STAND BY ME

生きることにちょっと 不器用な子どもたち、もと子どもたちの 短いお話を 綴っています

日々のこと、少し。(決して忘れないこと4)

第70回 Anniversary Mistery Circle参加作品


「『早くおいで』って呼ばれてもね、もう少し居座って世の中の動きを見ていたくなった。」
最近、睦夫は生きることに前向きだ。イヤホンで大音量のワールドニュースを観ては、政治や経済についての自説を娘の美希相手に披露する。別の時は思い出話、遡って先祖の話、もっともっと古い歴史の話。過去の話だけでなく 美希を伴っての旅行の計画まで立てだした。
睦夫は裕福な家の末っ子として生まれたものの 父親を幼くして亡くしている。進学の時期と戦争が重なってしまったせいで、大学卒の兄たちに劣らず成績も優秀で勉強好きだったのに ひとり、早くから就職して社会に出た。様々な職種を経験したことと、多岐にわたる読書の趣味が「解らないことは何でもじいちゃんに聞け」と美希が子ども達に自信を持って言えるほどの豊富な知識の源となっている。

 美希の都合とは関係なく、睦夫が語り出すととてつもなく長い。用事の手を止め、あるいは電車の時間を気にしながらでも、延々と続く長い話を聞く。思ったより落ち込まずに済んで良かった、元気だと 内心、美希はほっとしている。 それは表面的な見方かもしれないけれど、それでも、だ。

 母を亡くしてからの2年は 思った以上に早く過ぎた。
当初の睦夫の口癖は「男は妻を亡くしたらほとんどが1年ほどで死ぬものだ」だった。どういう統計に基づいているのは定かではない。それでも遠方に住む姉は美希に同居を打診し、姉婿は早々に「老人性鬱」について対策を調べた。睦夫も美希家族との同居を望んだが 通勤や通学、友人とのつながりを考えると 夫と息子の二人は今の時点では一緒に引っ越しはできないと首を縦には振らなかった。

 夫の和也と息子には悪いと迷ったが、今年に入ってから美希は 生活の大半を父の家に移した。社会人になった娘は美希の誘いに応え、少しずつ泊まりに来る日を増やし、延ばす形で付いて来てくれた。睦夫について言えば、普段の生活をする上で何ができないという訳ではない。昨年の一年は大方一人暮らしをしてくれたのだ。レトルトや冷凍食品を利用しないで、干物を焼いたり味噌汁を作ったりという簡単な料理もできる。洗濯も掃除も生活に困らない程度にこなす。ごみ出しは以前からの担当のため得意分野だ。
だが年末に風邪をこじらせて肺炎になり、低血糖も重なって救急搬送された。 生まれて初めての「意識不明」は本人にとってもインパクト大だったようで、後日の話題作りには大いに貢献した。親戚や友人に、手紙や電話で少々大げさに話す睦夫の様子は、まるで新たな経験を喜んでいるようにさえ見えた。だが、本当のところ一人きりの時に倒れてしまうことが、今まで以上に不安になっていることは明らかで、そんな睦夫を、これ以上一人で暮らさせることは美希にはできなかった。

 通勤時間は長くなったが美希は元のパート先のまま続けることにした。仕事に行っている日の昼間 睦夫には一人で好きなものを食べて、好きなように過ごしてもらっている。 今のところ特に不自由はないようだ。
 夫と息子の分の夕食を作りに、そして猫たちに会いに、パート先から「家に寄る」。短い時間でも猫との触れ合いは楽しいし 夫が案外綺麗に片付けや掃除、洗濯をこなしていてくれる「家」でくつろぐのも必要な時間だと思っている。 老猫の体調もまだまだ心配はないようだ。

 母が同じ状況ならきっと自分自身がこちらの近くに越して来ることを考えるか、たまに来るだけでいいと言い続けるかして、無理してでも一人暮らしを続けるだろう。ひとに迷惑をかけるのが何より嫌いな人だった。入院中見舞うといつも母は「ごめんね」を繰り返した。「有難う」なら解るが何故「ごめんね」なのかが睦夫は未だ理解できないと言う。父らしいものごとの受け取り方だな、と美希は思う。


 食事時 必ず美希は睦夫に話しかける。睦夫の見解や蘊蓄がたくさん聞けそうな話題を探すことなんか苦でもない。興味の幅が広いのだ。話題のきっかけさえ作れば睦夫は料理が冷めるのが気になるほど生き生きと話し出す。
 煮魚や野菜の煮物が嫌いで、芋類はごはん時には食べないなんてことは 美希が睦夫の食事を作り始めて知ったことだ。食べないと決めたものには自分は箸もつけない、と悪びれる様子もなく睦夫は言う。
「じゃあ、お母さんは二人暮らしになってから そういう料理は作らなかったの?」
子供の頃食卓に出された覚えはある。母の煮つけの味はレシピを教わらずとも受け継いだと思っている。その頃から睦夫は箸をつけなかったのだろうか。
「『今日は関東煮(かんとだき)よ』とか言って、彼女、すまして食べてたなぁ。」
どうやら母は自分が食べたい時は気にせず作り続けたらしい。いつかは好みも変わるものだと思っていたのか、意地になっていたのか、せっかく美味しく作ったのに、と悲しい気持ちになったのか、もう聞く術もない。その日の話題は「おでん」を母が「関東煮」と呼んだことや、決まって入れた具材の話に始まり、いつの間にか母の話を離れて地域ごとに異なる食材や食べ方の話に流れて行った。

 睦夫も更に耳が悪くなって、外で他人と喋るのが困難になって来た。声の大きさや明瞭さ、話しかけられる方向によっては相手の言葉が全く聞き取れず、会話が難しいのだ。美希家族が揃って賑やかな時も、各々で交わされる会話が聞き取れず、却って無口になってしまうのだ。口の端にごはん粒を付けたまま、笑顔で喋り続ける睦夫の顔を見ていると、これが今、一番必要なことなのだろうなと思う。

「『早くおいで』って、ね。」
今日は思い出したひとつの話から始める。
「私を呼ぶ時のお母さんって 名前に『ちゃん』が付けているかどうかで解ったんだよ。」
「何が?どういうこと?」
「私が何か拙いことをやらかして 叱るために呼びつける時は『呼び捨て』。面白いものや美味しいものがあるからおいで、って呼ぶ時には名前に『ちゃん』が付いてたんだよ」
「それは初耳だな。そんな違いがあったのか」
ずっと仕事が忙しくてどんな風な子育てだったかとか、昼間子供とどんな時間を過ごしていたかとかは全く知らなかったという。午前授業の日に小学校から帰った時の昼ご飯のメニューはお好み焼きやうどんが多かったこと、たまに食卓でなく日当たりの良い和室で「ピクニック気分」と言いながらおにぎりを食べたこと。祖母に甘えて内緒でアイスクリームを買ってもらった時は 怒られて速攻返しに行かされた。いっぱい怒られたこと、たまに褒められたこと、皿洗いの手伝いは、食後すぐにしないと不機嫌になったこと。どんな些細な話でも新鮮だと言う。
何事も冷静できちんとしたしつけを心がけていた母は 怒っていても尖った声を出して呼ぶことはなかったのだ。
ふふふ、と睦夫が笑う。
「そうか…彼女がね。」
えへへと美希も笑う。
「出来のいい娘じゃなかったからね、わたし」
──「早くおいで」って今度母が、お父さんやわたしを呼ぶ時は「呼び捨て」にされないように気を付けようね。

 TVを付けると 美希でも現役時代を知っているスポーツ選手や大好きだったドラマに出演していた俳優や女優の訃報が目に付く。以前はそんなことなかったのにな、と思うにつけ、自分もそれなりの年齢になったのだと実感する。父と同じように親族や兄弟や友人を、これから美希もひとりひとり亡くしていくのだろう。 それは想像するだけで寂しい。でも、と美希は思ってみる。あの世の知り合いが増えると、きっと逝くのが怖くなくなる。親しみを持って あの世(が、あるとすればだけれど)に行くのなら、悲しくないかもしれない。残されるものに深く長い悲しみを与えずにいたいので そんな想いを先に伝えておきたいと、美希はこの頃思うのだ。
大事な人を失う悲しみも、傍にもう居ない虚しさも少しずつ心の中で穏やかな別のものに変わっていく。それは「終わったこと」として遠ざけるのではなく、生きている自分たちの幸せを願い、優しく包み込み、いつもそばにある温かな空気のようなものに変わるのだ。この世界、この時間は、たくさんの過去の時間や逝ってしまった大事なひとたちと間違いなく繋がっているのだ、今はそんな風に感じる。

 今日も「家」で作った夕飯のおかずを持って父の待つ方の「家」に帰る。どの道もどんな空も母の待つ病院へ通った日々に結び付けて思い出す。住宅地の中の小さな田んぼに稲が育ち、刈り取られ、畑に変わる。道の脇や各家の庭の季節の花が順に咲いては種を落とし、枯れていく。今年もそうやって過ぎて行く。月は満ち欠けを繰り返す。
 昨日より深くなった秋の色もやがて色あせるだろう。太陽の光は繊細に角度を変え、夜の闇は濃くなっていく。 明日からもずっとこうやって穏やかに過ぎて行きますように……祈るような気持ちで美希は今日の月を見上げる。






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その夏(けっして忘れないこと)

えー・・・色々迷い、葬儀屋さんと幽霊の女の子の話にするか ほっこりメンバーが依頼を受けて見舞いの「仕事」をする話にするか、はたまた 語りの『私』にあきらかなフィクションらしく「名前」をつけるか、孫を主人公にするか などなど紆余曲折し、モトネタ的なこれで出すことになりました。随筆ではないです。お題のあたりにフィクション入ってますし。でも小説としても完成してません。評価をもらったり オススメに参加するのもどうよって思いますが 読む人に任せることにしますね。


第60回 Anniversary Mistery Circleお題
●「夢には足音がある。」 で始まり
 
●「その夜二組目の客がくるころには、彼女のことなどすっかり忘れてしまった。」で締めくくること

お題出典 《 「娼年」 集英社文庫 著:石田衣良 》


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いつも見るのは足音が聞こえてきそうな夢だ。

母は入院中ずっと「歩く」ことにこだわった。
「鍛えておかないとね。足はすぐ弱るから」
そう言って いつもこうやって足の体操をしているのだ、とベッドの上、半身をおこして伸ばした足をぱたぱたさせて笑った。

白いまっすぐな足が薄い夏もののパジャマから出ている。かなり痩せてしまったものの、年齢を感じさせないつややかな脚だ。足の爪も手の爪と同じに奇麗な形だ。適度な厚みと幅を保って長く、先に向かって緩く細くなる。赤いマニュキアの良く似合う爪だと私はよく羨ましがって褒めた。残念なことに私の爪は母に似ず、父ゆずりの小さく丸っこい形だ。


点滴がある時は器具を支えにして、薦められても歩行器には意地でも頼らず、病棟の廊下をくるりと一周、母はひとりでよく散歩をしていた。他人には迷惑を掛けないのだ、いつか家に帰る日に備え、足を鍛えているのだという強い意志が、精一杯しゃんと伸ばした背中に感じられる。ポータブルのトイレを嫌い、無理やり許可してもらっての「お手洗いのついで」の散歩だった。

病状の難しさを思うと何とも言えない気持ちになり、立ち止まって廊下の先を曲がるまでその後姿を私はただ見ていた。新しく建った有名な高層ビルがはるか遠くに見える廊下の突き当たりの大きな窓、吸い込まれそうなくらい奇麗な夕焼けが広がっていた。夏のはじまりだった。

遠ざかる小さな後ろ姿。廊下で滑らないようにと指定された柔らかな素材の「靴」からは足音なんて聞こえない。聞こえないはずなのに、どうしてだかその時の映像が浮かぶといつも トントン、スッスと小さな足音が重なって聞こえる気がする。私はここに居て、今 この足で歩いているのだ、この世界に言い聞かせるように。


数か月前から検査結果を見ては輸血、という対処療法で何とか過ごしてきたのだけれど、あの日検査結果は悪い数値を示した。5月の終りのことだ。
専門の病院を薦められ、転院してきたこの病院では大勢の医師を含むスタッフが母の来院を待ってスタンバイしていた。まさかこんなにまで重篤な状態だとは本人さえ思っていなかったろう。昼食後の薬が飲みたいという母と、少しおなかが減ったね、なんて言いながらバスで駅まで出て、ハンバーガー屋で数口味気ないハンバーガーを食べてからの暢気なタクシーでの到着だった。母の荷物を病室に置き、医師に呼ばれて受けた説明では治療をせず放置すると3日から一週間で亡くなるという。そんな時 治療しないという選択など誰ができるだろう。


しっかり者だった母が、入院後はすっかり気弱になって、感謝の言葉ばかりを口にするようになっていた。他人に迷惑をかけたくないという気持ちが強い母は 朝の検温の前に起きて身体を拭き髪を整えて身づくろいし、枕に落ちる髪を丁寧に拾って奇麗にした。
私に向かって深深と頭を下げるのだけは辞めてくれというとそれでも、悪いね、ごめんね、有難うと そればかり毎日母は言い続けた。

職場から近いところに入院してもらえたおかげで、夕刻、ほんの数時間だけれど毎日会いに行き、食事をとる母の傍でほぼ毎日、とりとめのない話をすることができた。幾分記憶のあやふやになった母に私の覚えていることを話し、私の知らなかった母の思い出話を聞いた。
時間は母の生きてきた80年をさかのぼり、更に母の親や兄弟、そのまた親の話にとなり、行ったりきたりしながらやがて父と出会い私や姉が生まれて育っていく。長い長い思い出話で笑ったり驚いたりの毎日で このささやかな幸せがずっと続くかのように感じていた。


本人の希望と、家が大好きな母をもう一度お気に入りの茶の間に座らせてやりたい私たち家族の気持ちを汲んでの一泊だけの帰宅。食べたいものを迷いなく挙げる素晴らしい食欲がただ嬉しくて、一番の食材を揃えての2日間のメニュー。母に埃やかびを近づけまいと 家の準備をする姉の努力は涙ぐましいものだった。ピザ、ステーキ、天ぷらそば、鰻。希望通りに揃えた食事を美味しい美味しいと完食する母。許可が出た半身浴を済ませた母の満足そうだったこと。

「またここを歩いてお買いものしたい」と母は小さく呟いた。
自宅での一泊を済ませ、病院に向かうタクシーの中で、暮れていく駅前の商店街を通り過ぎる時だ。私はその時何と返事したのだろう。少しでも状態が良くなったら帰りたい、通院治療にしたいと言ったと思えば、こんな状態のまま家に帰っても父に迷惑を掛けるから帰れないと言ったり、母の気持ちも揺れていたのだと思う。


野球の好きな母は病室でも高校野球とプロ野球の中継を楽しみにしていた。タイガースは今年いいじゃない、昨日はいい試合だったね、と話を振ると決まって 引き継いで詳しく解説と感想を楽しげに(あるいは怒りながら)語ってくれた。またある日は夕方遅く病室に行くと、さっきまで泣いていた目をして、野球が終わってTVを消したら何だか悲しくなるのと 情けない顔で笑った。
意識が無いと言われた時も 父の歌う調子っぱずれの応援歌「六甲おろし」に心拍数を上げたのは偶然なんかじゃ、きっとない。

締め切った窓の外、気温が解らないと言いながら天気予報をよく見ては 台風の情報を気にして あの物干し竿を下に、植木鉢は家の中に、父には雨風の日は出歩かないように、と毎日のように電話していた。
無理して来んでいいよ、早く帰って家のことをして、子供たちのところに居てやって、が口癖だった。。母の中ではうちの子供たちなんて いつまでもほんの小さなこどもなんだろう。大丈夫だよ みんな大きいんだし お腹すいたら勝手に食べてるよ、そう返しても早く帰りなさいと そればかり言った。
台風の多い夏だった。

虹を見たのは いつだったろう。
その大きな虹はちょうど病室の窓、少し屈んで見上げると見える。
「見て、ほらすっごく大きな虹」
気が付いて告げると母もベッドから降り一緒に屈んで見上げた。こんな大きくてくっきりしたのを見るのは初めてだと母も嬉しそうな顔を見せた。
「あ、お部屋間違えた」
たまたま病室を間違えて顔を覗かせたうっかり者の看護師さんにも教えると、彼女もその見事さに驚いて、他の病室の人たちにも教えて来るんだと ぱたぱたと慌てて出て行った。
神様からの自分たちへの特別なプレゼントなんて思わない。けれど 一緒に見上げて歓声を上げた光が射すようなその幸福な時間に自分が立ち会えたことに心から感謝する。



大事なひとを失うことは「胸にぽっかり穴があく」んだとずっと思っていた。今それを訂正したい。
数か月の夕食時の病院通いの私、アイスやプリンを選んでは「3時のおやつ」の時間に通った姉も、それぞれが沢山の数えきれないほどの思い出を増やした。少しでも病院のご飯を美味しく食べられるようにと毎日佃煮や昆布、梅干しにふりかけ、あれこれと選んで運ぶ内、子燕にエサを運ぶ母鳥のような気になっていた。けれど本当はその日々、大事なものをもらっていたのは私の方だったんだろう。父や叔母の、母と過ごしたの時間をお互いに加え、語り合うことで更に濃く深く、この数か月間、そして最期の数日間私たちが得たものは数えきれない。
「穴」は空くかもしれない、でも溢れる程の思いが「穴」を豊かに満たしてなお余るのだ。


荷物をすっかり片付け、後にした病院、ささやかで温かい「お別れの式」をした小さな葬祭会館。それらの場所は、次の「客」がくるころには、前に居た人たちのことなどすっかり忘れてしまうかもしれない。けれど私たちにとってはそこにだって 通り過ぎる時見るとまだ母は居て、母の気配を強く残している。母のお気に入りの茶の間の座椅子だけでなく、家のどの部屋にも母は居て 父の傍にも 私たちの隣にも 母は居なくなってはいないのだ。

大事な人の死を受け容れるということは「もうどこにもいないのだ」と悲しみの後に理解することだと思っていた。でも今は「どこかにいる」「どこにでもいる」、そんな風に思うのだ。
私たちが失ったのは 触れたら温かい母の身体と、この先の新しく重ねていくはずの「思い出」だ。でも まだそれを 悲しみと寂しさの内に実感するところまで至っていないのかもしれない。
深い悲しみや寂しさが この後いつかやってくるとしても 今は、いっぱいの「良かったね」が言いたい。大好きだよ、有難う、ずうっとそばに居ていいよ。今 掛けたい言葉はそれだけだ。





「び」~病気のこと 少し

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おかあさんの 病気について 少し 話しておきます。

キミたちは ちょっとくらいは 覚えているのかな。



それは とっても 突然で ひょっこり顔を出したんだ。

左の胸の上 何となく触ったら 
ビー球くらいの こりこリ があった。



相変わらず お母さんは カンが悪い。


肌着のワイヤーが いつも当たって痛かったから、
そのせいで 何か出来たのかな

なんて 思ってた。

でも やっぱり ちょっとは 気になって、
1週間くらいは 本を読み読み考えた。

似た症状の 病気のところを読みながら

一番 深刻そうじゃないのを 何回も読んで、
コレならいいなぁ・・って思ってた。



おとうさんにも相談して 
やっぱり 病院行こうって決めたんだ。





おとうさんの 大きなジャンバーを 
その日だけ はおって 出かけたよ。

やっぱり 不安だったんだね。

いったい 何科に行けばいいのかさえ 解らなかったよ。

病院なんて 自分のことでは ほとんど縁がなかったもの。



何日かに分けて 色んな 検査をして 
結果を聞く日になった。

おとうさんと ふたりで行った。





よく ドラマにも出てくる 病名だったよ。

そのなかでも「悪いカオした」ヤツだと 先生は言った。



色んな説明があった。

手術の日程を 向こうから決めてきた。





何が 一番 気がかりだったと思う?



それは 幼稚園の クリスマス発表会のことで

それは 入院中の ご飯の用意のことで

それは 今 クラスがゴタゴタしてて 楽しくない学校生活をして

傷つきやすくなってる お姉ちゃんのことだった。



何よりもまず おかあさんが 先生に聞いたのは


おかしいと思うかな?


違う病名で それを 人に言うなら  
何て言ったら 一番いいか ってことだった。

何日で 家に帰って 普通に過ごせるかってことだった。



キミたちが どこかで 心無い言葉を聞いて 
傷つくことだけが 心配だった。

薄っぺらな テレビドラマ見て 心配をつのらすことが嫌だった。



キミたちが おかあさん無しでも

支えてくれる大好きな人たちと 元気にやっていけるのは
いったい 何年後かなって

とっさに 数えてみた。

何年後だったら 大丈夫かって 考えてみたんだよ。





親なんて そんなものなのかも しれないね。

いや、他の「親」は もっと 
ちゃんと 考えなさるのかもしれないよ。



ただ おかあさんは

残された人が 残ったことで傷つくのが 一番哀しい。

残された キミたちが 幸せに笑ってるのが 一番 嬉しい。

それだけは 忘れないで。







あれから 何年もたったけど 
おかあさんは 今のところ 元気です。



胸にマジックで 治療の目印の バッテン 描かれてて 

お風呂で へんなの、って笑ったことも、

少しの間 点滴に通うのに 付き合ってくれたことも

キミたちはもう 忘れちゃったかな?



おかあさんの 今の目標 知ってるかな?

あのね

みんなを 安心させること。

大丈夫。 
こうやって 病気とつきあいながらでも きっと 笑って生きられる。

大丈夫。 
身体の形が多少悪くなっても 問題なんて 何にもない。



家族で 協力して 団結して 病気と 闘うのは
もう少し 先に 延ばしたい。


今は こんなでも いいかなって


そう 思っているんだ。





少しずつ 話すから また 聞いてね。









(このシリーズは、 「おかあさん」が子ども達に語りかけるかたちをとって 私自身のことを 少し お話させていただいています。)

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すずはら なずな

すずはら なずな

どれも短いお話ですが 
一つでも心に残ったら嬉しいな。

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喜びます。

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