私はこの子より「お姉さん」なのだ、と思い直す。もちろんただの「年長者」という意味で。
「夏休みだし、ちょっと片付けものをしてたらね、押し入れの中からこの写真が出て来たわけ」
鞄からクリアファイルに纏めた写真をナツに見せた。受け取ってナツは一枚一枚黙って見つめている。
「あの人が若い頃写真が趣味だったってこともすっかり忘れてた。どうしてここにあるかとか誰が撮ったものかとか考えるより、いきなり、こう…『引き込まれる』って、そう感じた」
「『引き込まれる』…ですか」
ナツの横顔からは何の感情も読めない。ただ一心に写真を見つめている。
「廃墟とか、さびれた場所とか、そういうの、お好きなんですか?」
長い沈黙の後、ナツの口からやっと出た言葉がそれだ。
考えたこともない、どんな場所が好きだとか、心惹かれるとか。好きで、大好きで、居心地のいい自分の場所が壊れた時なら知っている。お父さんが居てお母さんが居る家族の場所。それはもちろんナツたちの母親とあの人が出会うよりずっと以前の話だ。彼女たちには何の罪もない。千波もちゃんと知っている。
「なんか、この写真見ていると とおるさんってどんな人なのかまた、解らなくなります」
置き去りにされたものや壊れていくものに優しい目を向ける、慈しむように丁寧に心を込めて残す、そんな写真。それを撮ったのがあの人だ。
「私も解らないよ」
「そうですか?凄く解りあっている親子って感じがします。絆ってすごいなぁって。私にはどうしようもないなって」
千波が返事をせず黙っていると また長い間をおいてナツが話し出した。きっとこういう話を自分としたくて来たんだろう。解決できないもやもやした感情を千波自身もずっと持て余してきたのだ。ちょうどこの子くらいの年齢の頃からだ。
「一緒に旅行の計画なんてたてて とおるさんを取り戻すつもりなんですかって。今更リクから、お母さんから、あの人を取り上げないでって…言おうと思っていたんです」
そうか、そうだよな。この子はこの子で自分の家族を守ろうとしているのだ。
「リクちゃんはあの人に懐いてる?『おとうたん』って相変わらず?」
「大好きですよ、妹は。出会ったのがまだ小さかったし」
それは、自分だけがどうしても馴染めない、打ち解けられないっていうことも言っているのだろう、千波は思う。
一体どんな形なら家族全員が幸せになれるのだろう。お父さんはちゃんと考えているのだろうか。せめてこの家族のことだけでも。

「ああ、よく寝た。おお、千波、ここどこだ」
いつの間にか窓側の席の女性はいなくなっている。足を投げ出して寝ているお父さんの前を抜けて、席を立つのは大変だっただろう。気が付かなかったのは千波も少し眠ってしまっていたからだ。浅い眠りの中でお母さんやお父さんやナツやリク、ナツとリクの母親の由美子さん、隣の家の達也まで出て来て 凄く普通に喋ったり笑ったりしている夢を見ていた。そんなことはありえないのに…。まだぼんやりした頭で千波は考える。

 うっかり乗り過ごすことも無くちゃんと降り、ローカル線に乗り換えた。お父さんは張り切って停車中に、走って出て駅弁を三個買ってきた。乗客もまばらな電車内でお弁当を広げる。
延々続く田園風景。離れて建った家々。ところどころにこんもりとしたお宮の森が見える。その先の遠く、一列に並んだ樹々の隙間からきらりと光るものが見えてきた。海だ。


「降りるぞ」
お父さんの掛け声にナツは手際良くゴミや荷物を纏めている。千波ものろのろと立ち上がった。
「いいところだろ。なっ」
「うん…まあ、そうだね」
物寂しい田舎の風景を見に来たはずなのに、駅前は小ぢんまりとはしているもののそれなりに観光地の駅らしい雰囲気だ。レンタサイクル屋に小さなコンビニ風の店、ペンキ塗りたてのような白い交番の前、お年寄りがベンチでおしゃべりしている。古民家はハンドメイドの店やカフェになっていて 若いカップルが店内でくつろいでいるのが窺えた。
「何か、変わったなぁ」
お父さんも口をぽかんと開けたまま右左を見回している。
「ここから 遠い?歩くの?」
千波が聞くと、
「いや…うーん…そうだな、そうそう、バスだ、路線バス」
今思い出したように言う。
行ったことがあるとはいえ、随分昔のことだ。駅周辺の変化だって当たり前かもない。地図や経路の再確認とか、せめて今その場所がまだ同じにあるのかとかすら 調べても来なかったようだ。
「だってさ、俺にとってもミステリーツアーにしておきたかったし。却って面白いじゃん、結果がタイムトリップみたいじゃなくたってさ」
ああ言えばこう言う。反省なんてしない。言い訳の達者さは相変わらずだ。

──正確に言えば二十七年前だぞ、二十七年。だって父さんは今の千波と一緒の大学生で、母さん…ああ、千波の母さんな、その、母さんも大学生で。
そこまで言って ナツの表情をちらりと確認する。気にするくらいなら話題にしなきゃいいのに。
お父さんの強引な勧誘でそのサークルに入ったとは以前にお母さんから聞いた。
「誘っておいて、出てくるのはイベントとか旅行の当日だけだし、勝手にカメラ持って別行動するし、ほんと、迷惑な人だと思った」とお母さんは言っていた。
何でそんな人と恋愛して結婚したの?という千波の質問には「なんでだったかなかなぁ」と 笑ってとぼけられたけれども。


 だんだんと細くなる田舎道をバスは走り続けている。あれだけ騒がしかったお父さんが無口になっている。お母さんと付き合っていた頃のことを思い出しているのだろうか、それとも期待通りの風景を千波たちに見せられるかどうか 密かに気にしているからだろうか。
確かここだ、降りた場所は目の前にただ田畑が広がっていた。離れて建った家々は、それぞれの庭先に洗濯ものが揺れている。軽トラックの出入りが見えたり、小さい子供用の三輪車が置かれたりしていて穏やかだけれど確かな生活が営まれている、そんな村の風景だった。
「いいところですね」
「だろ?ナツも気に入ると思ったんだ」
景色に見とれているふりをしながらお父さんは考えている。記憶とどこか違うのか、戸惑っているのが解る。
「で?」
「まあ千波 急かすな、そうそう…こっちだ」

 海の近くのはずなのに、まだ海は見えない。確か電車の窓から見えた感じでは 降りた駅の方が海に近かった気がする。
「海の近くじゃなかったっけ?」
千波が問うと、
「ああ、そう、そうなんだ。千波はよく知ってるなぁ。うん、でも、まだちょっと遠い…かな」
何とも頼りない。それでも、方向を定めてお父さんは歩き出す。ぽつりぽつりとあった民家も遠くなる。千波とその少し斜め後ろをナツが付いて行く。
「コンパとかテニスとかボーリング大会とか色々、ちゃらちゃら遊ぶ、大学によくあるサークルだったけどな、たまに行く旅行の行先だけは少し変わってたんだ。過疎の村とか田舎によくある「ナントカ銀座」めぐりとか「ナントカ富士」捜しとか。誰の趣味だったのかな」
歩きながらお父さんが思い出話を始める。千波は今までにも聞いたことのある話だ。
「あの頃の母さん、可愛かったぞ」
「そんな話はいいよ」
自分のことを気にしての千波の言葉だと思ってか、
「私、聞きたいです。とおるさんの…若い頃の話」
ナツが珍しく大きな声で口を挟んだ。一瞬の沈黙。二人に振り返られてナツの耳のあたりが赤くなり語尾が少しずつ小さくなった。
サクサクサク。舗装された道が細くなりやがて無くなった。歩くと草を踏む音が聞こえる。世界の中で自分たちだけが動いているような感じだ。沈黙に耐えられないのか、話が途切れるとお父さんは鼻歌を歌う。昭和の歌謡曲とかフォークソングの類だ。ナツは特に質問も挟まず、かと言って先を促すこともせず、お父さんのとりとめのないサークルの思い出話を聞いている。話はオチがないままでなんとなく終わったり、どこが面白いのか解らないのにお父さん一人で笑ったり、途中で続きが本人にも解らなくなって途切れたり、いい加減この上ない。ナツにとって面白い話なのかをお父さんでも少しは気にしているのだろうか。まさかね、そんな気遣いのできる人じゃない。

「あの写真の場所は、たまたまオレが見つけたんだけどさ。一人で勝手に遠くに来すぎて迷子になっちゃったんだな」
「サークルみんなで来たとかじゃないの?」
「さっきの駅から反対側に行った、海の近くの民宿に泊まってたんだ。一人でふらっと出て 海沿いに歩いてさ、ここまで来て、たまたま見つけた」
「迷子なんて…大学生のくせに。じゃあ海沿いに戻れば帰れたんじゃないの」
「それがさ、そうでもなかったんだな。戻ろうとしたのに気づいたら海からも離れてたし。当時ってケータイ無いじゃん?ああ、どうしよう、困ったなと思った時 探しに来てくれた母さんの姿が見えた。」
いやあ、女神様に見えたなぁ…この調子でお父さんの話は続くのだろうか、と思った時
「あっれぇ」
お父さんが素っ頓狂な声を出し立ち止まった。
「ここ、ですか?」
ナツもきょとんとした顔のまま立ち止まる。「少し感じが違いますね」

 鬱蒼とした樹々の中の写真以上に朽ちた洋館、それとも、もう跡形もない、そんなことも想像していた。新しい家が建っているとか、周辺一帯がどこにでもあるような住宅地に様変わりしているということだって考えられた。けれど目の前の景色は想像のどれとも違っていた。

「WELCOME ようこそ ふれあいサロン茉莉花へ」
掲げられた手作りの木彫りの看板、門から敷地内はすっきりと整えられ、手作りの花壇、寄せ植え、ガーデニング雑貨で飾られている。よく見ると建物自体の造りは写真と同じだ。明らかに違うのはあの空気感だ。
玄関までのレンガ道に沿って沢山の白い小さな蕾をつけた鉢がいくつも並んでいる。風に乗ってふわりと花の香がした。
「あ、いい香り」
千波が言うとお父さんは嬉しそうに屋敷の方に鼻をひくひくさせる。
「おお、コーヒとクッキーだな」
ナツは花の傍まで寄り、開いた花に顔を寄せた。
「ジャスミンですね。マツリカの花。夜になったらもっと沢山開いて香りも強くなります」

「『WELCOME』ってんだから、歓迎されてんだよ。中入ってみよう。「サロン」って店か何かかな」
さっきまで口をあんぐり開けていたくせに お父さんはもうドアまで進み、ノブに手を掛けて中をのぞいている。
「あら、珍しい。若いお客様」

 人影に気が付いたのか中からドアを半分開けて 白髪の女の人が顔を出した。お父さんが招かれるままに中に入る。目の前に左右に分かれた大きな階段、赤い絨毯。白い花をモチーフにした窓のステンドグラスはあの写真と同じだ。通されたリビングでは、黒光りする大きなテーブルを囲んで数人のお年寄りがお茶を飲みながら折り紙や手芸を楽しんでいる。洋館にふさわしい雰囲気の先ほどの老婦人とは違い、ごくごく普通のお年寄りたちだ。所狭しと飾ってある手芸作品もちりめん細工や木彫り人形、着物の生地で作った袋物、焼き物の湯飲み、折り紙やチラシを利用した小物入れなどで 洋館の内装に合っているとは言い難い。老婦人がお茶を運んできて 窓際の小さなテーブルに三人を呼んだ。大きなテーブルから絶え間ないおしゃべりの声とひときわ大きな笑い声が聞こえる。
「賑やかでしょう?皆地域の方たちなの。今日は沢山来てくださって」
地域のお年寄りの集会所、「ふれあいサロン」として 自宅を開放していると老婦人は説明し、柔らかな笑顔で付け足した。
──たまたま通りがかった人にも気軽に休憩所として使って貰っているの。お客様は大歓迎なのよ、今日みたいに、ね。
はあ、はあ、そうなんですか、それは素敵ですね…あいまいな相槌を打ちながらお父さんは片手で鞄の中を探っている。古い写真投稿誌を持って来ているのは知っていた。その投稿誌に月間賞作品としてあの写真が掲載されていることも千波は聞いている。お父さんのことだ、すぐに自慢げに言い出すのかと思ったがそうではなかった。

 三人のちぐはぐな服装や荷物をちらりと見て老婦人は穏やかに笑いながら言う。
「遠くから来られたの?旅行、っていう感じでもないわね」
三人の関係を問われたら何て言えばいいのだろう。微かな不安を感じながら千波は壁に飾られた幾つもの写真を見ていた。
「素敵なお住まいですね。」
落ち着いた声で切り出したのは意外なことにナツだ。
「洋館はお好き?中をご案内しましょうか?」
はい、はい、ぜひ…鞄からカメラを出してさっさと立ち上がろうとするお父さんをナツが小声で「とおるさん」とたしなめた。

 千波の視線が家族写真らしい一枚に向けられたままなのに気づき、老婦人が写真立てに入ったものをテーブルまで持ってきてくれた。
「この小さな女の子がわたし」
黒髪のおかっぱの小さな女の子が難しい顔をして立っている。そのそばの大きな肘掛け椅子に西洋人の紳士が座り、女の子の傍らにやはり西洋人の女性がこちらを見て微笑んでいた。
「養女だったの。優しいお父様、お母様。でも、ちっとも打ち解けることができなくてね。」
隣に座ったナツの身体がほんの少しだけれど固くなるのが千波に伝わった。
「打ち解けないまま、私は遠方の学校を選んでここを出たの。あなたくらいの歳から。」
老婦人はナツの方を見て言う。
「二人には、亡くなるまで寂しい思いをさせたままになってしまったわ。結局私、甘えていたのね、この人達の優しさに」
また大きなテーブルの方からひときわ大きな笑い声が響いた。中心には人慣れした猫がいる。三人が黙り込んでいるのに気が付いて 老婦人は少し慌てた様子で明るい声を出した。
「ごめんなさいね。歳をとると、つまらない昔話をしたがるもので。」
「いえ…でも、あなたはここに戻ってこられたんですね」
ナツが老婦人に対し「あなた」という言葉が言いにくそうなのを気遣って
「茉莉、皆さんには『マリー』って呼んでもらっています。父と母がそう呼んだから」
漢字ではこう書くの、マリーさんはテーブルに指で『茉莉』と書いて見せた.
「ジャスミン、マツリカの茉莉ですね?」
「よくご存じなのね。庭の鉢植え、お気づきになった?もともとは父と母が私の名前にちなんで庭に植えたの。そしてあれもね」
指さされたのはあのステンドグラスだ。家の中から見ると中心の茉莉花の白い花と周囲の赤や緑の硝子が光を通して一層美しい。

 お父さんの手が 話の間ずっと鞄の中の雑誌に触れていて、出そうとしたりひっこめたりを繰り返しているのが千波の席からは見える。
「その写真誌、私も持っていますよ」
マリーさんがお父さんの方に向き直って言った。お父さんの手元に気づいていたのだろう。
「驚いたわ。私の家が写っているんだもの。雑草と蔦、破れかけたガラス窓。打ち捨てられた姿で、それは寂しげで。私、泣けて仕方なかった。」
同じ一枚の写真でも被写体の中に取り返せない思い出と そこにはもう居ない誰かを想う人がいる。白い花に、ステンドグラスに、大切な想いが込められている、千波は自分があんなにも「引き込まれた」理由が解ったような気がした。

「ずっと戻らないうちに荒れ果てていたわ。肝試しに使われたり落書きされたり泥棒にあっていたり…。」
「そっ、それって勝手に撮られた写真が雑誌に載ったから…ですか?」
明らかに焦っている。お父さんの顔が珍しく引きつった。
「その前から荒れて廃屋みたいになっていたのでしょ?その人はたまたま見つけただけで」
お父さんの顔を真っすぐ見るマリーさんはちゃんと解っている。そしてにこやかに付け加えた。
「いい写真ね。写真のお陰で改めて解ったの。この家がどんなに素晴らしいか。どんなに大切か」
叱られた時みたいに縮こまっていたお父さんは、許された子供みたいにほっとした表情を隠さない。解りやすい人だ。
「大事な場所を手放したままにしたことを悔やんだわ。だけどね、よく見ると庭の花が、茉莉花が写っていて、生きているのが解ったの。寒さに弱い花なのに。戻ろう。戻って人の集まる温かい場所にしよう、身寄りのない私を引き取って幸せにしたかった、両親のその気持ちを今度は私が誰かに届けよう…」
だから、と言ってマリーさんは少し間を置き、お父さんにもう一度向き直って、明るい表情を見せた。
「写真を撮ってくれてありがとう。って、ずっとあなたに言いたかったのよ、『とおるさん』」


 帰りのバスと電車ではお父さんは疲れたのかずっと眠りこけていた。様変わりはしていたけれどちゃんと屋敷はあったこと、思ってもみなかったけれど自分の写真がきっかけとなり家が活気を取り戻したことに とても満足した様子だ。歩きながらずっと鼻歌まじりで、「良かった、良かった。」を繰り返していた。迷子にもならず、娘たちを無事に連れて行けたことに安心したのもあるだろう。

 座席はたくさん空いていたが、ナツが窓際に座り、隣の席を千波に、通路を挟んで隣をお父さんに薦めた。うとうとと船をこぎ始めているお父さんに声を掛け、ナツは鞄を貸してほしいと言った。眠そうな目のお父さんが「何?」と聞きながら千波越しに鞄を渡す。
「雑誌見たいです。今日撮った画像も。あと、お菓子もらいます」
「いいよ、好きにして。ナツになら何だってあげちゃうよぉ」
眠いと更に調子よくいい加減なことを言うのだ。知らない人が見たらほとんど酔っ払いだ。
鞄を受け取るとナツは膝の上に一個ずつ確認しながらお菓子を出して並べた。場所が足りなくて、千波の膝も使う。
「よくこんなにたくさん持ってきましたね」
「まるで遠足のこどもだね…ああ、遠足のおやつならこんなに買えないか」
ナツが頷きながら微笑む。千波も笑う。

 別れ際、マリーさんは、「お願いが一つだけあるの」とお父さんに言った。「幸せな家」の写真を撮って欲しいの。
カメラを鞄にしまい込んだまま、お父さんは一枚も写真を撮っていなかったのだ。ステンドグラス、茉莉花の花を入れることはもちろん、ご婦人たちのはじけるような笑顔に向けてお父さんはシャッターを切る。屋敷の前でマリーさんに促されるままセルフタイマーで撮った写真には、お父さんと千波とナツも写っている。

 千波が手を延ばし、例の投稿誌を取ってページを探す。確か、賞を取ったあの写真には若い作者の名前と短いコメントが添えられていたはずだ。
「結果オーライってやつかな」
「そうですね」
ナツが声をたてて笑った。

 まだまだ夏だと思っていたのに窓外の景色はどこか季節の終わりを感じさせ、太陽の光には僅かに秋の角度がついている。千波たちの住む町に列車が近づくより早く、夕焼け色に染まった空にだんだん藍が広がっている。間もなく優しい夜がやって来る。
ナツが静かな寝息をたてはじめた。傾いたナツの頭が千波の肩にこつんこつんと当たる。顔にかかった黒い艶やかなナツの髪を、千波は指先でそっと直してやる。
ジャスミンの香りがふわりとしたような気がした。

9月の月(さかなの目5)

☆★☆ 第50回 Anniversary Mistery Circle ☆★☆参加作品です。
50回の節目で企画されたものですが 私を含め書き手さんたちの作品への熱意(?)で 延び延びになり やっと本日UPされました。

http://misterycirclenovels.blog.fc2.com/blog-entry-305.html#comment518 で各作品(12月)のお題でみなさん書かれています。お読みくださいね。




─もちろん、負けることもあるわ。だけど、それもいいじゃない。負けたって。


お母さんがそんな風に言うようになったのはいつからだろう。
負けず嫌いで完璧主義、そんなイメージだったお母さん。
ずっと出来の良い娘だったとも思わない。だからといって追い詰められたような気持ちになった記憶も無いし、卑屈になったことも無い、と思う。
お母さんの子育ては見事だなと感心する。「母さんはすごいぞ。素晴らしい母親だ」お父さんが事あるごとに手放しで褒めていたように。

なのに、だ。
最近のお母さんはふわふわと笑いながら「負けたっていいじゃない」、そんなことを言う。
合唱コンクールで競り合って優勝できなかった時も 審判の判定への抗議を認めてもらえず悔しい思いをした球技大会の日も。
慰められているのとは違う、お母さんはただ「勝ち負け」に興味がなくなったのだろうと思う。
解っているつもりでも何だか、娘の自分への興味が薄くなったような気がして、千波は更に複雑な気持ちになるのだ。

千波が涙を見せなかったのは みんなと違って悔しくなかったからというわけじゃない。だけど唇かんで涙をこらえていた、というのも本当じゃない。
ただ、皆が大泣きしていても 自分だけ涙が出なかった、それだけだ。どう説明することもできない。ただ、それだけ。それ以上のものでもそれ以下でもない。
千波はそう思っている。

そんな千波の様子を見ていた若い女の担任が、三者懇談でお母さんに言った。
─色々我慢させすぎているということはありませんか?感情の起伏だって私は大切だと思います。このままだと千波さんの気持ちが心配です。
お忙しくて以前よりお話する時間や触れ合う時間が減ったとは思われませんか?

それは お父さんが出て行ったままという千波の家の事情を 幾分知った上での担任の言葉だったろう。
どんな返事をするのかと横目で見ているとお母さんは、にっこり笑って言ったのだ。
「いいじゃないですか、泣かなくたって。負けたっていい、そう家では教えています」
担任はあきれたような不審がるような顔になるし、千波は何だか自分の悔しかった気持ちが全くどこかへ放り出されてしまったような気になった。

「あれは無いよ、まるで私が家で、負けても何ともなかったって言ってたみたいじゃない」
二人並んで帰る道、千波はお母さんを責めた。
「今更 千波がどんな子なのか 解らないような担任じゃあ 困るな。何だかちょっとムカついたし」
中学生と同じような言葉を使って お母さんは子供みたいにぺろっと舌を出して笑った。
そのあと クラスメイトみたいなノリで、先生のその日の服装がダサかった、あのコーディネイトは無いよねとか 廊下で通りかかった男子のことなどを 面白そうに聞いてきた。
今日のお母さんは変なテンションの高さだ。
色々なことを笑い話にしながら それでも千波は何だかひどく落ち着かないものを感じるのだ。そうだ、お母さんは今まで 先生への批判を娘の前でするような人では絶対になかった。


お父さんが毎日ちゃんと帰ってこなくなった日から数えたら、もう何年になるだろう。




─お前のオヤジ、「土星公園」で見たぞ。

隣に住む幼馴染、達也がずっと以前にそう言った。お父さんは千波の話ばかりした、と言った。
それを聞いても千波は自分がお父さんに会いたいのか会いたくないのかも本当のところ解らない。会ったとしても何から話せばいいのかわからない。
その時自分は笑うんだろうか、冷たい目で一瞥して、そっぽ向くんだろうか。想像もつかなかった。それでも中学の時は学校からの帰り道、足は勝手に「土星公園」の方へ向いた。
高校生になって自転車通学になり 通学の方向も違う。公園の傍を通って帰ることも無い。

3年は夏休みに入って ほとんど強制参加の「受験対策講座」がある。
友達はもう一時間選択した授業があったので 千波はひとり先に帰る。じりじりと肌に日光が突き刺さる暑い昼下がりだった。
こんな時間に帰るくらいなら もう一時間でも二時間でも講習を受ければよかったと真剣に思う。
図書館に寄るとかぶらぶら買い物するとか涼み方もあったけれど、その日は気がつけばそこに向かって自転車を漕いでいた。

土星を模した遊具が中央にある「土星公園」。千波が小さい頃よく連れて来てもらったところだ。
お父さんは遊具でも子供同士の遊びでも何でも やたら一緒にやりたがり、お母さんは公園の隅の「木星」の遊具の辺りが定位置だった。
『離れて見守ることが子育ての基本』なんて母さんが言うのはだな、熱心に読んでるあの育児本の受け売りだぜ、一緒に遊びたいくせにに母さん無理しちゃってさ
…お父さんが千波に耳打ちする。来て間もない内にもう、自販機で勝手に炭酸のジュースを買ってきては お父さんはお母さんに怒られていたっけ。
「大人になったら 好きなだけ炭酸を飲むんだって、子供のころから決めてたんだ」
お父さんはいつもそう言って お母さんに睨まれながらも 自分の分を2本と千波の分を買ってきた。。
お母さんが家から持ってきた水筒のお茶は程よく冷えていて美味しかったけれど、千波はお父さんの買って来る炭酸も楽しみだった。

そんなことをぼんやり思い出しながら自転車を走らせていると、交差点を渡った先 公園から出てくる男の人の姿が見えた。
「嘘…」
幻でも見たかと思う。
でも あれは確かに、間違いない。お父さんだ。自販機からこちらに向かって笑いながらやってくる。手には3本、炭酸を持って。
何で居るんだ。何でこっち向いて笑ってるんだ。何で…。
トクン、トクン心臓が鳴る。どうしよう、どうしよう、ペダルを踏む足が震える。速度を落としたら交差点の信号が赤に変わった。

通り過ぎる沢山の車の間から お父さんの姿を探した。でも、お父さんが笑いながら近寄って行ったのは 公園に横付けされた一台の白い車だ。
笑顔を向けた先が自分では無かったことが解って、汗が一気に引く気がした。動悸はまだ余韻を残していた。
助手席のドアを開けてお父さんが乗り込む。 
─ああ。暑い暑い、はい炭酸、こっちは俺のね、2本。
乗り込んだ車の中でお父さんが誰かにそう言って 1本を相手に渡す様が目に浮かぶ。でも横断歩道の先のその車の運転席に居るのが誰なのか見えない。

千波の前、信号が青になる前に その車は公園の前の道を更に向こうに向かって走り始め、遠ざかって行った。


同じような形の白い車を探してしまう。乗っている人を確認してしまう。
もうあの人のことなんかどうでもいいや、そう思っているはずなのに 公園の近くを回って帰る日が増えた。
一体私は何やってるんだろう。喉の渇きを覚えて 千波は自販機に小銭を入れた。
炭酸とお茶と水で迷っているうち、いきなり日に焼けた骨ばった指が 炭酸のボタンを押した。


「何やってんの?こんなとこで」
振り向いた千波の後にいたのは 父ではなく達也だった。
「千波、顔 怖えっ、そんな顔しなくても金出すし。どれ欲しかった?よしよし、買ってあげますから」
隣に住んでいるとはいえ、高校も違いあまり顔を合わすこともない。久しぶりのくせに 相変わらずのへらへらして調子のいいヤツだ。
差し出された烏龍茶のボトルを受け取りカゴに入れると 日陰に向かって黙って自転車を押した。

「まさかオヤジさん探してたりする?」
ごくりと炭酸を飲み込む時動く喉仏。隣にいる達也が、ふと知らない人のようにも思える。ベンチに腰掛けていきなりの言葉に返事に詰まった。
「何だよ、図星か」
ニヤッと笑った顔に幼稚園の頃の達也がいた。
「白い車に乗ってた。この前ここで見た」
途切れがちにぼそぼそと千波は話す。烏龍茶のボトルを頬に当てほてりを冷ます。
「そっか…元気なんだ」
千波のお父さんの話をしながらも 達也は達也で何だか他のことを考えているみたいだ。

沈黙していると セミの声が耳につく。暑さが増す。
達也は空になった缶をコツコツと爪で弾いている。何の曲だっけ、思い出そうとしていると 達也が口を開いた。
「『威風堂々』だって。どういう趣味してんだか。葬式に」
メロディーがリズムに当てはまる。あ、中学の卒業式で証書授与の時掛ってた曲だ、千波は納得しながらも 達也のそのあと言葉も聞き逃さなかった。
「葬式って?」
達也は黙って曲の続きを弾き続けている。返事が無くても構わない、達也が話したくないことなのかも知れない、と思った時
「父親が死んだ」
達也がぽそりと言った。
「お父さん?」
千波が知っている限り達也の家はずっと母子二人だった。事情は知らない。ただ、今まで話した中で達也が父親の顔を知らず会ったこともない、ということだけは 解っていた。

「そういう内容の電話って どんなに『うん』とか『はい』だけの返事でも 何となく解っちゃうんだよね」
「おばさんに電話が?」
「昔の仕事仲間から掛ってきたんだってことと 誰かが死んだ話なのはすぐに解った。お袋はほどんど返事もしなかったけどさ」
明るくていつも元気なおばさん。久しぶりの友達からの電話でほぼ無言だなんて よっぽどのことだろう。達也が言う意味はよく解る。
黙っていると 達也はそのまま続ける。

「行かない、って言ってた。でも日程や場所は聞かされたみたいでさ。そのあと無意味に部屋を行ったり来たりしたあげくスケジュール帳出してきて 何か書きつけた。ペンを出して書くだけの動作が、やたらぎこちなくてさ」
達也は足元の砂を蹴っている。じりじり熱い砂の上、小さなアリが浅く削られたところを慌てて横切って行く。
「生きてたってことにまず吃驚だよな。どこの誰かも息子が知らないままでさ」
どんな事情かは知らないけれど おばさんなりの決意があったんだろう。達也も無理に聞き出そうとはしないで来たんだ。
達也の家。喧嘩する声もよく聞こえたけどそれ以上に笑い声がよく響いてきた。
「『威風堂々』掛ってたって…」
行ったんだ、お葬式、その言葉を千波は慌てて飲み込んだ。おばさんは「行かない」って言ったって、さっき言ったよね。

「一度くらい顔見たいじゃん。死顔じゃなく遺影でいい。これでもやっぱ父親ってものに興味があったみたいだ」
誰か他の人のことでも話しているみたいに達也は続ける。
「何だか大層な葬式だった。偉そうな人がいっぱいいて 式場の入り口の柱の陰からじゃ 遺影だってよく見えなかったし」
「おばさんは?」
達也はぼんやりと遠くを見ている。
「ああ、暑っつい」
茶色の髪が被さった達也の耳のあたりから 汗が一筋流れる。長い沈黙の後 達也は続ける。
「俺が後をつけてたはずなのに、後ろから肩叩いてきやがんの。『気は済んだ?さっ 何か美味いもの食って帰ろっか』なんて言ってさ」
でも 帰り道は会話がやたら空回りしてずっと気まずくて おばさんが無理しているのが解ったと達也は言った。
喪服で出てきたにも関わらず 達也の母は葬祭場の建物にさえ入っていないようだった。

「何となくね、訳ありなのは解ってた。でも、ドラマとかニュースとかでよくある大人の男女の事情みたいなの、お袋に全然合わない気がしててさ」
誰にどんな事情があるかなんて 本当に解らない。千波のうちの出来事だって他のうちの人には解らないだろう。
お父さんとお母さんがどんなに仲良しだったのか 何が始まりでどんな風になってお父さんが私たちから遠ざかってしまったのか。
本当のところ、なんて 娘の自分にだって未だに解らないんだ。
「お母さんとお父さんにもそういう「男女の事情」があるのだろうか、そう思うと千波の心がざわりと震える。
一度夕食時にうちにやって来た若い女性を思い出す。顔は忘れた。けれど奇麗なネイルの色だけは記憶に鮮やかだ。
お母さんの得意の魚料理を「魚は目が怖いから苦手」と箸さえつけなかったあの女のひと。
「オヤジさんに会いたい?」
達也が立ち上がり ズボンの砂を払いながら唐突に言った。
「え?」
「酒屋の配達の車。ここでよく休憩してる」
「達也も見たことあるの?」
それ以上何も言わず、さっさと前を歩いて達也は自転車に乗る。
「暑いから帰るぞ。オレ夕方からバイトあるし」
自分の飲み終えた炭酸の缶をいきなり投げて寄こすので 千波は慌ててキャッチした。
「何で 達也の分まで」と 上目使いで抗議を示すと
「聞いてくれてありがとな。会いたきゃ 会っとけよ」
生きているうちに、そういう意味なんだろう、きっと。 それだけ言うと滑らかに達也の自転車は走り出し 加速して遠ざかって行った。
缶を投げて寄こしながら達也がぽそりと言ったのがお父さんの居る、その酒屋の店名だということに千波が気づいたのは 達也の姿が見えなくなってからだった。


白い木枠の扉には「いらっしゃいませ」と書いた小さな札が掛っている。丸い文字とうさぎの絵が、いかにも子供の手作り風だ。ショーウィンドには地味なお酒のポスターと古臭いぬいぐるみと安っぽい造花。
いまどきこんな店でお酒や米をわざわざ買いに来る人なんているんだろうか。
見回してもあの業務用の車も見当たらない。拍子抜けするようなほっとするような気持ちで千波は少し離れた舗道の脇のガードレールに腰掛けた。

しばらくしてドアが開き、エプロン姿の中年の女性が老女の脇を支えながら出て来た。慌てて他の方向に顔を向ける。会話は聞こえないけれど老女がなじみの客であることと、エプロン姿の女性の接客がとても親切で感じが良いことは十分解った。そっと女性の様子を窺う。美人でもない、若くも無い。きっとネイルなんかしていないだろうし、魚なんか平気でさばける人かもしれない。

お父さんに会いたかったってわけじゃないからね。断じて 会いたかったわけじゃない。もちろん探りに来たわけじゃない。誰と暮らしていようと興味なんかない。
誰に問われているわけでもないし つまらない言い訳だと解っていながら 頭の中でそんな言葉がぐるぐると回り続ける。
帰ろうかな、もういいや、帰ってしまおう。そう思って一歩踏み出したところだった。

カランカランとドアベルを鳴らし 店の中から小さな女の子と、それを追うように小学生くらいの女の子が駆け出して来た。
「おかえりー。おとうたん!」
小さい方の子の舌足らずなその言葉の先に 横断歩道を渡ってこちらに向かう男の人が見えた。慌てても身を隠す場所もない。千波は店の前の舗道で視線をどこにしたらいいのか解らないまま立ちすくむ。にこにこ笑いながら姉妹に手を振って近づてくるのは間違いない、千波の「お父さん」だった。

千波の横を走り抜け「おとうたん」に飛びつく幼い女の子。後を追う年長の女の子が千波の方をちらと見た。
「『おとうたん』じゃないよ、リク、『と・お・る・さん』」
千波を意識してなのかどうかは解らない、ゆっくりと横断歩道近くまで歩きながら彼女は妹の言葉を正す。
「いいもんねーっ。いいって言ったもん、おとうたん」
男の背中に飛びついておんぶをせがみながら妹の方が言い、「いいじゃん、いいじゃん、なぁ リク」無精ひげの男が笑う。

千波の前を通りかかり 千波の姿を認めた途端、男の笑顔が固まり、ぽかんと口が開いたままになった。
間抜けだよね、相変わらず。軽くてどうしようもなくて 本当に。千波は不思議と余裕が出来た気がして、すっくと背筋を伸ばしまっすぐに相手を見る。
「だあれ?だあれ?」
小さい女の子が背中の上から男に問いかける。姉の方は視線をわざとらしく逸らす。
「ああ…えっと…ごめん リク、お姉ちゃんと一緒に先に帰ってて。そうだ、アイス買ってあるから食べてていいぞ」
アイス、アイス、と、背中から降ろされても気にせずはしゃいで帰って行く妹と 二人の様子を気にしながら知らぬふりを続ける姉を見送った後 お父さんは千波の方に向き直った。何から言えばいいのか きっと解らないんだろう、居心地悪そうな様子で 意味も無くポケットをごそごそ探ったり 頭を掻いたかと思えば、いきなり靴の先の汚れを指でこすったりする。

「あ、千波も、千波もアイスいるか?」
─馬鹿じゃね、こいつ。久しぶりの娘にこんなところ見られていきなりアイスかよ。
高校生の普通に言う言葉でも 口に出したらきっとお父さんは目を丸くするだろう。千波だってもう、あの「お父さん大好き」で行儀のよい小学生じゃない。
「『おとうたん』なんだ」
「ああ、あの子ね、リクっていうんだ。えっとな そうそう父親が早くに亡くなってさ かわいそうなんだ」
だから?だから何?あんたは私の「お父さん」を放棄してあの子たちの「おとうたん」になるの?
「一緒にいたら千波の小っちゃい頃思い出すんだなぁ。千波の方がうん、もっと可愛かったけど。いや、あ、あいつらには内緒でお願いな」
何だそれ。あたしに気を使ってるつもり?
千波は返事をせずに無表情で見つめ返してやる。
あせればあせるほど不毛な言葉を重ね続ける。この人ってそういう人だ。
それでも言葉に詰まって 少しの沈黙があった後 やっと落ち着いた声で
「会いに来てくれたのか?いきなりで驚いた。」
「通りかかっただけ」ぶっきらぼうに答えると お父さんはまた自信なげな表情を見せる。
「喫茶店でも入るか?ここじゃ暑いし。あ、ハンバーガー屋もあるぞ」
「ここでいいよ」
「まあ そういわず。奢るぞ何でも好きなもの」
そう言いながら 先に歩き出すので 千波も仕方なしについて行き 数軒先の小さな喫茶店に入った。

「酒屋のとおるさん」で「リクちゃんの『おとうたん』」を、辺りの人も皆知っているらしい。
喫茶店のマスターや若い店員に慣れた様子で声を掛け、聞かれる前から「これ、オレの娘。可愛いでしょ」なんて言う。
千波がぶすっとしたままでいたら、勝手にクリームソーダとアイスコーヒーを頼んだ。
「好きな方、取っていいから」


「で、?」
「ああ…」
「何?」
「うん」
無意味な、会話ともいえない言葉が続く。帰っちゃおうかな、もういい…千波が思った時 わざわざマスターがオーダーした二つのグラスを運んできた。
「千波ちゃん?とおるさんの自慢の娘さんだね。ゆっくりして行ってくださいね」
逃げずにちゃんと話しなさい、そう言っているような高齢のマスターの視線を感じ、千波はもう一度椅子に深く腰を下ろす。

「リクちゃんたち?あの子たちお父さんいないの?」
「うん。あの子が生まれてすぐに亡くなってな、由美子さん…あの子たちのお母さんな、女手ひとつであの店やって子供たち育ててきた」
アイスコーヒーの方を自分の方に引き寄せ ストローを差し入れながら 千波は続きを待った。
「重い米やらケースの酒瓶やらを一人で車に乗せてるのを見かけてさ、手伝ったのが最初で…」
「そのまま、居座った?」
クリームソーダを引き寄せながら お父さんは千波の言葉を受ける。
「まぁ、そうとも言う、かな。はは」
少し笑ってから 千波が笑わないのでそろそろとその笑いを引っ込める。ダサい。ダサくて面倒くさい。
「偉いひとなんだぜ…親の代から続いた酒屋をつぶしたくないって色々工夫してさ、農家との契約取り付けて無農薬野菜も配達したり お年寄りにボランティア同然の買い物代行もするし…」
怒られた子供が言い訳するみたいにぼそぼそとそのひとを褒め 黙ったままの千波の顔をちらちら見ながらストローを袋から取り出してわざとらしく咳払いする。
「えっと…母さん、元気か?」


アイスコーヒーの氷をつつきながら千波は今どんな風に自分がしたいのか 何を言いたいのか解らなくなる。
いつから感情を素直に出すことをしなくなったのだろう。そもそも「素直な感情」なんてどこにあるんだろう。
「負けたくない」「負けたら悔しい」そんな気持ちを お母さんがどこかに置いてきたのと同じに 自分の本当の気持ちさえよく解らなくなっている。
「お母さんと私なら大丈夫。ずっと元気だよ」
皮肉や嫌みじゃなく、そう言える。お父さんに会いたくて寂しかった日々も もう忘れた。

「すまなかったな。本当に」
ソーダの上のアイスクリームを小さく掬って口に運び 俯いたままでお父さんは言う。
無駄にもぐもぐするのは 続く言葉を探しているのをごまかすためだ。
「何が?」
「その…さ、えっと、あの…離婚とか、そういうの全部」
本当に大人げないというか こんな風に話し始める父親ってどうなんだ、と千波は思う。そして あの日を思い出す。

中学の卒業前、「母さんも『卒業』していいかな」そう言いながら お母さんは一枚の紙切れを引き出しから出して来た。
「離婚届、お父さんにサインもらって来た」
意味をすぐには解りかね お母さんの顔をぼぉっと眺める千波の頭に お母さんはそっと手を載せた
穏やかで優しい瞳の奥に お母さんの決意が見える。「いやだ」って言ったってお母さんはもう決めてるくせに。
「どこに居るのか知ってたの?」

そう遠くない場所にある店で 住み込みで働いていると人から聞いたのだ、とお母さんは言った。
本当はずっと探してたのかもしれない。
「やっと 落ち着いて仕事してるみたいだし。」
そう、お母さんが決めたならいいよ、千波にはそれしか言えなかった。「落ち着いて」の意味がこういうことだとは想像もしなかった。

「『おとうたん』…なんだ?」
「ああ、リク…リクちゃんね、あれは違うんだ、その、『とおるさん』がなんだかああなっちゃって…」
トオルサン、トールタン、えっと何だ その… お父さんが一人でぶつぶつ言っているのが ぼんやり遠くに聞こえる。
クーラーが効いた喫茶店内にいるのに 急に何だか暑くて 暑くてたまらなくなる。目の前がぐらぐらと揺れた。
千波のっ様子がおかしいことに気が付いたのは 目の前のお父さんではなく、マスターだ。
「お嬢さん、気分悪いんじゃないですか?」千波の傍まで来て顔色を見、待っててねと言ってマスターはすぐ引き返すと、冷たいタオルを持ってきてくれた。
「ありがとう、すみません」とタオルを受け取り 千波は目に当てる。ぼんやり見ているだけのお父さんが何だかひどく情けなかった。


テーブルにタオルを置いて額を付けて突っ伏していると 今どこにいて前に誰が座っているのかなんて どうでもいいことのように思える。
最初は「大丈夫か」「どうしたんだ、貧血か」など 遅まきながら声を掛けてきたお父さんも 千波が答えないままでいるとおとなしくなった。
喫茶店の時計の音 小さく流れるBGMのピアノ曲、奥の席のカップルの小声のおしゃべり、外を通る車の音、皿を洗う水の音。
お父さんの咳払いとその後の小さなため息。
千波はゆっくりと顔を起す。もう大丈夫だ、もう大丈夫だ、何度も自分に言い聞かす。何が「大丈夫」なのか解らなても。


家まで車で送るからと言いながら、後を付いて歩くお父さんに何度も何度も断り続け ちょうど来たバスに乗った。

また 会いに来てくれるな?お父さんはずっとずっと千波の「お父さん」だからな。
大きくなったよな、あんなに小っさかったのになぁ、もう高校生か、今何センチなんだ?
千波の小さい頃は可愛かったなぁ、いや今も可愛いけどさ。可愛いっていうか 奇麗になった。うん。
生まれてすぐの時からさ、結婚式のことなんか考えただけで お父さん泣きそうになったんだ、ああもう今でも泣きそう。
あ、でももう呼んでもらえないものなんだろうか 母さんは嫌がるかな、ダメかなやっぱ…。

相手が黙っていても そのままでいることができない人なんだろう、お父さんは一人、しゃべり続けていた。
それらの言葉は軽く聞こえても案外本音だとは思う。子煩悩な人。いつまでも子供みたいな人。子供の自分より子供みたいな人。
卒業式をこっそり見に来ていたことだって知っている。どこの席に座っていたのか覚えている。号泣していたことだって千波は見逃さなかった。
来たかったら結婚式だってこのひとは呼ばなくたって来るだろう。だけど今の千波には将来自分が結婚することさえ 想像もできない。




お母さんとの静かな夕食の時間。お母さんはこの頃テレビをつけてもいいと言うようになった。
別に観たいものがあるわけじゃないけれど 何となくチャンネルを選ぶ。食事をしながら眺めるテレビの内容についての他愛ない会話も、普通になった。
お父さんは「由美子さん」とあの子たちと、テーブルを囲んでいるのだろうか。子供たちはそれぞれ今日あったことをにぎやかにく話すのだろうか。そんなことも何だか昔観たテレビのドラマのワンシーンのように目に浮かぶ。
「お母さん あのさ」
「うん?」
「おとうさんに会ってきた」
「そう」
「お母さんは…お父さんがいたのがあの店だったから?あの家族のところにいたから?」
─離婚を決めたの?気持ちに踏ん切りがついたの?「負けたっていい」と思ったの?
続きを言えずにいても お母さんは解ったのだろうか、穏やかな微笑みを千波に返し、こくりと肯いてみせた。

あの子たちの結婚式で号泣するお父さんを想像する。ちゃんとその時までどこへもいかず、あの子たちのところにいられるだろうか。下の子が今みたいに甘えてくれなくなっても ずっと傍に居て 逃げないで 気持ちの揺れを受け止めてやれるんだろうか。
自分のときはどうなんだろう。結婚式に呼ぶなんてできるのかな。まだ何も解らない。
答えはどこにあるのだろう。

「千波の顔はお父さん似だよな、ほぉら耳も鼻の形もそっくりだ」
千波を膝にのせ、確かめるようにそれぞれのパーツを摘まんでは 嬉しそうにそう言ったお父さんの声を まだ覚えている。
「うそぉ、ちなみはおかあさんに にてるんだもん」
小さな千波が振り返ってわざと膨れて見せると 
「え、じゃあ おつきさまに聞いてみよう」夜空を見上げてお父さんはそう言った。
「ほらほら、お月さまもおとうさんの言うとおりだって言ってるぞ」
「言ってないよぉ」
「ちゃんと見ろ、千波。お月さまは『まる』だっってさ」
おだんごの載ったお盆を持って 後でお母さんが笑っていた。
お月見。あれはちょうど今ごろ、月の奇麗な晩だった。

自分の部屋に戻っても もうお父さんへ「送信しないメール」を打つこともない。
お父さんとの思い出の数は増えることをやめ、少しずつ全てが遠い記憶になっていく。でも、時折想うことだけは、やめることはできないだろう、と思う。
気が付けばもう、深夜一時。空に浮かぶ明るい月を見上げながら、千波は自分の耳と鼻をなぞり、頬をそっと撫でてみる。





《 9月の月(さかなの目5) 了 》





【 あとがき 】
2008年にこの「さかなの目」の短編を1作書いた後 何かのお題に合わせぽちぽちと千波の周囲の話をシリーズで4作書きました。…ってことはこの家族に私は6年も関わっているわけで 改めて時のたつのは早いなぁ、私は何をしてるんだと思ってみたり。この記念企画を聞いた時、そろそろいい機会だしちゃんと「お父さん」と決着付けて 前に進む家族を描きたいと思った次第です。お題が何であろうと。
付けたし付けたしして仕上げたラストが何となくハマった気がした時は にんまりしました。だからお題で書く物語がすきなんだなぁ、なんて。

お題をいただいてから延々だらだらしていたけれど 書いていた時間と見直した時間は短いです。後で絶対どこか書きなおしたくなる、気がする。

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すずはら なずな

すずはら なずな

どれも短いお話ですが 
一つでも心に残ったら嬉しいな。

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