STAND BY ME

生きることにちょっと 不器用な子どもたち、もと子どもたちの 短いお話を 綴っています

早春、花園幻想曲

第71回 Mistery Circle 

バトルロイヤルルール(共通お題) 
●すまないなあ。きみたちしそんにまでめいわくかけて……。
●かまうもんか! あした絶対に使ってやるぞ!
●もう安心して帰れるだろ?
●ぼくはもう、生きてるのがいやになっちゃった。
●きみ、おかしくなったんじゃないだろうね?

※お題はどれを選んでも可




─もう、生きているのがいやになった 。
そんな書き置きを残して家を出たら さすがにお母さんだって探すはずだ。
それは 日菜子の思いつきだった。ちょっとどこかに隠れていたらいいんだよ、少しだけ心配させるくらい構わない。もし見つけてもらえなくても、戻るタイミングはちゃんとあたしが作ってあげるから。
「でも、どこに行けばいいの?」
森生が聞く。場所は決まっていた。一人で理由もなく入る勇気は今までなかったけれど 日菜子にとってこれはちょうどいいチャンスだ。
「そうね、えっと」
考えるふりを少しだけ長めにしてから、日菜子は森生に言う。
「あそこがいいな、『秘密の花園』。大丈夫、中の様子は調べ済み。入れるところだってあたしは知ってるんだ」
「中の様子って…。日菜子ちゃん、入ったの?ひとりで?ずるいっ。」
思った通りの食いつきようだった。それでもすぐ、心配そうに顔を曇らせる。森生は小さいけれど慎重な子だ。
「でも、誰かの家なんでしょ?入ったら怒られない?」
「大丈夫だって。人がいるところなんて見たことないもん。森生が約束守るっていうならとっておきの秘密教えてあげる」
「とっておきの秘密って?」
森生の目が好奇心できらきら光る。一重で細い日菜子とは違う、くっきり二重の大きい目だ。『秘密の花園』は、もちろん日菜子が勝手につけたその場所の呼び名だ。お母さんが以前読み聞かせてくれたお話の題名から拝借している。勿体つけながら、日菜子は森生を自分の部屋に招き入れた。


 何の説明もないまま決まった親の離婚と、三年生の三学期からという中途半端な引っ越しに迷惑を被るのは子供だ。だから新しい家では一つくらい思い通りにしようと日菜子は心に決めていた。小さなハイツの三階の玄関のドアを開けてすぐ、日菜子は真っ先に入って狭い家を一通り見回ると、一番北の端の部屋に自分の荷物を置いた。四畳もないかもしれない物置みたいな小さな部屋だ。けれど 日菜子が気に入ったのには理由があった。
 引っ越し先を見に来た日、お母さんが不動産屋さんと話をしている間に日菜子は周囲を探検してみた。ここに来る途中で見た、道路沿いの古びたお屋敷の門が気になっていた。傍まで歩いて行って見ると、木造の重々しく頑丈そうな門扉は錠が錆び、黒ずんだ表札は文字が読めない。
「……ソノ?」
二文字の漢字のようだったが「園」の文字を読み取るのが日菜子にはやっとだった。隙間から覗く雑草や、ポストからはみ出た黄ばんだチラシ類、玄関前の手入れされていない様子からは人の住む気配が全く無い。門から屋敷の敷地に沿ってずっと、高い煉瓦塀が続いていて、その脇に子供一人が通れるくらいの狭い通路があった。壁伝いに辿っていくと日菜子たちの住むことになったハイツの横手に繋がっていた。
「中に何があるんだろうね。お化け屋敷みたい」
怖がりで、お化け屋敷なんて入ったこともないくせに、森生はちょっと嬉しそうに言った。蔦が這う煉瓦塀、それよりもっと高く茂った木々が不気味な日陰を作っている。どんなに背伸びしたって見えないのは解っているのに 森生は跳んだり跳ねたりして中を覗こうとした。その塀の中が日菜子の部屋の、角の小窓から見下ろせたのだ。
「うっわー、日菜子ちゃん、ここから中が見えるんだ。草ぼうぼう。やっぱりすごくでっかい木ばっかりだね。ほら、あそこ、黄色い花が咲いてるよ、あっちには白。鳥の水飲み場みたいなのもある。ああ来てる、来てる、ねぇ、何ていう鳥?他に動物なんかはいないの?」
「猫がいっぱいいるよ」
「猫?猫、いっぱい?」
窓に張り付いたまま、森生は息を弾ませる。テンションは上がりっぱなしだ。

 少しずつ暖かい日が増えて、春が近づいている。濃いピンクや白の梅がちらほらと花開き、塀の外まで枝を伸ばした桜の木のつぼみも膨らんできた。あの庭に初めて入る日は、花が満開だといいな、日菜子は思う。窓から見える木々は きっと季節ごとに様々な花を咲かせ、葉っぱも色を変えていくだろう。隙間から見える地面はまだ枯草の色が多いけれど、これからどんどん緑が広がっていく。何の種が今、土の下で芽を出す日を待っていて、どんな花々が咲くのだろうと想像する。毎日、それが日菜子の一番の楽しみだった。

 春休み前の短縮授業を終え、「秘密の花園」の横の通路を抜けて日菜子が帰って来ると、森生が台所の隅でひざを抱えて座っていた。
「どうしたの?お母さんは?」
「寝てる」
リビングのソファーでお母さんが横になっているのが見える。本当に寝ているのかどうかは解らない。引っ越す前もぼんやりしていることの多い人だったけれど最近はもっと酷い。子育てが嫌になったのかもしれない、全て投げ出して、今度はお母さんが出ていってしまうんじゃないだろうかと、日菜子は不安で胸がいっぱいになる。こんな馴染みのない土地に取り残されたら、子供だけでどうやって暮らせばいいんだろう。
 日菜子が森生に充てた広くて明るい方の部屋には荷物が入ったままのダンボールが積み上げられている。シンクにはカップ麺の容器が一つとお母さんのお箸とお湯飲みが置いたままになっている。
「森生のご飯は?」
森生は力なく首を横に振った。


「吉崎日菜子、吉崎日菜子、何でそんなに急いでんの」
後ろから追ってくるのは 同じクラスの越谷(えつや)だ。転校生が面白いのか日菜子にやたらと絡んでくる。関西人のお父さんと地元民のお母さんの「ハーフ」だとか言ってヘンテコな関西弁を使うのでクラスで目立っていた。
──みんなから浮いてるのはこいつだって一緒じゃないか。
日菜子は聞こえないふりをして先を歩いていたが、あまりにしつこいので振り向いた。
「フルネームで何回も呼ばないでください。付いて来ないでください」
「けど、お前 苗字で呼んでもすぐに気づかへんし。なぁ、何でそんなに急いでんの?」
まだ母の旧姓に慣れていないのだ、なんて説明はしない。急いでいる理由はもっと秘密だ。森生が待っている。日菜子は今日も森生と家出の相談をする予定だった。
「付いて来るなったって 俺もここから帰るんやけど」
越谷が指さしたのは日菜子がいつも通る塀沿いの近道だ。そうか、自分だけの「秘密」な訳がない、相手の方が前からの住人だ。少しがっかりした気分になって、日菜子は立ち止まってしまう。越谷がすぐ後ろまで追い付いてきた。

 引っ越してきた日の翌朝、日菜子はお母さんと二人でハイツの全部の家を回った。空き室も多く、玄関先に出た住人はほとんどがお年寄りだったので、越谷の家は印象に残っていた。お母さんはどの家でも俯きがちに挨拶の品を手渡し、手短な挨拶をしてそそくさと立ち去ろうとした。越谷のおばさんは越谷と弟を玄関先に呼び寄せて日菜子に紹介し、「学校で困ったことがあったらコイツに頼っていいよ。こんなのでも多少は役に立つと思う」と言いながら越谷の頭をぽこんと叩き、「落ち着いたら遊びにおいでね」と言ってくれた。優しい言葉をかけてもらえたのは日菜子もちょっと嬉しかったけれど、頼ることも遊びに行くことも、この先絶対に無いと思っている。

「なぁなぁ、お前の母さんってさ……」
ハイツの前まで出てもまだしゃべり続けようとする越谷を振り切って三階へ、階段を一気に駆け上がった。何を聞くつもりなのか知らないけれど、うちの家のことについて、まだ他人には話したいとは思わない、日菜子は唇をきゅっと噛み締めた。


「ただいま」
「おかえり 日菜子ちゃん」
玄関ドアを開けるとすぐに森生が出迎える。台所を見ると相変わらず森生の分の食器はシンクにない。引っ越し前はこんなことは無かったのに……日菜子は思う。
「お腹すかないの?一緒に何か食べようか?」
森生は黙って首を横に振った。
「書置きの手紙、書いてみた?」
「書けないもん。日菜子ちゃん書いて」
「森生だって書けるじゃない」
「だめだよ。『生きるのがいや』って『死にたい』ってことでしょ?そんなの書いたらお母さん、泣く。日菜子ちゃんは何ともないの?」
「『生きる』っていう漢字なら自分も書ける、『もりお』の『生』だもん、って。小学生になる前に漢字を覚えたいっていうから教えたんじゃない。だから……」
森生は何か言いたげな表情で日菜子の顔をちらと見て、目をそらした。
「どうしたの。言いたいことあるんなら、はっきり言いなよ」
「いい。日菜子ちゃんにはわからないから」
「何が解らないのよ」
「だから いいってば」
長い沈黙の後、そっぽを向いたまま森生がぽそりと言った。
「だいたい僕って、ちゃんと『生きてる』?日菜子ちゃん」
「何でそんな風に言うかな。嫌なこと言わないで」
胸がきゅっと苦しくなる。森生の癖のない艶やかな髪に日菜子はそっと触れた。


 結局置手紙については保留にして、翌日二人で出かけることにした。長い煉瓦塀を角まで辿って行くと緩い傾斜が続いていた。降りて行った先の小川沿いに続く敷地の囲いは、雑草に覆われた高い鉄の柵になっている。網目状のフェンスになっているところに、小さな子供なら入れるくらいの破れ目があり、誰が置いたのか目隠しに板が立てかけてあった。「ここが入口だよ」と日菜子が教えると、森生はフェンス越しに中を覗き、「すごい、すごい」と頬を紅潮させた。

 森生を先に入らせ、日菜子が後に続く。腰をかがめて中に入ると破れたフェンスの先が引っかかってセーターにほつれ目ができた。敷地内に足を踏み入れると、サクリと乾いた落ち葉を踏む音がして、その下のしっとりと湿った土の感触が靴底を通しても伝わってきた。ぐるりと周囲を囲む生い茂った木々が深い陰を作っていたが、隙間からの木漏れ日がきらきらと揺れ、森生の後ろ姿を照らしている。緩い風が吹き抜け、草の香りが一斉にたち上がり日菜子の身体全体にしみこんでくる。振り返ると川に面した斜面には、明るい陽だまりが広がっているのが見える。頭上の雲が途切れ陽が差し込むと、静かに眠っていた庭が目を覚ましたみたいだ。感嘆の声を上げながら、森生が両手を広げ丈の高い草をかき分けてどんどん中に進む。日菜子が踏んだところは草が倒れ、道ができるのに、身軽な森生の後ろはそのままだ。
「森生、森生、先に行かないで。待って。先に行かないで」
捻じれた木々から垂れ下がる絡み合った蔓が、まるで手を差し出しているように見える。小さな森生がこの『花園』に取り込まれてどこかに消えてしまいそうな気がして、日菜子は慌てて追いかけた。

「ねえ、日菜子ちゃん、猫いるよ、いっぱいいるよ。すごいよ」
庭の中ほどまで行くと クローバーの葉と柔らかな土の色が見える明るい場所に出た。蔓が伸び放題に絡まった薔薇のアーチの向こうに、朽ちかけた小さな平屋が見える。瓦は部分的に崩れ落ちてガラスは破れ、窓枠のペンキは剥げている。壊れて穴の開いたテラスの屋根が時折風に揺れて ぱたりぱたりと音を立てた。寄せ植え用の大きな素焼きの鉢や金属製のフラワーポット、土と雑草に埋まりかけた煉瓦の小道、倒れたガーデンチェア。荒れてはいるけれど、どこか美しかった庭園の名残を留めている。家の周りや庭のいたるところに様々な色や柄の猫が何匹もいて、侵入者の日菜子たちを気にする様子もなく、くつろいでいた。

「おーい 吉崎」
ざわざわと草をかき分ける音がして 誰かが呼ぶ声が聞こえた。入口の板を外したままにしてきてしまったことに日菜子は気付く。振り向くと斜面を上がって来る越谷が見えた。
「今日もずっとそわそわしてんなぁと思ってたら」
つけてきたのか。日菜子が不機嫌な顔をして黙っていると、越谷は大げさに首を回して周囲を見渡し、目を細め「久しぶりやなぁ」とつぶやいた。
「俺らも小さい頃、よくあそこから勝手に入って婆さんに怒られた。今じゃ 気味悪がって誰も入らないし。あ、そうか。お前んちからならこの辺って、見えるんや」
越谷はハイツの窓を見上げて、生い茂った木の梢越しに日菜子の部屋の窓を認めると、一人で納得したように頷き、向き直ってにやっと笑いかけた。
「なかなか勇気あるな、ひとりでお化け屋敷探検か?」
── ひとりじゃない。
心の中で言い返すと、越谷は返事を促すように首を傾けて日菜子の顔を覗き込んだ。
「お、弟が猫を見たいっていうから。ほら あそこにいっぱい…」
「ふーん?弟が、猫、見たい、って?」
越谷が妙に一語一語切って日菜子の言葉を繰り返し、じっと日菜子の顔を見つめる。気まずくなって越谷の視線を避け、日菜子は森生を探した。どんなに目を凝らしても、さっきまであんなにたくさんいた猫がすべて姿を消していて、森生もどこに行ったのか、居たはずの場所にもいなかった。気づかぬうちに周囲はすっかり暮れかけの色になっていて、見上げると細い月が空に掛かっている。クローバーを揺らして 足元を風が吹き抜けた。

「ひどいじゃない。いつ先に帰ったの?あたしを置いて」
慌てて家に帰ると、森生は日菜子の部屋の窓から暗くなった外を眺めていた.お母さんは日菜子たちが出かけていたことすら気が付いていないみたいだ。特別遅くなったつもりは無かったのに、すでに夕食の用意が出来ていた。
「ごめん、日菜子。お腹すいちゃったから ご飯、先に食べた」
相変わらず覇気のない声でお母さんが言う。引っ越し前は必ず、森生と日菜子の分を食卓に用意して一緒におしゃべりしながら食べたのに。最近お母さんは、わざと子供との食事の時間をずらしているように日菜子には思える。 森生の分の食事が気になった。
「森生も一緒に食べる?」
「僕はもういい。それ全部 日菜子ちゃんのだから」
森生は相変わらず小食な子供だ。


 上の空で学校に行き、毎日ぼんやり外を眺めながら過ごす。今日はお母さんが先に起きて朝ごはんを作ってくれていた。引っ越して来てから疲れた顔で寝てばかりだったお母さんも、少しずつだが今までの日常を取り戻している。けれど 日菜子が森生に充てた一番明るい部屋は、やはり荷物が解かれないままだし、森生の話を日菜子がするのを避けているように思える。以前からどういう訳か、お母さんは森生の声だけが聞こえない。森生も遠慮してか、お母さんに直接話しかけることはしない。それでも日菜子たち家族は、自分たちなりに楽しくやってきたはずだった。単身赴任のお父さんがたまに帰ってきて、不機嫌な顔を見せる時以外は。
「お母さん、森生の荷物、あたしが開けるよ。どのダンボール?」
台所に立つお母さんの後ろ姿に向かって、日菜子はなるべく明るい調子で声を掛けたが 返事が無い。
「お母さんってば、もう。森生だっておもちゃとか色々出さないと困るって…」
森生の荷物を探して次々と開けてみる。衣服、おもちゃ、ちょっと早いけど、と日菜子が昨年のうちに選んだランドセルもどこかにあるはずだ。お母さんと日菜子が勝手に買ったのを知ってお父さんは酷く怒ったけれど。
「お母さん、森生の荷物はどれ?どのダンボールも違うんだけど」
お皿を洗っているお母さんの手が止まる。蛇口から勢いよく流れる水はそのままなのに、お母さんの時間だけが止まったみたいだ。
「お母さん?」
静かな台所に水の流れる音だけが続く。

「……日菜子ちゃん」
怯えたような森生の声が聞こえる。
「ほら、お母さん 森生がね、」
お母さんは黙ったままだ。
「日菜子ちゃん。僕はいいから……」
──いい、って何よ。
日菜子が振り向くと同時に森生が玄関の方に走って出ていった。
「森生?」
追おうとする日菜子を、お母さんが何か叫びながら止めようとした。お母さんが何を言っているのか日菜子には解らない。まるで違う国の意味の解らない言葉のようだった。後ろを振り向かず、日菜子は森生の後を追った。

「森生?森生どこ?」
森生の行先は『秘密の花園』に決まっている。入口は板でちゃんと塞がっていたけれど日菜子は確信を持って中に入った。
「森生、いるんでしょ?」
草を分け入って前と同じように奥に進む。昨日から急に暖かくなったせいか、あちこちに水仙の花が揺れ、名前を知らない小さな花がたくさん咲いている。風が吹いてざざっという音がして、早咲きの桜の花びらが舞い散った。足元のクローバーも白い花を一斉に咲かせている。立ち止まり日菜子がぐるりと周りを見ると 草の葉の間や木の根元や石の上に、何匹もの猫がいて、じっとこちらを窺っていた。
「森生?」
猫たちを脅かさないようにそっと先に進むと、この間は廃屋にしか見えなかった建物の前に人影が見えた。

「おや珍しい、女の子だ」
隠れる間もなかった。そこに居たのは、小柄な白髪のお婆さんだ。物語に出てくる魔法使いみたいに深いしわの刻まれた顔、骨ばった細い指。
「えっと、あの……すみません。お、弟を探しているんです。ここ、入り込んじゃったかな、と思って。ま、間違って」
「弟を探しに、ね。本当に子どもってのは 言い訳がうまい」
「言い訳なんかじゃないです。それに ここ、誰か住んでいる家なんて思ってなくて」
「ふふ、そういうのを『言い訳』っていうの。覚えておきなさい、お嬢ちゃん」
言い返す言葉も見つからない。
「で、その弟くんは?」
日菜子が慌てて辺りを探すと近くの草陰に隠れている森生が目に入った。
「まあ 丁度いいわ。勝手に入ってきて悪いと思うんなら、ちょっと手伝ってちょうだい。今 庭の手入れと、種まきをするところ」
─『秘密の花園』じゃなくって『ヘンゼルとグレーテル』だね。日菜子ちゃん。
指示された場所の雑草を抜いていたら 後ろに隠れたままの森生が日菜子にそっと耳打ちをする。
「でも、『悪い魔女』って感じじゃないね」
確かに口調はきつかったけれど、お婆さんの皺の奥に引っ込んだ細い目はずっと笑っていて 全然怖くはなかった。触ると、土はふっくら柔らかく気持ちが良い。根っこが意外に繋がっていて抜きにくい草もあれば、触れただけで花がぽろりと落ちるものもあり ひとつひとつが日菜子にとって発見だった。
「そんなに何でもかんでも雑に抜くもんじゃないよ。せっかく花をつけた小さいものへの思いやりっていうのが必要なんだから」
それはカラスノエンドウ、そっちはハルタデ……お婆さんは小さな花々の名前を日菜子に教えながら 自分はかなり大雑把な感じで作物の種を蒔く。お婆さんの言うとおりに日菜子は枯れた枝葉や茎を切り、色褪せた花を摘み取った。
 花がなくたって冬には冬の、枯れ草には枯れ草の良さがある、雪や霜の冬の庭を飾るため理由があって残しているものもあるのだ、とお婆さんは言った。
「草花自身も、自分の傷ついたところや弱っているところを何とか治そうと頑張ってしまうからね。これから生きて、育つところを手助けして、伸ばしてやらないといけない」
倒れかけた茎に添え木をしながら言い、お婆さんは日菜子の目をじっと見る。よく解らないけれど、日菜子はなんだか別のことを自分に向けて言われている気がした。森生はいつの間にか離れたところでちゃっかり猫と遊んでいる。
「えっと……ここにずっと住んでいるんですか?人の出入りする様子がなかったから 私……」
手を止めないようにしながら日菜子がおずおずと聞くと お婆さんは土を均しながら背中を見せたままで答えた。
「ずうっと居るよ。たまには人も来る。以前にはあんた位の女の子が二人、よく来たっけ。ここが気に入って、庭の手入れを手伝ってくれた。そのあとは 悪ガキたちが入って来ては『冒険ごっこ』とか言って遊んでた」
「女の子が二人?」
「そうそう、私のことを『花園さん』『花園さん』って呼んで……」


 土いじりや草抜きは思った以上に楽しくて、日菜子が夢中になっているうちに森生はまた勝手に帰ってしまっていた。翌日、日菜子は帰り道で後ろを歩いている越谷に声を掛けた。
「今も人が住んでいるなんて言わなかったじゃない。昔 怒られたことがあるとかは言てったけど」
「今も?」
越谷がきょとんとした顔をして立ち止まる。
「あそこに?ひとが?」
森生のことを言った時と同じように 越谷はまた、言葉を区切って繰り返す。
「お婆さん。小柄で白髪の。お婆さんの言ってた『冒険ごっこに来た悪ガキ』ってあんたなんでしょ?」
日菜子が言うと越谷は、口を開けた笑い顔のまま固まった。その後ゆるゆると驚いているような笑っているような奇妙な表情になって、日菜子の顔をしげしげと見る。何なんだ、と日菜子が少しむっとしていると
「やっぱ、お前 すごいわ。思ってたとおりや」
そう言って日菜子の両手を取ると、その手を上下に振り回した。越谷のランドセルに付いた幾つものキャラクターのキーホルダーがカチャカチャと音を立てて揺れた。

 家の鍵を忘れた。学校から帰ってチャイムを鳴らしてもノックしてもお母さんは出てくれない。買い物にでも行ったのかなと、日菜子が階段の下で座って待っていると 越谷が帰って来た。
「何や。家、入られへんのか?」
うん、と頷くと、越谷は「うちで待つか?」と言った。雨がぱらぱらと降ってきていた。今日は風も少し冷たい。引っ張られるまま日菜子は越谷の家の玄関まで行くと、森生と同じくらいの歳の弟が大はしゃぎで日菜子を出迎えてくれた。同じ間取りの家とは思えないくらい感じが違う。いかにも男の子の兄弟のいる家といった様子が、出しっぱなしのおもちゃやゲーム、壁に貼られた絵や、インテリアの色使いからも感じられた。
「おやおや あんたが女の子連れて来るなんてね」
越谷のお母さんは「まあ、どうぞ、遠慮なく」とか 「汚いところでびっくりしたでしょう」とか立て続けに言いながら床に散らばったものをぽんぽんと部屋の隅に追いやり、日菜子を奥に招き入れてくれた。

「お母さんは……どんな様子?」
ことん、と大ぶりのマグカップ日菜子の前に置いて越谷のおばさんが遠慮がちに聞いた。温かい紅茶の良い香りがする。家に連れてきたのは越谷なのに、本人は弟と奥の部屋で遊び始めている。
「実はね、おばさん、ずっとあなたとお話したかったのよ。馬鹿息子、よくぞ連れてきてくれた、と思って」
おばさんは日菜子の思ってもいなかった事を告げ、古いアルバムを本棚から取り出した。中のページを開いて日菜子の前に差し出す。
「これ、誰かわかる?」
女の子が二人、花いっぱいの庭で手を繋いで満面の笑顔を見せている。家にもこんな感じの写真があったことを日菜子はふっと思い出す。
「解る?こっちが吉崎由紀子ちゃん。こっちが私」
おばさんが指さしながら言うその名前は 日菜子のお母さんのものだ。
「ここはね、私たちの大好きだった場所『花園さんの庭』。素敵でしょ?」
薔薇のアーチと煉瓦の小道を見て、日菜子もそこがあの『秘密の花園』だと解る。けれど自然な美しさを生かすように配された、大小、色とりどりの花や様々な形の草の葉は、少女たちの笑顔と同じ、伸びやかで煌めくような「生命」を感じさせた。
「『吉崎です』って、あいさつに来た時はすぐには解らなかったけれど 後で気が付いたの。まさか本当に同じハイツに住むなんて思ってもみなかったもの。すごい偶然」
「由紀子ちゃん」は森生の目と同じ、二重の大きな目で 雰囲気も良く似ている。そういえば引っ越し先を探す時、お母さんが「一番いい思い出のある土地にしたい」と言っていたのを思い出した。お母さんは転勤の多い家の子で、田舎というものが無い。両親もすでに亡くなっていて、帰ることのできる実家もなかった。 転校が決まった時、二人で大泣きしながら「大人になったら近くに住もうね」、そう約束したのだ、とおばさんは言った。
「お母さんはおばさんに気がついていたんですか?」
日菜子が尋ねると、ううん、とおばさんは首を横に振った。
「嬉しくなってね、訪ねて行って驚かせちゃった。でも、喜んでくれて……色々話せて良かった。少しは元気が出たみたい?」
──あの頃は私なんかよりずっと元気で明るい子だったのよ。
おばさんは自分のカップに紅茶をつぎ足しながらそう言って微笑むと、日菜子の顔をまっすぐに見た。心の奥を覗き込むみたいに見つめられて日菜子は慌てて目を逸らした。
越谷と弟が戦隊ごっこを始めた。二人がじゃれ合っている声と笑い声が家の中に響く。日菜子がぼんやりと二人の様子を見ていると、越谷のおばさんはふうっと息をついてから静かに言葉を繋いだ。
「弟さん……森生くんっていうのよね」
よその人と森生の話をするのは避けてきた。お母さんはおばさんにもう話したのだ。意外だった。

 幼稚園の時 家に友達を呼んで、その後その子と喧嘩になった。
──日菜子ちゃんち、赤ちゃんなんていないじゃない。
森生の話をどんなにしても嘘つき扱いされ、日菜子ちゃんの家って変だと言いふらされた。
──弟なんていないのにベビーベッド置いて、赤ちゃんのおもちゃ並べて。
森生はずっとそばにいて、可愛い声をあげ、あの子に向かって笑いかけていたのに……日菜子は泣いてお母さんに訴えた。森生のものを勝手に触るのを咎めたから気を悪くしただけだと、悔し泣きする日菜子をお母さんは慰めた。大丈夫、きっと仲直りできるよ、と。けれどそれから日菜子は一度も人を家に呼ばず、友達を作るのをやめた。森生の方が大事だ。森生がいればいい。日菜子は自分にそう言い聞かせた。
 おばさんがお母さんの古い友達だったことも、うちのことを結構詳しく話していることも解ったけれど、やはり日菜子はどうしても森生の話をする気にはなれなかった。紅茶のお礼を言って話を切り上げ 日菜子は逃げるように家に帰った。

 日菜子が帰るとお母さんが森生の部屋を片付けていた。一生懸命になりすぎて、チャイムもノックも聞こえていなかったらしい。置きっぱなしだったダンボールの中身は必要なものを出して整理され、後は押し入れにきちんと仕舞われている。部屋はすっかり綺麗になっていた。
「森生のものは?」
片付きすぎて何もないくらいの部屋を見て、日菜子が聞くと、お母さんはいつになくしっかりとした声で言った。
「日菜子、ちょっと話がしたいの」
「何?越谷のお母さんと友達だったことなら聞いたよ。さっきまで越谷の家、寄せてもらってた」
お母さんは少しだけ驚いた顔をして日菜子を見、そうなんだ、と小さくつぶやいて微笑んだ。眩しそうな目をして見上げる窓越しの空には 夕焼けが広がっている。
「あなたに友達ができて良かった。母さんね、ずっと考えていたの。ここ、座って」
きっとお母さんは森生のことを言う。予感はあった。
「こんな風なったの、母さんが悪いと思ってる」
「なんの話?」
「日菜子はずっと『森生は居るよ』って言ってくれた。母さんね、ずっと日菜子の気持ちを考えているつもりで日菜子と同じにしてきた。でも それって母さんが日菜子に甘えていたんだと思う」

 お産の予定より何か月も前からお母さんは入院した。日菜子が三歳のころだ。留守番のお父さんと日菜子は赤ちゃんを迎える準備をして待った。今日は何を買った、何を用意した、そんな話がお母さんを笑顔にしたからだ。一緒に名前も考えた。「森生」は日菜子が一番気に入った名前だ。丸い大きなお母さんのお腹に向かって日菜子は「森生、森生」「早く一緒に遊ぼうね」と呼びかけた。──森生、森生、あたしの弟。 生まれてくるのをどんなに楽しみに待ったことだろう。

 予定日より早く、お母さんが沈んだ顔で退院してきても、ずっと泣いてばかりいても、日菜子には理由が理解できなかった。だってその日、ベビーベッドには可愛い赤ちゃんの森生が「居る」のを日菜子はちゃんと見つけたのだから。日菜子にとっては森生が「居る」ことが自然だったのだ。その日から日菜子はずっと、森生と共に育ってきたのだ。
「お母さん、森生にミルクあげよう。泣いているよ。」
「お母さん、森生、笑ったよ。可愛いね。」
お座りした、はいはいした、立った。もうそろそろミルクじゃなく、離乳食にしよう。一緒に食卓でご飯を食べよう。近所の同じくらいの赤ちゃんが育つ様子と同じに、日菜子の見ている「森生」もすくすくと育っていった。めったに外に出ないのも、幼稚園に行かないのも、「身体が弱いから」だ。用意した森生のご飯がそんなに減らないのは、極端に小食だからだ。朝、日菜子が用意してあげたお洋服が汚れないのは、森生がとてもお行儀が良くて大人しい子だからだ。
 森生の声がお母さんに届かないことは不思議だったけれど、それでも問題無い。森生の言葉はあたしが伝えるから。それで日菜子は自分を納得させた。
「日菜子、ごめんなさい、本当は日菜子だって解っていたのよね?母さん、ずっと森生が見えているふりをしていた。お父さんに聞かれたわ。それは日菜子のためか、それとも自分のためかって」
日菜子とお母さんの様子、増えていく森生の洋服やおもちゃを 食卓に並んだ森生の食事や洗濯竿に揺れる森生の衣類を、単身赴任から帰るたび父は苦しそうな顔で見ていた。
「父さんと一緒に三人でやり直したいと思ったけれど それも無理だった。でも、いい機会だと思ったの。日菜子とふたり、新しい場所できっぱりと『森生を失くした』家族になろうって。」
森生の声が聞こえない。今 森生はどこにいるのだろう。傷ついて泣いてやしないだろうか。僕は居る、僕は居るのに……日菜子は混乱して、ぎゅっと目をつぶり耳をふさいだ。
「酷い」
酷いよ。ずっと見えていなかったなんて、「ふり」をしていたなんて、どうしてお母さんが今、そんなことを言うんだ。森生は居るんだ。森生は居るじゃないか。日菜子は泣きながら家を飛び出して走った。

 家から走りだすところを越谷に見られた。
「おい、どうしたん?」
腕を掴まれて振りほどく。逃げ込む先は 日菜子にはそこしかなかった。無性にあのお婆さんに会いたかった。フェンスの穴をくぐり、草をかき分けて奥へ進む。日が陰って空はもう薄闇が広がっていた。怖いとは思わなかったがこの間の荒れてはいてもどこか温かい「花園」の雰囲気は影を潜め、猫一匹いない寂しい庭が広がっていた。家に近づいてみたが人の気配はなく、崩れかけた建物はどう見ても人が住める様子ではない。この間自分が草抜きして整えたあたりだけが柔らかな土の上に小さな花が揺れ、あの時間の痕跡を残していた。呆然と立つ日菜子の後ろから、追ってきた越谷が 「大丈夫か?」と声を掛けてきた。

「なあ、吉崎、お前、この間『お婆さんに会った』って言ったやろ?」
「うん」
「婆さんな、ずっと前にここで倒れてた。ちょうど、この辺りかな。見つかった時はもう遅くてな」
「もう遅いって……」
「ひとりで野菜とか育てて、ほとんど引きこもって暮らしてた。うちの母さんは、小さい頃友達とよく遊びに行って世話になったとかで、時々様子を見に来てた。けど、俺らの遊びの中でここは、『魔界の森』で、婆さんは『森に潜む妖怪』やった。あの婆さんは猫食って暮らしてるんや、
とか嘘で噂した。後で母さんにはめっちゃ怒られたけど」
越谷は両手をポケットに手を入れたままぐるりと周囲を見回し、隅々にいくつもある小さな朽ちかけた墓標を指し示した。そしてお婆さんが沢山の野良猫達に餌をやって世話していたこと、寿命や病気で順に死ぬのを見送っては丁寧に弔っていたこと、こまめに花を供えて祈っていたことを ぽつりぽつりと教えてくれた。
「何で、どんな人が住んでたのかお前に解ったんかな、と思った。『森生』の話もお前んち訪ねた母さんから大体は聞いた。母さんたちがどう思っているかは知らん。だけど俺はな、お前が本当に『見えるやつ』やと思ったんや。婆さんも『森生』も本当に居るって」
鳥のさえずりがひときわ大きくなった。ここを寝床にしている鳥たちが帰ってきたのかも知れない。
「ううん、そうじゃない。」
日菜子の口から掠れて小さな声が漏れた。
「え?」
森生は居ない。呼んでも来ない。もう来ないかもしれない。
──森生を失くした家族になろう。
お母さんの言葉が頭の中でぐるぐると繰り返し、日菜子は何を信じていいのか解らなくなる。足元がぐらついた。
「きっと、本当はそんなんじゃない。私、聞いてた。お父さんがお母さんに言うの。ひなこはひどいうそつきか、でなければびょうきだ。おまえがそれをじょちょうしてるんだ。いいかげんにしてくれ、もうやめてくれ……って。」
森生は居ない。花園さんも居ない。どこにも居ない。それが本当なんだ。喉のあたりが熱い。しゃくりあげて言葉が途切れ、最後は声にならなかった。
「よく、解んないけど……落ち着けって吉崎」
「退院してくるまでの間、お母さんのアルバム、あたし、何度も何度も見てた。赤ちゃんから今の森生くらいまでの。森生はお母さんそのまんま。花園さんのことだって……きっと、お母さんの思い出話で聞いてたんだと思う。『秘密の花園』のお話と一緒に。だから……」
立っているのが辛くなって 日菜子はしゃがみ込む。遠くから「ひなこーぉ」と叫ぶ声が聞こえた。──ひなこーぉ、ひなー、ひなちゃーん。お母さんが日菜子を探している。
「ひなこちゃ─ん」
越谷のおばさんの声がした。 二人の声が一旦近づいて、遠ざかる。越谷がくるりと向きを変え、出口に急ぐ。
「俺、お前の母さんに ここにおるって言ってくる」

「うそつきでびょうき」の日菜子、それが本当の自分だ。もう、本当に「生きるのがいや」になりそうだ。今すぐ消えてなくなりたい……日菜子が思った時、行きかけた越谷のシルエットが立ち止まり、もう一度振り返って叫んだ。
「なぁ、花園の婆さんに伝えてくれ。色々ごめん、って」
「越谷、あんた、いったい何を聞いてたの。だからあたしは……って」
「俺はお前のこと信じる。見えなくたって 聞こえなくたって、『絶対居ない』なんて誰にも言えん」

 お母さんと越谷のおばさんが越谷に連れられて中に入ってきたのは すっかり暗くなってからだった。お母さんは何も言わずに日菜子を抱きしめて「家に帰ろう」とだけ言った。越谷のおばさんも黙ったまま後ろから日菜子の肩を抱き、もう一方の手で越谷の頭をくしゃりと撫ぜた。力なく項垂れ、お母さんに手を引かれてハイツの前まで来ると別れ際に、今度お天気の日あの庭にお花見に行こうと、おばさんが提案した。ずっと無言で俯いている日菜子に「必ずよ」と念を押し、おばさんは日菜子と越谷の手を取って約束の指切りをさせた。


 春休みに入ってから毎日雨が続き やっと晴れた日に日菜子たちは約束を果たした。お母さんと越谷のおばさんは懐かしそうに辺りを見回しながら、あちこちで立ち止まる。日当たりのいい川沿いの斜面には遠くまで菜の花が揺れていた。「日菜子」の名前はこんな風景を思って付けたのだ、とお母さんが言った。温かくて優しくて懐かしい風景。そして庭に入るとお母さんは、ここに自分が花を植えたこと、この木に美味しい実がついて、花園さんがジャムを作り、一緒にケーキを焼いて食べたこと、かくれんぼをしたこと、花火をしたこと、焼き芋を焼いて食べたことを話した。訪れる様々な鳥の名前、小さな草花の名前、花園さんに教えてもらったことは数えきれない。思い出話をしているお母さんの顔は 久しぶりに明るく輝いて見える。この場所のすべてがお母さんに以前の元気を取り戻そうとしてくれているみたいだ。

お婆さんが倒れた場所に花を供え、猫の墓標一つ一つにも摘んだ花で花飾りを作って掛けて回った。
「倒れたその日、訪ねて行かなかったことを、ずっと後悔していたの。ごめんなさい花園さん」
おばさんがそう言って肩を落とすと、お母さんが寄り添って背中をそっとさすった。
同じハイツに住むことになったのも偶然じゃなくて、二人とも花園さんと過ごした時期の思い出が一番だったからだと日菜子は思う。きっと花園さんが二人を引き寄せた。手を繋ぐ二人に入学式の写真の小さな女の子たちの姿が被って見えた。

 小声で越谷が日菜子に聞く。
「花園の婆さん、近くに居る?森生も連れて来てるん?」
日菜子は力なく首を横に振るしかない。あの日 家に帰ってからずっと、森生の姿がぼんやりと見えてはすぐに消えてしまう。「森生」と呼んでも返事が無い。たまに日菜子を呼ぶ声が聞こえた気がしても、その先を聞き取ることができない。やっぱり森生は居ないんだ、そう思うしかなかった。

 ピクニックシートを広げ、一番大きな桜の木の下でお弁当を広げた後、越谷のおばさんが提案した。
「ねえ、今日は一日、ここを綺麗にしよう。花園さんがいた時みたいに」
──『そんなに何でもかんでも雑に抜くもんじゃないよ。せっかく花をつけた小さいものへの思いやりっていうのが必要なんだから。』
──そうそう、いつも言われたよね。『これから生きて育つところを助けて、伸ばしてやらなきゃ』って。 『花がなくたって冬には冬の、枯れ草には枯れ草の良さがある』ってね。
お母さんとおばさんが懐かしそうに言い合いながら庭を整えていく。倒れたフラワーポットを立て直し、煉瓦の泥を払う。アーチのつる薔薇をちゃんと整えてやり、鳥の水飲み場の苔や泥を綺麗にした。花園さんが教えてくれた歌や遊びの話、花輪や花冠の作り方、花の中で歌いながら踊ったこと、三人だけの合言葉、その頃いた猫たちの名前。思い出が溢れ出して尽きることが無い。

 越谷が弟を追いかけて走り回る。日菜子はシートに寝転がって目をつぶった。
──日菜子ちゃん。日菜子ちゃん。気持ちのいい日だね。
──嬢ちゃん、ごろごろしてないで 母さんたちを手伝いな。
二人の声がしたような気がして目を開けると、茶トラの子猫が鼻先を近づけて日菜子の顔を覗き込んでいた。少し離れた葉陰でサビ色の猫がこちらをじっと見ていた。

帰り道、日菜子は越谷に告げた。
「『悪ガキに言っときな。妖怪ごっこも嫌いじゃなかったって』って花園さんの声が聞こえた気がした」
「そっか」
越谷がほっとしたようなくしゃくしゃな顔をして笑う。
「でも、そんなのも嘘かもしれないんだよ。あたしの勝手な、都合のいい作り話かも」
日菜子が自信なく付け加えると、越谷は
「俺は信じる、って言うたやん」
と答え、そしてとびっきりの笑顔になって「伝えてくれて、ありがとな」と言った。

──日菜子ちゃーん、日菜子ちゃーん。
勝手に溢れてくる涙を拭いながら日菜子が振り向くと、夕焼けを映してきらきら光る川の前に森生が居た。花園さんと並んで日菜子に手を振っている。
森生だ、森生が呼んでいる。走って戻ろうとする日菜子を越谷が引き留めた。
「あそこに森生が居るの。花園さんも一緒だ」
行かせてよ、森生が居るんだから……越谷の力は思った以上に強くて振り切ることができない。
──とっとと帰りなー。親を心配させるもんじゃないよー
花園さんの声が笑っている。
──日菜子ちゃん、安心して。僕、もう怖いことなんてない。日菜子ちゃんがずっと一緒に居なくても大丈夫。帰ってあげて、お母さんのところ。

森生が言った。言ったような気がした。





《 早春、花園幻想曲 了 》





【 あとがき 】
子供を語り手にして一人称で書くと、その子の年齢での語彙がネックになります。何気なく5、6年生のちょっとませた考え方の子くらいのイメージで(=作者自身の普通の語彙で)一人称で書いていたのですが 色々状況を考えて、年齢を下げました。(=お母さん目線の都合)
となると、今度はことば選びまで見直さないといけない。回想にしたら語り手の年齢は上がるけど、「その後」をにおわせないといけなくなり、それはここでは書く気が全くなかったので却下。……というような悩みを何とか「調整」しての投稿です。


エツヤくんが何であえて関西弁なのかと読みづらい方もおられるかもしれませんが、最後の方の彼のいくつかの台詞がどうしても標準語ではしっくりこず、こういうことになりました。読まれる時はコテコテなイントネーションで無くてもかまいません。「適度にソフトな関西弁発音で」っていうのが 却ってわかりにくいかなー。すみませんがそういうことでよろしくお願いします。
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すずはら なずな

すずはら なずな

どれも短いお話ですが 
一つでも心に残ったら嬉しいな。

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