STAND BY ME

生きることにちょっと 不器用な子どもたち、もと子どもたちの 短いお話を 綴っています

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物語の続きを始めよう。

ここでものを書かせてもらう他でネットの活動は 本を読んで感想を書くこと(あとはゲームしてるだけで…)。なので どうしてもこういうお話になってしまいます。何かもうちょっと別の興味とか趣味を持たないとね。
最近 続けて戯曲を読みました。チェーホフ『桜の園」、もうひとつは三島由紀夫「サド侯爵夫人」。どちらも面白かったけど「サド…」がここでは使えなくて残念




「つまり…それで 世界から僕が消える?」
やっと出た言葉は いつものように先を見失って 上手くは続かなかった。自分が最初からいない世界なんて誰が想像できるだろう。
亜理紗は品の良い薄い唇を軽く尖らせ、悪戯っぽい目で僕を見る。
「そうよ。その時私が過去が変わるようなことをしていたら、今の行哉(ゆきなり)だっていなかった。だあれもあなたのこと、知らないの」
「亜理紗は…亜理紗はそこで何をしてきたの?」

その日亜理紗が語り出したのは、彼女が行って来た「過去」の話だった。つい先日、祖母に出会う前の僕の祖父に会ったという。
自分がいない世界を想像するのが難しくて、僕は困った顔をしていたのだと思う。大好きな祖父母の出会いを亜理紗が悪戯に邪魔するというのもちょっと気に入らなかった。
そんな僕の様子から気持ちの動きを全て読みとったかのように、亜理紗は余裕の微笑みを見せて、付け加えた。
「大丈夫よ、何にも変えないから。行哉がいないと、困るもの」
─ほんとうに?ほんとうに君は困る?
言葉に出さないでも亜理紗には僕の気持ちは届く。
「そうよ。私たち……なんでしょ?」
大事なところなのに亜理紗はその単語を聞こえないくらい小さな声で言う。もう一度聞かせて、と彼女の目を見ると亜理紗は照れ隠しなのか、そっぽを向いてもう一度繰り返した。
「だから、わたしたち『腹心の友』なんでしょ…って」
そして 亜理紗は身体ごとぐっと僕の方に向き直ると、顔を近づけて力強く言った。
「だから行哉、『その続きを教えて』」
いつも亜理紗がそう言うと、僕の中から魔法のように「物語」が生まれ、日頃の僕からは考えられない程 滑らかに言葉が流れ出た。

小日向家の屋敷の広大な庭で その時も僕の祖父は植木を剪定していた。外の空気はまだ冷たかったが、風に乗って祖父の挟の音が心地よく響き、白い梅の花がほころび始めていた。彼女はつる草の透かし模様をあしらった白いガーデンチェアに、僕は座るのにちょうどよい高さの陶器のゾウの置き物の背にまたがっている。美しく整った庭の中、最も手の加えられた感の無い片隅のその一画に、僕たちはそれらを運んで置いた。それが僕らの定位置だった。『フクシンノトモ』の意味はよく解らなかったが秘密めいた親密さを感じて 僕はただ幸福だった。


*
祖父に連れられて初めて亜理紗の家を訪れたのは、それよりもっと前、5歳の時だった。
僕は同じ年代の子に比べ、極端に口数の少ないこどもだった。両親は大層それを気にして 医者に相談したり様々な教室に僕を連れて行ったりした。もっと喋れば親を安心させられることは解ったし そうしたいと思ったけれど、そう思えば思うほど気持ちは言葉にならず、口を開いても声にはならなかった。歳の離れた姉と祖父母のいる大家族はいつも賑やかで、元から口下手な自分が間に割って皆の関心を得る自信もなく、そうやって僕はますます、喋れないこどもになったのだと思う。
ある日、思いつきのようにさらりとした言い方で 祖父は僕を誘ったのだ。
─同いの歳の女の子がいるお宅に行くんだ。行哉も付いておいで。お喋りの好きな…「ちょっと変わったお嬢さん」だけどね、聞き上手な行哉ならきっと、いい友達になれると思うよ。

亜理紗を初めて見た時のことは今でも覚えている。庭に面した大きな窓のある部屋は隅々まで磨き上げられ、しんとした空気はやけに冷たかった。飾り気の無いストンとした白いワンピースを着て 身体が埋まってしまうくらい大きな革のソファに腰掛け、彼女はぼんやりと開け放った窓から外を眺めていた。緩くお下げに編んだ長い栗色の髪が朝の光を受けキラキラ光っていた。天使ってきっとこんな風なんじゃないか ガラにもなくそんな風に思い、胸がきゅっと締め付けられるような不思議な痛みを感じた。
「ヨシザネ?」
慣れた様子で庭から会釈した祖父を認め、座ったまま聞き取れないくらい小さな声で彼女は祖父の名を呼んだ。子供が大人を呼び捨てにしたことには酷く驚いたが、彼女の表情に、祖父に対する親愛を感じたのは気のせいではないと思う。言葉が上手く操れない代わりに、僕はひとの気持を表情やしぐさから読みとるのが得意な子供だった。

「ヨシザネがわたしを救ってくれたのよ」
亜理紗の最初の「打ち明け話」はこんな風に始まった。思わせぶりな間を置いて、僕がその話に興味を持っている様子と、言葉を差し挟まないことを確認し、安心したように彼女は続けた。
「私は生まれつきからだの弱い子だった。パパとママはとても心配して、いいお医者様を一生懸命探してくれたの」
「やっと見つけたえらいお医者さまを迎えに行ったらね、なぜだか間違えて ヨシザネをここへ連れてきたの。どうなったと思う?」
黙ったまま首を傾げる僕に、亜理紗は神妙な表情を崩さないようにしながらも 語る喜びを隠せない様子で続ける。
「ヨシザネはね、庭中の大きな木の枝を次々に落としていったの。そうしたらお日様の光がぱぁっと部屋に差し込んできて、私 すっかり元気になったのよ」
この庭にあたりを暗くするほど 大きな木が沢山あったようには思えないし、そのストーリーはどこか聞き覚えがあった。少しだけ僕が困惑の色を見せたのを彼女は見逃さなかった。
「嘘…とか思ってる?」
くっと顎を上げ、少しだけ怒ったような表情を作って彼女は言った。何と答えたらいいのか解らず 雰囲気がちょっと気まずくなった時、いいタイミングで家政婦さんが飲みものを運んで来て 話は中断された。
「いいお友達ができて良かったですね」
話しかけた気の良さそうな家政婦さんに、ちらっと目をやるだけで返事もせず、亜理紗は早く向こうに行って、というように手をひらりとさせた。

黙ったまま出されたジュースを飲んでいると 亜理紗が上目づかいでこちらをチラチラ見ているのが解る。知らんぷりしていると亜理紗から話しだした。
「ねえ、まだ他にも話があるの。聞きたい?」
それでも僕はわざと亜理紗を見ずに黙っていた。勝手に怒ったりすましたりする彼女の様子が何だか面白くて 僕もちょっと意地悪をしたのだ。精一杯背伸びしたような話し方も、大人に対する王女様のような態度も 彼女がすると嫌な感じはしなかった。

「それにね、まだ続きもあるの。聞いて、くれる?」
終いには懇願するような言い方になった時、耐えきれず僕は噴き出した。僕が笑うのを、憮然とした表情で見ていた亜理紗も、やがてくすくすと笑いだした。笑う彼女は本当に可愛かった。そうして僕らは「友達」になった。

その日の帰りがけに、亜理紗は1冊の本を、「ユキナリに貸してあげる」、そう言って僕の手に押しつけた。二人が仲良くなれたことを祖父は大層喜び、僕の手に渡された本の背表紙をちらりと見ると「病気のお嬢さんと木こりの出てくる話だな」と目を細め、「その話ならじいちゃんも大好きだ」と楽しげに笑った。

亜理紗は沢山の物語を知っていて、いつも空想しているような少女だった。そうして会う度、何の前置きも無しに空想の世界を僕の前に繰り広げる。僕は彼女が言うすべてを「現実」と受け止めてしまうほど素直でもなかったけれど、彼女が語るどんな話も僕にとって面白く、次はどんなことを言いだすのか楽しみでもあった。僕が決して彼女の「物語」を遮ったり疑いの言葉を挟んだりしないことを亜理紗が信じている様子が嬉しかった。特別で美しい僕たちだけの秘密の世界で、驚きやスリル、魔法に満ちたその場所で 僕たちは幸せな時間を過ごしていた。

「嘘」と言われることを怖れながら 話の元になった本を僕に貸してくれたことで、亜理紗にとってこれらの「打ち明け話」が 相手を騙したりからかったりするためのものではないことを僕は何となく理解した。そして彼女の話が、空想の中だけでもささやかな希望を叶えるものだったことも、だんだんと知るようになる。

優しい祖父は僕に目くばせをして、帰りの道で駄菓子を買い、僕に差し出してこう言った。
「アリサちゃんはちょっとばかり寂しい子だからね。行哉は優しくしてあげなさい。できるね?」

*

僕たちはそれぞれ違う小学校に上がった。亜理紗は有名な私立に、僕は普通の地域の公立に。そして亜理紗はますます人目を惹く美しい少女に育っていた。
祖父と僕の小日向家への訪問は続いており、相変わらず亜理紗は空想や創作の話を現実の続きみたいに語りそれを僕が黙って聞く、そんな時間を楽しんでいた。当時の僕はもう、祖父が彼女の使用人でも、見下されるような立場の者でも無いということを知っていた。小さな植木屋から仕事を始めた祖父は、職人時代に世話になった友人のため庭の世話続けており、亡き友人の代わりに、彼の孫の亜理紗のことを見守ってきたのだ。「ヨシザネ」と呼び捨てにすることは祖父の望みだったそうだ。
「なぜ?」と聞く僕に祖父はにやっと笑って言った。
「そりゃ、仲良くなりたかったからだよ。アリサちゃんのお祖父さんとじいちゃんみたいに」

でも、それは亜理紗が大人に対し警戒心の強い子供だったからだと 今になって僕は思う。そして使用人に対する高飛車なもの言いはきっと ただ彼女の両親のする、そのままだったのだろう。根気良く語りかけ、おおらかに何でも受け容れて聞く祖父に対し、彼女の信頼と友愛が深まるにつれ、周囲への物言いや態度も柔らかなものに変化していった。幼くして纏った鎧のようなものを祖父が時間を掛けて取り除き、折りたたまれた美しい羽根を亜理紗がゆっくり広げていく。
祖父は僕たちを二人でなるべく遊ばせておいて、庭仕事の休憩の折にやってきては 小石や草花を使った昔からある遊びを一緒にし、木々や小さな草花の名前を教えてくれた。亜理紗は教わるとすぐ、器用に花冠を作り僕と祖父の頭に載せた。
鬱そうとした大きな木の繁った『庭』に光を与えたのは 間違い無く祖父だったのだと思う。

小学生になって、僕はずっと戸惑っていた。今までなら周囲の大人に守られて無口でもやっていけたのに、親が選んで入学を決めた公立のごく普通の小学校では、なかなかそれも難しかった。憂鬱な顔をしていた僕に亜理紗はすぐに気がついた。
「行哉、学校、辛い?」
亜理紗が心配そうに聞く。肯くだけでなく、何か言葉で答えないといけないと思いながら なかなか声にはならない。
「…だけじゃ…だめ…だから」
声を絞り出す僕を亜理紗はじっと見て、それからしばらく奇麗な眉間にしわを寄せて、考えていた。
「ねえ、こういうのは どう?」
亜理紗は身を乗り出して僕に言う。
「これから私ばっかり喋るのを辞める。少しずつでいいから 行哉の話を聞かせて。」
情けなくも僕がまだ 何一つ言葉にできずにいると、亜理紗は更に僕に身を寄せて言った。
「『お話の続き』はどう?自分のことじゃなくってもいいの。一言だっていい。私がまたその後、続ける。行哉の一言なら私、楽しんで聞ける。行哉が今までずっとそうしてくれたみたいに」
亜理紗が、凄くいいことを思いついたという感じで 眼を輝かせて言うのが何だか可笑しくて 少しだけ気持ちが解けた。

その日から彼女の物語は僕に引き継がれるようになった。彼女の『続きを教えて』は魔法の言葉となり、僕の唇から一言を引き出した。どんな拙い「続き」でも、亜理紗は決してがっかりしたり馬鹿にしたりしなかった。物語の世界で僕たちは、時間を飛び越え世界中どこへでも行けた。誰かが僕の言葉を喜んで聞いてくれることが、少しずつ僕の自信になっていった。

*

その日彼女が不機嫌な理由は察しがついていた。僕たちが4年生になった年のことだ。

いつも彼女の前では祖父は僕と少しだけ距離を置く。「寂しい」彼女への祖父の気遣いだったのだと思う。その日は彼女が部屋から出てくるのが遅く、僕は祖父と家にいるときのようにふざけあっていたのだ。窓ガラス越しにそれを見た瞬間の彼女の凍りついたような表情。そしてもうひとつ、いつもと違ったのは、彼女の後から僕の見たことのない子供が現れたことだった。すらりとした長い手足、切れ長の目、いかにも運動の得意そうな「あゆむ」という名の、その子は僕より頭ひとつ背が高かった。

思い出したのは亜理紗の語る学校での話だった。主に祖父から切りだされて答えるという場合が多かったように思う。「アリサちゃん、最近何か楽しいことはあったかい?」話題を促しながら、祖父は亜理紗の日常が楽しいものであれといつも祈るようだった。祖父を安心させるためなのか、彼女はいつも、ごく普通の世界にありがちな「学校で楽しかったこと」と「両親と過ごした楽しい週末」の話をした。学校の話では 具体的な人の名が少ない彼女の話の中、よく同じ名前が出てきてた。その相手の名が「あゆむ」だったのだ。

あゆむは、上から下まで僕をまじまじと眺め亜理紗に聞いた。
「へぇ、植木屋さんの孫って この子なんだ」
僕とあゆむが一緒に会うことを亜理紗が喜んでいないことはすぐに解った。好き勝手にくつろぎ、物おじしない様子から、あゆむがここに来るのが初めてではないことは想像がつく。そして家政婦がまた代わっていることをあゆむが指摘したことが亜理紗を更に不機嫌にした。
「前の人で良かったじゃん。優しくてきれいだったし」

祖父の言う「寂しい子」という意味は、屋敷の中の人気のないがらんとした様子から何となく解った気がしていた。忙しいお父さん、忙しいお母さん 入れ替わってもけして彼女の気に入ることの無い家政婦さん達。亜理紗は何かと理由をつけ、少し慣れてきた彼女らを追い出した。大人に優しくされるのも、厳しくされるのも そもそも子供扱いされることからして彼女には馴染めなかったのだ。まだまだ僕らは「子供」だったのに。

亜理紗は、双子の片割れで、拾われた子供で、動物の言葉が解り、実は魔法使いだった。だけどそれは僕ら二人の「世界」での話だと思っていた。亜理紗が小学校でも同じ調子で話をして周囲に受け入れられるとは思えない。公立の小学校で唯一で落ち着くことのできる静かな図書室で、亜理紗の「物語の種」を探しながら、僕はいつも彼女のことを考えていた。

「嘘つき。アリサちゃんの嘘つき」
僕が決して言わないその一言を「あゆむ」はその日、口にした。
亜理紗は庭の一隅に「塀で囲われた秘密の庭」がある、という話をした。「錠を掛け、大事な思い出を閉じ込めているのよ」と。
いつもの僕と亜理紗の時間に他の誰かが入って来るのは初めてのことだ。あゆむもまた僕の居ないところで彼女と、物語の世界を楽しんでいたのかと思うと僕は少なからずがっかりしていた。だから、正直あゆむの「普通の」反応にちょっとだけ僕がほっとしていたのも確かだ。あゆむは是非ともそこへ行きたいと言って聞かず、しぶしぶ付き合う僕らと その場所を探しまわったあげくの言葉だった。

「ああ、くたびれた」
広い庭の突き当たりのフェンスに沿って歩き、ぐるりと敷地内を一周して戻ってくると、あゆむは芝生にどさっと倒れ込んで伸びをしながら言う。
「無いじゃん。そんな場所」
「あるの。あるんだから」
縋るような眼を一瞬僕に向け、亜理紗が 小声で答える。
「無いよ。大体その話知ってるし。本で読んだから」
あゆむの言葉に亜理紗が俯くと あゆむは続けてきっぱりと言った。
「アリサちゃんのそういう話って面白いけど、それ、やっぱ『嘘』っていうんだよ」

『嘘』の言葉に弾かれたように亜理紗は顔を上げた。あゆむの方を真っ直ぐ向きぐっと背筋を伸ばすと 何か言いたげに唇を震わしたが言葉にはならなかった。次に何か問いかけるように僕を一度見たが、ただ戸惑うばかりの僕からすぐに視線を落とし、傍から離れてそのまま部屋に入ってしまった。
祖父が体調を崩したため、その日から亜理紗の屋敷への訪問は途絶え、半年も経たない内に祖父は亡くなった。
祖父の望みどおり亜理紗を支え続けられなかったことは僕の心に引っかかったままだった。あの時、何も言ってあげられなかった僕は、あの日の彼女の後ろ姿を思い出すたび胸の痛みを感じ ぎゅっと目をつぶる。亜理紗のために言うべきだったことを僕はずっと探していた。


亜理紗のことが気になって何度か、小日向家の屋敷の門までは行ったが、インターホンを押す勇気がなかった。やっと押せても名乗ることすらできなかっただろう。紺のセーラーカラーの制服を着た亜理紗の姿を彼女の通う私立の小学校の校門で待ったこともある。今思うと結構な「ストーカー」だったのかもしれない。彼女に面と向かって何を言えるのかも解らないまま、ただもう一度会いたいと願っていた。僕もただの、好きな女の子を想う不器用な小学生だったのだ。

*
「小日向亜理紗様 お元気ですか。今 僕は日本にはいません。驚きましたか?」
父の仕事の関係で僕は海外で数年を過ごしていた。その頃の亜理紗が携帯やPCを使ったのかどうかは知らない。もちろんのことメールアドレスも知らずネットでの繋がりも持たなかった僕は手紙を書こうとしたのだ。でも結局書き終えることもできないまま 時だけが過ぎていった。

もともとあまり喋らない僕には言葉の壁はさほど辛くはなかったが、言葉で伝えることや自分から他人に関わることを、亜理紗と過ごした時間に少しずつでも覚えていったことは 僕にとって貴重な宝物だった。一人の時間は、亜理紗の「話」の元(「種」と僕は勝手に名前をつけていた)を図書館やネットで探し、亜理紗が何故その物語に惹かれ、自分に引き寄せて語ったのかを考えた。ただ、彼女が祖父に語った、幸せな家族の時間の話や友達との楽しい思い出の「種」を見つけてしまった時だけは 何だか酷く切ない気持ちになった。

亜理紗の父親に一度だけ会ったことがある。
祖父と訪ねて行った日、珍しく亜理紗が最初から庭に居た。風のある寒い日なのに、薄着のままの彼女は庭の片隅で真剣な顔をして佇んでいた。隙も無く作りこまれたその西洋風の庭にそぐわない感じで、大きさも種類もばらばらな木が数本、そこにはあった。
「アリサちゃん どうした?」
祖父の良く響く声に気が付かない訳がないのに 彼女はそのまま振り向かなかった。僕は傍まで駆けて行って、彼女の背中に軽く触れた。
「ヨシザネ、庭を触るって知っていた?ここの木抜いちゃうって。」
亜理紗は振り向くと 僕の方を向く間も惜しむように祖父に問い掛ける。何だか切羽詰まった真剣さに、僕は驚いて祖父の顔を見た。
珍しく屋敷内に家政婦以外の人影が見えたと思うと、スーツ姿の男性が近づいてきた。
「おや、これはお久しぶりです、沢渡のおじさん。まだ植木屋さんごっこを続けて下さっていたんですね」
その冷たいもの言いに驚いて その人を見る。初めて会う 亜理紗の父親だった。
「久しぶりに居ると思ったら。庭に手を入れるんだって?」
祖父が問う。
「ええ。計画はあちらに指示してあります。沢渡さんのお手は煩わせませんから」
亜理紗の父親が示した方向にはもう、工事用の車両と作業着の人たちが動き出している。

父親は亜理紗に向かって 笑いながら言う。
「種だとか芽だとか、君がここに勝手に植えているのは知っているんだ。みっともないからついでに奇麗にさせてもらうよ」
「駄目、これは『私』なんだから。切ったり抜いたりしたら私が死ぬ」
小さなつぼみをつけた細い枝をかばうように立ち、亜理紗が青い顔で叫ぶように言う。下草の中で見つけた小さな木の芽一本一本に、名前を付けてそこに植え替えた時 僕も一緒だった。
「訳の解らないことを言うのはやめなさい。沢渡さんもお孫さんも、この子が妙な話をするのを助長するのはやめて頂けないでしょうか。家政婦から様子は伝わっているんだ」
「助長だなんて。君はどうしてそんな言い方…」
亜理紗の肩を引き寄せ いつも温厚な祖父が声を荒げる。
「亜理紗も…」
亜理紗の父親は 今度は亜理紗に向かうと、冷たい微笑みを絶やさないまま言った。
「色んなお話を知っているなら、嘘つきの羊飼いの少年の話だって知ってるんじゃないのかな。いい加減にしておかないと誰にも信用されないようになるよ」


黙ってその場を離れ僕の先を歩いていた亜理紗は芝生の上にぱたんと倒れると その後ずっとそこに横たわっていた。青ざめた顔のまま目を閉じ、身体はピクリとも動かない。
「…どうしたの?」
「私は死んでしまったの。…行哉、お葬式して」
「…]
「私の周りにお花を撒いて。さよならの言葉を言ってくれる?」
そんなのは…嫌だ。できない、目をぎゅっとつぶり 僕は首を強く横に振る。
亜理紗は目を閉じたままずっと動きもせず、本当に死んでしまったように見えた。木漏れ日が亜理紗の白い顔に当たりゆらゆら揺れる。たまらなくなって手を伸ばし、頬に触れそうになった時 亜理紗が急に目を開いた。
「こういう時、王子様のキスで、生き返るとか思う?」
いきなりのことで吃驚したのと 触れようとしたことが恥ずかしくて、僕は後ろに飛びのいた。亜理紗がいつも以上に大人びて見える。返事に詰まっていると、まるで何事もなかったような顔で亜理紗は起き上がり、スカートのすそを直しながら立ち上がった。
「私は信じない。王子様と結ばれて幸せになりましたって終わるおとぎ話」
根元から掘り起こされ 運ばれて行く小さな木々を亜理紗はじっと見つめていた。
*

高2からの編入生の僕を案内してくれたのは「梶 あゆむ」という名の生徒会役員だった。細身で長身、ショートカットの似合うさばさばした感じの女子だ。
ぺこりと挨拶する僕の顔を真っ直ぐに見て、彼女は笑いながら言った。
「ほんとに女子かよって、今そう思ったでしょ?」
「 …うん、あ、でも髪型も名前も、雰囲気に合ってる・・・と…」
「ふん、意外に言うね、帰国子女。でもさ、『子女』っていうのやっぱり変な感じだよね。高校生男子に」
「僕も…そう思う」 

梶さんは僕に向かってにっと笑ってみせた。気取ったお嬢様お坊ちゃまばかりの通う学校だと思っていたので、彼女の気さくな感じにほっとした。そして、その笑い顔を見てやっと、亜理紗の屋敷で会ったあの子が女の子だったと気が付いた。小さな嫉妬すら感じていた学校での友達「あゆむ」について、僕は長い勘違いをしていたのだった。廊下を移動する生徒たちの一群が通り過ぎ、僕はその一番後ろ 少し離れたところを一人、すっと背筋を伸ばして歩く亜理紗を見つけた。僕は思わず「亜理紗」と声に出した。

「あれ、二人って知り合いだった?」
梶さんが驚いた様子で声を上げる。亜理紗はちょっと強張った表情で僕を見、それからゆっくりと口元を緩めた。
「行哉…くん?」
亜理紗、あれからずっと君に謝りたかったんだ。何度も手紙を書こうとしたんだ。懐かしさがこみ上げて、言いたい言葉は沢山すぎるほどあった。上手くは言えないけれど何とか伝えたくて 必死だった。急がなくてもこれからずっと同じ学校なのに、そんなことすら関係なく。なのに反応はがっかりするほど薄く、固い表情になって俯き 彼女は僕の傍を離れようとする。
「待って」
僕が彼女の細い腕に手を伸ばすと、驚いたような目をしてその腕を引っ込め 逃げるように先に行ってしまった。
ずっと会いたかった亜理紗との、それが再会の日だった。


*
「もしかして亜理紗、探してる?」
昼休み、ぽんと肩を叩いてきたのは梶さんだった。編入して1週間、日本にもクラスにも少し馴染み始めたが、亜理紗に話しかける機会はずっとなかった。
亜理紗とも梶さんとも運よく同じクラスになれたのに、梶さんは生徒会で結構忙しいようで、なかなかゆっくり話せず、亜理紗は亜理紗で休み時間はいつもどこかにふらっと行ってしまう。授業中も休み時間も僕の中の亜理紗の印象とは違い 物静かで生真面目で無口な優等生になっていた。

「私も、お昼これからなんだ。付き合って」
弁当の包みを持ち上げて見せ、そう言うと梶さんは僕の背を押すように歩きだした。
「沢渡君…って『植木屋さんの孫』だったんだよね。やっと繋がった」
梶さんは僕のことやあの日のことを思い出した様子で、
「随分と、お久しぶり」
笑って付け足すように言った。
「亜理紗と連絡取ってなかったの?」
「うん。何かね…何をどう伝えたらいいのか解らなかったし、それに…」
それに、彼女が僕を必要としているのか解らないそれは行動する自信がない自分への言い訳だと解っていた。メールができ、ネットで繋がることが可能だったとしても それで想いが伝えられたとも思えない。長い廊下の窓に目をやりながら不器用にぼそぼそと話す僕を 梶さんは女々しいと笑うこともなく、意外にも共感して聞いてくれているようだった。
「私もさ、あれからもずっと近くにいたってだけで、あの子の一番辛い時期、何にもしてあげられなかった」
亜理紗は「小日向」ではなく母親の姓の「高槻」に変わっていた。通って来るのはあの広い屋敷からではなく、この学校にも特待生扱いで残れたと聞く。こちらから聞かずとも、お喋りなクラスメイトたちから、「没落した」彼女の身の上についての話は伝わってくる。

「梶さんと亜理紗は、あの日の後、仲直りできたの?」
僕が聞くと、梶さんは「ああ、あの時ね、亜理紗は当分口きいてくれなかったけど。あれっきり、亜理紗は私の前ではあんな風に『物語』を紡がなくなった。」
「でも、友達でいられた」
「最初に『腹心の友』になったのは私だからね。あれ、行哉くんの方が先、かな」
まあ どっちでもいいか…梶さんは静かな廊下に響くくらい豪快に笑った。

「亜理紗、いるんでしょ。一緒に食べていいよね」
梶さんに連れられて辿りついたのは 最上階の片隅の美術準備室だった。ドアを開けてみると準備室とは名ばかりで「物置」に近い。その片隅の窓の傍に彼女は居た。
暗い部屋の中に、その窓から光が射し込み、シルエットのアリサの周りを包むように照らしていた。最初の日見た時と同じ栗色の髪の柔らかな輝きに僕は目を奪われる。
「美術部なんだから どうせ食べるんだったら広い美術室で食べりゃいいのに」
梶さんが開けたドアから覗き込むようにして 言う。
「沢渡くん連れてきたよ」

美術準備室の窓の傍に椅子を並べて僕たちは座った。
「『小公女』ごっことか言うんじゃないだろうにね。本当に 物好きというか…」
梶さんがまだ、この部屋を好む亜理紗に文句を言っている。
亜理紗は昔のように『小公女』にすぐさま乗ることはせず、柔らかく微笑んだまま、それを聞いていた。それでも会えない間ぐずぐずと考えていたことも、僕の後悔も、亜理紗の身の上の悲しい変化も 何にもなくずっと3人で平和に過ごしてきたみたいに、他愛無い話で笑いあって昼休みを過ごした。


*
亜理紗に纏わる物語が「題名」から来たのは初めてのことだったかも知れない。
「高槻亜理紗さんに、『桜の園』をやって欲しいと思います。」
言いだしたのは 大宮涼香というクラスメイトだった。新入生歓迎会の舞台についての話し合いの場だったが それはすでにやると決めていたような言い方だった。大宮涼香はあきらかに亜理紗を敵視しており、何かにつけて彼女を貶めて笑う機会を狙っているのが解る。そして それに従う者、そ知らぬふりでやりすごす者ばかりが亜理紗の周りにいた。
「初等部からずっと成績でも人気でもずっと亜理紗に勝てなくてきたから、亜理紗の境遇が変わった途端 先頭切って嫌みばっかり言うんだから。ほんっとムカつく」
梶さんはそんな風に大宮涼香について教えてくれた。そんな時も 亜理紗は全く気にしていないかのように 静かに微笑んでいた。

「何勝手なこと言ってんの、何でいきなり亜理紗なんだよ」
梶さんが、後の席から怒りを隠せない調子で声を上げる。
「スタンツは時間制限があるから 高槻さんのために ぜひ脚本を書きたいの。独り芝居で。」
芝居がかった様子で大宮涼香がクラスを見回すと 取り巻きの女子たちがくすくすと嫌な感じの笑い声をたてた。
「クラスの出し物だよ。独り芝居とか…そんなのおかしい」
梶さんが 立ち上がって抗議した。
「大丈夫、亜理紗さんなら何でも上手だもの。皆で裏方で盛り上げるっていうのも『クラスの出し物』として間違ってないと思うわよ」
よそ者には解らない 張り詰めたクラスの空気の中僕は、はらはらしながら見ているしかできなかった。亜理紗ならどんな芝居でも完璧にこなせる気がしたし 衣装を着て舞台に立つ彼女、スポットライトを浴びる彼女の姿が僕の脳裏に浮かび、そんなに反対することではないようにも思えたのだ。僕は『桜の園』について何も知らなかった。

*
「考えるも何も、亜理紗、引き受けちゃ駄目。あいつらの思うつぼだ」
昼休みの美術準備室は相変わらずしんとしていて 梶さんのよく通る声がいつも以上に響いている。あのホームルーム以降、梶さんはずっと怒っている。
「ごめん、僕はよく知らないんだけど…その『桜の園』?」
亜理紗の方をちらと見やってから 梶さんは
「チェーホフ。中等部の時の国語の先生が好きな戯曲だったの。教科書には載って無かったけど、プリントでもらって。だから皆知ってるし、授業中、朗読劇もした。亜理紗はそりゃ上手だったよ。どの役をやらせても…ううん、一人でやったってもちろん完璧だと思う」
「じゃあ、問題は、無い?」
「あるわよ」
間抜けな僕の問いに梶さんはあきれたという表情でため息をついた。そして、窓際に座る亜理紗を気遣うように僕に目配せをした。

「『桜の園』。没落した貴族のラーネフスカヤ夫人はね、先祖から受け継がれた広くて美しい土地を手放さなくてはいけないの。懐かしい思い出の詰まったお屋敷を 最後には離れて行くの。桜をきり倒す音だけ響く中」
亜理紗が窓の外を見やりながら 歌うようにつぶやいた。
「『お金持ちの奥様』から抜けきれない彼女、そのお兄さん 苦労も貧しさも知らない人たち。現実なんて見えてなくて ただ滑稽なばかり」
「亜理紗、もう止めなよ」
梶さんが 亜理紗の背中に 手を伸ばし額をこつんとくっつける。
「大丈夫よ、あゆむ。そこが私にお似合いだって言うんでしょ大宮さんは。きっととんでもない長台詞を用意しているわよ」
僕が知らない間に 亜理紗の両親は離婚し、あの屋敷からも出た。同級生たちの囁きや好奇のまなざし、今まで亜理紗に嫉妬していた者たちが ここぞとばかりに亜理紗を苦しめた。そんな中で亜理紗は 逃げ出すこともせず、毅然としてやり過ごしてきたのだ。
「ごめん。僕は全然解っていなくて。いつも 何の助けにもなれなくて…ずっと何もできなくて」
「行哉くん?」
亜理紗が何故そんなことを言うの?というように振り向いて聞く。なぜあなたが私を助けなくちゃいけないの、と聞かれるのは辛い。そのことが君には 解るだろうか。

「あのさ…」
梶さんが ため息をついて僕を慰めるように言った。
「覚えている?初めて会った日。実はね、私、君に嫉妬してたんだ」
梶さんの意外な言葉に僕は驚いた。あの日「あゆむ」に嫉妬したのは確か 僕だったのに。
「あんな風に楽しそうに喋る亜理紗を見るの、初めてだった。あ、最初に亜理紗の家に遊びに行った時は違った。招かれたっていうより結構強引に約束を取りつけて」
「最初の時?」
「うん、亜理紗の部屋に奇麗なガラス玉があった。亜理紗は『つばめが王子様の像から外して、ここに運んできたのよ』って」
「『幸福の王子』?」
「そう、『幸福の王子みたいに』…。」
亜理紗が懐かしそうに肯きながら言い、梶さんが続けた。
「私、黙って聞く子じゃないからね、『王子が貧しい人を助けるためにつばめに頼んでそうさせている』って言う亜理紗に、私、『亜理紗ちゃんち、全然貧しくないじゃん』って」
亜理紗が楽しいことを思いだしたようにくすくすと笑った。

「正直だね、梶さんは」
「夢とか想像力とかいうのに欠けてるだけ。さすがにその時は、『嘘つき』とまでは言わなかったけどね」
梶さんらしい伸びやかな遠慮の無さに、今は嫉妬というより憧れを感じる。黙って聞くことだけで亜理紗と一番親しくなれたと思っていた僕と、「あゆむ」は全然違っていた。梶さんは梶さんのやり方できっと、ずっと亜理紗を支えてきたのだろう。でも、そんな僕に梶さんは力強く言った。
「だから、私が言いたいのは、『亜理紗にとって沢渡くんは特別だ』ってこと。」

*
亜理紗は演じることを引き受け 本格的に新入生歓迎会の準備が始まった。引き受ける条件に亜理紗が言ったことに僕は驚いた。
「では大宮さん、脚本、楽しみにしています。作者の言うように『喜劇』として創ってください。お願いします」
いつもの昼休みの時間に 僕がそのことについて 何故、と問うと亜理紗はくすくすと悪戯っぽく笑って言った。
「悲劇を演じる私を嗤いたいのが解るから。私だってあの人たちの『思うつぼ』は嫌だもの」
「喜劇だって演じるのは大変だよ。大体あの人にそんな脚本書けるの?人を笑わせるなんて泣かせるより難しいって言うし」
梶さんは相変わらず怒ったままだ。
「大宮さんは才能ある人よ。きっといいものを仕上げてくる。それをどう演じるかは 私次第ってことよね」
「自信あるの?」
僕が聞く。
「やってみないと解らない。でも、二人はサポートしてね。」
「解った。亜理紗が台詞を忘れたら助ける。舞台袖で控えてるから亜理紗は合図して」
僕が言うと 亜理紗は懐かしい言葉で答えた。
「有難う。『続きを教えて』ね。行哉くん」

「それにしても驚いた、沢渡くんがあの人たちに混ざって委員に立候補して脚本制作のメンバーにも入るって言うし」
「梶さんだって 役者になるなんて言いだすし」
「男子がいるのに男役。ま、ドレス着るよりはましかもね」
梶さんは制服のスカートを忌々しげに摘まみ、それでもまんざらでもなさそうに言った。亜理紗がたった一人で舞台の全てを 背負わなくてはいけないという事態を梶さんと僕でなんとか阻止したのだ。彼女は土地を別荘地にするよう 現実を見ない『桜の園』の住人に助言する友人の役だ。
「あたしの台詞は短くね、頼んだよ」

「実はね 私もちょっと驚いた。あの無口な行哉くんが…ね」
亜理紗にじっと見つめられて僕は照れくさくてまた 言葉に詰まる。
「もう そんなに『喋れなく』は無いんだけど」
「ううん 寡黙な人って印象はあるよ」
「そうね。でも、行哉くん、すごく進化した」
「進化…って」
僕がムキになると 二人は声をたてて笑った。静かで幸せな時間が過ぎて行った。


窓から明るい光が射している。今日は空が晴れ、遠いところまでくっきりと見渡せる。
「随分遠くまで見えるんだね」
確かこっちの方向だ、元亜理紗の屋敷だったところを探した。僕の様子に気が付いて梶さんも身を乗り出した。
「あ、あそこ?」
梶さんが指さした先 遠くの小高いところに、高い塀に囲まれた広い敷地が見えた。ここからあの庭が見えるから、亜理紗はいつもここに居たのかもしれない。
「塀に囲まれ錠のかかった…『秘密の花園』?」
僕が言うと、梶さんも続けた。
「『桜の園』じゃなく、ね」
亜理紗も同じ方を黙って見つめている。
「失ったものにしがみ付く気はないし、もう昔と同じではないってことはちゃんと理解しているつもりではあるの」
亜理紗は舞台のヒロインみたいに ゆっくりと歩きながら続ける。
「屋敷内は冷たかったけれど、庭はね、思いだすといつもヨシザネ…行哉くんのお祖父様が居るの…温かくて幸せな時間をいっぱいくれた。」
「じいちゃん、剪定に行くって言いながら ほとんどの木は自然のままにしていたね。傷んだ枝を落としたり、肥料足したり、雑草だって花が咲くよって言ってそのままにしたりして」
「そうそう。色んな草木の名前を教えてくれた。カラスノエンドウで笛吹いてシロツメクサで花冠作って、オオバコでお相撲して」
窓の向こう、遠いあの場所にはまだそんな庭がそのままあるような気がする。
「楽しそうだね。そういう時こそ 一緒にいたかったなぁ。」
聞いていた梶さんが心から残念そうに言う。
「ねえ、行ってみない?行ってみようよ。きっと荒れて雑草いっぱい生えてる。奇麗にしに行こうよ、お話みたいに」
梶さんが窓枠に手をついて子供みたいに飛び跳ねながら言う。けれど、亜理紗は目を伏せ、ゆっくりと首を横に振った。
「いいの。もう あそこは私の場所じゃない」

それからの毎日、遅くまで残って劇の準備をした。僕にできることは他のクラスメイトとの会話に亜理紗を引き込んだり、大宮さんに従うだけの人や傍観者的な立場の人にも個々に話しかけていくことくらいだった。もちろん亜理紗だけに負担を強いるような脚本にはならないよう大宮さんにも意見もした。そんな僕の拙い努力がどこまで役に立ったのかは解らない。けれど亜理紗の謙虚で真面目な取組みの様子に 皆が少しずつ協力と応援の態度で接するようになっていった。

帰りは僕が自転車を押し、徒歩通学の亜理紗を家まで送る。方向も違い、生徒会で忙しい梶さんはほとんど別だった。二人きりになると最初はまだまだぎこちなく、それでも徐々に、僕たちは昔のような僕たちの間の空気を取り戻していった。
物語を演じ、皆で作品を創り上げる毎日は 亜理紗には本当に楽しいようで、帰り道も僕を相手に台詞の練習をした。僕が間違えても 自分が詰まっても 亜理紗は可笑しそうによく笑った。星の無い曇った夜も冷たい雨の日も亜理紗が傍で笑っていれば 明るく温かな僕たちの空間だった。
通学に便利なようにと亜理紗の母が決めた母娘ふたりだけの部屋は、あの屋敷からは想像もつかない位ささやかなものだったが 亜理紗を迎える部屋の灯りはあの屋敷よりずっと温かだった。

*
本番前日のリハーサルの出来は上々で、亜理紗を中心に 役者、裏方共に纏まった輪が出来上がり、心なしか大宮さんの亜理紗への風当たりさえ穏やかなものに変わっていた。脚本はふざけて笑いを取るようなものにはせず、移り変わる時代の現実を見つめきれない女主人とその周囲を淡々と台詞で伝えている。悲劇とも喜劇とも取れるその内容を、亜理紗は人間味あふれる演技で見事に演じ切っていた。リハーサルの後片付けが進められ、明日への期待でいささか興奮気味のクラスの仲間の中、気づくと亜理紗がいなかった。
「亜理紗、どこ行ったか知らない?」
梶さんも同じく亜理紗を探していた。まず思いつくのは いつもの美術準備室だったが そこにも亜理紗はいなかった。外は晴れていてまだ明るく 今日も遠くが見渡せる。その窓近くの机の上に、亜理紗の鞄だけが残されていた。
「あ、梶さん あれって…」
僕が指さした先を梶さんも見る。あの庭、あの敷地に小さく工事車両が数台入って行くのが見えた。梶さんが亜理紗に連絡を取ろうと携帯を掴む。何回も掛けてはメッセージを入れ それを繰り返した。


着信音に気づき、慌てて画面を見た。亜理紗からの連絡だった。
「亜理紗、どこ?」
僕が聞くと、亜理紗の小さな震えるような声が聞こえる。
「庭が『死ぬの』。見届けてやらないといけない」
幼い日、「お葬式をして」と蒼白な顔で草の上に横たわった亜理紗の姿が目に浮かんだ。あれは亜理紗の育てた若木を彼女の父親が一掃してしまった日だった。
「今から僕も行く。亜理紗、そこにいて」
携帯を掴んだまま 梶さんに目配せする。亜理紗 あそこにいるんだ。あの庭が無くなる。
「行哉くん、行って。亜理紗のこと任せる。後は適当に言っとくから」
梶さんも 状況を理解したという様子で言う。リハーサルの後 授業とホームルームが残っていた。僕に何ができるだろう。何をしたらいいのだろう。そこに今行くことのほか何も考えつかなかった。
「もう、関係ないと解っているつもりだったの。父があの土地を売ろうとあの庭が無くなって何に変わろうと」
亜理紗は言った。
「だけど どこかで信じたかったのかもしれない。お金に困っても、私とママと別に暮らしても、思い出の庭を父が何とか残そうとしてくれていること。私 想像したの。私と行哉とあゆむで あそこにこっそり行って、荒れた庭をよみがえらせる。ヨシザネがいて小さな花が揺れて私と行哉が物語を創るの。いつかパパとママも笑顔で戻ってくる。」
「亜理紗…」
「でも もうヨシザネはいないのよね。同じように取り戻せないものはやっぱり戻らない」
こんな時にまた 僕は咄嗟の言葉を見失う。そんな自分が悔しかった。
「だから お葬式するの。大丈夫 今度は『私が死ぬ』なんて言わない。さよなら言うの。ちゃんと喜劇にして終わるの」
声の後からざわざわと工事の音が聞こえる。
「待ってて。今 行くから。絶対そこにいて」
僕は叫びに近い声を上げ、学校の階段を駆け降りる。
「終わりになんかしない。いつも僕が続きを考えるって決めただろ」
結ばれてハッピーエンドになる王子様になれるなんて思わない。でも、今は亜理紗を救いに行く。
どんなことがあっても 僕は亜理紗を支えると祖父と約束したんだ。今度こそ 僕は亜理紗の傍に居る。物語は終わらないのだ。僕は必ずその「続き」を始める。少しでも幸せな亜理紗の物語を見つけるために。

靴を履き替え、自転車置き場に向かう。カギを外すのももどかしい。ペダルが重い。ぎいぎいと、古い自転車の車体がきしむ。楽しかった思い出や連絡を取れずにいた日々への悔恨や、再会した日のときめきや 美術準備室で一緒にいた時間の亜理紗の笑顔や 劇の練習で遅くなった日の帰り道の満ち足りた疲労感 全てが一気に思いだされる。泣くつもりなんかないのに、汗と一緒に涙が出そうになる。汗なのか涙なのか解らないものでぐちゃぐちゃになりながら、それでも僕は、こいで、こいで、そして坂の上にたどりつく


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すずはら なずな

すずはら なずな

どれも短いお話ですが 
一つでも心に残ったら嬉しいな。

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